第三章 予兆

第十六話

 背を向けた女は、小さく唸りながらテーブルの上の何かをがさがさと漁っている。

 湧き上がる感情で震えそうになりながら、けいは女を睨みつけた。

 

「おい。何してんだよお前」


 馨の声に、女は手を止めて振り返る。

 そして口元に白々しく笑みを作った。


「お帰り、馨。久しぶりだね!」


 彼女の名前は一花いちはなあや

 馨の姉である。


 ◇


「マジでふざけんなよ。俺が帰ってきたの気づいたんならまず最初に声かけろや。強盗か何かだと思っただろが。ていうかアポなしで来んな」


 馨は収まらない怒りを遠慮なく彼女にぶつけた。

 しかし彼女はずっと小さく唸りながら、ビニール袋の中や大きめの鞄の中を探っている。

 

「ごめんね馨、ちょっと待って。お財布がほんとに見当たらないの。買い物した時はあったんだけど……」

「知るかそんなこと。つーかここに何しに来たの?」

「何って、ちゃんと規則正しく生活してるか見に来たんだよ? んー、あ! あった……!」


 鞄から小さな皮の財布を取り出し、綺は花が咲いたように表情を輝かせた。

 

「よかったぁ! ふふ、ここのポケットに入れてたの忘れてた」

「うるせえよ。帰れ」

「そんな風に言わないで! それと、お前じゃなくてお姉ちゃん、でしょ」


 そう言って彼女は頬を小さく膨れさせ、咎めるような視線を向けてくる。

 馨は頭を掻いて舌打ちした。

 母が以前、綺が抜き打ちでここに来ようとしていると言っていたのを思い出す。

 あのときしっかり手を打たなかった自分が腹立たしかった。


「だから合鍵渡したくなかったんだよ……ほんとにもうマジで帰って」

「どうして? あ、さっき冷蔵庫見たけど、なんにも入ってなかったよ! 自炊してないでしょ! 心配になって今近くのスーパーで色々買ってきたんだから」

「うるせえな……余計なお世話だよ」

「なあに、その言い方! その袋に入ってるのだって、コンビニのお弁当か何かでしょ? 体に良くないよ!」

「それが何。姉貴に関係ねえだろ」

「関係あるとかないとかじゃなく! ちゃんと体大事にしないと駄目でしょって言ってるの! あと、姉貴じゃなくてお姉ちゃんっ」


 馨は、子供を叱るようなこの口調がとにかく嫌いだった。

 頼んでもいないのに馨の言動を逐一ちくいち正そうとしたり、余計な世話を焼いてきたりする。

 5歳離れているとはいえ、彼女の子供扱いは度を越していた。

 

「もうっ。仕方ないから今日はそのお弁当食べていいけど、馨そもそもそれだけで足りるの? 野菜も入ってないだろうし、栄養偏るよ」


 小言が止まらない姉がスーパーで買ってきた食材は、とても一日で消費できる量には見えない。

 馨は苦々しく眉根を寄せた。


「そっちこそ何買ってきたんだよ。そんなに買ってきても、俺自炊しないから」

「大丈夫! とりあえずこの5日間は私が作ってあげる」

「はあ、あっそ……って、え? 5日間?」


 冷蔵庫に食材を仕舞いながら彼女は頷く。

 

「そうだよ。仕事休みもらったから、ちょっと早めで長めのゴールデンウィークかな!」

「そんなこと聞いてるんじゃなくて。その間ずっとここにいるつもり?」

「うん! たまには馨と二人きりもいいかなって」

「俺は嫌なんだけど」

「そんなこと言わないで。話し相手いなくて寂しくなる頃だったでしょ?」

「なわけねえだろ。大学にたくさんいるし」

「でもここにはいないでしょ?」

「別にそれで困ってない」

「馨、どうしてそうやって冷たい言い方ばっかりするの? 疲れてるの?」

「…………」


 このまま拒み続けてもらちが明かない。

 彼女には何を言っても通じないのだ。昔からいつもそうだった。

 馨は早々に諦めることにした。

 

 ◇


 普段通りテレビを観ながら弁当を食べる。

 ここのところは、焼肉弁当にまっていた。

 

「……」


 テレビからキッチンへと視線を移す。

 綺が当たり前のようにそこで背を向けて作業している。

 せっかくの一人暮らしを早くも邪魔しに来た彼女が憎い。

 馨は肩を落として深く溜め息をついた。

 

 そうとも知らず、彼女は振り返って平皿をテーブルに置く。

 中には炒め物のようなものが入っていた。


「はいどうぞ! あまり手は込んでないけど。野菜摂らないとダメなんだからね?」

「……どうも」


 さらに彼女はキッチンで作業を続けたあと、テーブルにいくつか簡単な料理を並べた。

 そして満足げに嘆息し、エプロンを解く。


「私もお腹空いちゃった。いただきます」


 彼女が向かいに座ったので、馨は食事のスピードを早めた。

 彼女の小言を聞きたくないのもあるが、そうでなくても何となく居心地が悪いのだ。


「ねえ、馨」


 しかし残念なことに、あと少しで食べ終えるというところで彼女が呼びかけてきた。

 

「今後はさ、実家に顔見せに帰ってきてね。まあ今回は、私が抜き打ちで来ちゃったからいいんだけど……馨がいないと、すごく寂しいから」

「え、寂しい? 母さんなんて何日かに一回電話で話してるのに」

「でも、直接顔見るのとは違うんだよ、やっぱり」

「……ふうん。まあ、夏休みに帰るから。アレもあるし」


 とは少し前に母と電話で話した、曽祖父の家で行われる行事「シラハオリ」のことである。

 綺はその単語を聞いて苦笑いを浮かべた。


「ああ、シラハオリね。でも、それ以外の時にもたまに帰ってきてね? お母さんも会いたいってよく言ってるから」

「そんなに顔見たいのかよ。ビデオ通話でもする?」

「そうじゃなくて……ちゃんと帰ってきてほしいんだよ。例えばほら、連休の時とかでいいから、月に一回くらい」

「え。いや、それはさすがに無理。俺も暇じゃないし」

「か、かもしれないけど! できる範囲でいいから、ね?」


 そう言いながら、彼女はなぜか視線を泳がせる。

 何とも妙な仕草だ。

 しかし彼女のこういう態度は今に始まったものではなく、彼女が大学生になったくらいの頃から徐々に増えた印象がある。

 鬱陶しいだけでなく、意図がよく分からなくてとにかく謎だった。

 

「できる範囲でって言われても、帰るのに時間も金もかかるし正直しんどいわ。なんでそんな帰んなきゃいけないわけ?」

「さっきも言ったでしょ。寂しいし、馨のことが心配だから」

「それだけ? 他に何か理由あるんじゃないの」

「えっ? な、ないよ」

「……ふーん。あっそ」


 馨は溜め息をついて立ち上がった。

 家族の隠し事に興味を持つことは、もうずっと前にやめていた。


「あ、ちょっと馨! まだ話終わってないよ」

「たまに顔見せろって話だろ。はっきり言わねえと伝わらんみたいだから言うけど、俺はその気ないから」

「えっ! ど、どうして?」

「分かりきったこと聞くなよ。……シャワー浴びてくる。野菜炒めご馳走様」


 彼女が悲しそうに口をつぐんだ隙に馨は食器を片付け、洗面所へ向かった。

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