第十五話
5月1日の昼前。
空き講の時間、
丸いローテーブルを挟んで目の前には、煙草を吹かす男性が一人
洒落たツーブロックのヘアスタイル、耳にはいくつもの無骨なピアス。
シンプルな黒のシャツの襟元にはシルバーのチェーンネックレスが覗く。
そして
彼はこのサークルの部長で、名前は
副部長の
「それじゃあ、入部ってことでいいんだな。
「はい」
東の問いに馨はしっかり頷く。
すると、東の斜め後ろに座っていたウェーブパーマの女性、
「えーと、じゃあよかったらMINEのID教えてもらいたいんだけどいい? 一花くん」
彼女は馨が
彼女が東の隣にいてくれるだけで、緊張感はかなり緩和される。
「連絡事項は基本的にグループMINEになるから。ライブやるって時に概要送ったりとか」
「はい。分かりました」
「確か、一花くんはもう知ってるよね。来月末にライブやる予定なの」
熊澤の言葉に反応して、背筋が伸びた。
「はい、知ってます」
「入部した新入生同士でバンド組んでもらう予定なんだけど、その参加報告もMINEで──」
「あ! そのことなんですけど、もう俺バンド組んだんです」
「え?」
熊澤は目を瞬かせて首を傾げた。その隣で、東も訝しげに馨を見る。
「メンバーは俺の他に
「お、おぉー……そういうことね」
馨が少々早口に
「ちなみにまだ誰も来てないかなー。てか入部希望の申し出、今日始まったばっかりだし。君が来るの早すぎるんだよ」
「あ……そうなんすね」
たまたま空いている時間だっただけだが、そう言われてしまうと気恥ずかしかった。
「いやぁ、でも熱心な感じでいいよ。ねぇ、東」
熊澤が嬉しそうに話を振る。
だが東はこれといって賛同せずに、灰皿に灰を落とすだけだった。
「あ、あとこれ、暗黙の了解なんだけどさ」
無言の東の代わりに熊澤が話す。
「うちの大学、軽音系サークルは3つあるんだけどね、掛け持ち禁止なんだ。色々あって」
「なるほど……そうなんですね」
「うん。まー、仲も悪いしねぇ。学祭ライブで会場にする場所の取り合いになったりさ。何かと厄介だから、不必要に関わらない方がいいかも」
「そうですか、分かりました」
「うん。あ、さっき君が言ってたバンド、まだ早いけどライブの参加報告として受け付けとくわぁ。曲数とかは、また改めて指示出すよ」
「はい! よろしくお願いします」
自分でも珍しく思うほど溌剌に返事をする。
今までの人生で許されてこなかった夢がさらに現実味を帯びて、馨の心は湧き立っていた。
◇
帰りの地下鉄の中。
馨は寧々との個別MINEのトークルームを開いていた。
彼女に向けてメッセージを入力していく。
内容は、今日部室でバンドの参加報告を済ませてきたことを知らせるものだった。
本来なら組んだバンドのグループMINEで言うべきだが、悠大と鉈落には講義の前に出くわした時に話してしまった。
つまり、その二人にとっては重複してしまう情報なので、改めてグループMINEで言う必要はないのだ。
理由はそれだけであって、やましいことは何もない。
必死にそう言い聞かせて、馨は打った文章を見直す。
そして気が変わらない内に送信した。
送ってしまった、と緊張を噛み締める。
個別で連絡をした理由もさりげなく打ったが、下心を隠すための弁解と取られないだろうか。
不安と期待の数十秒を経る。
手の中でスマートフォンが小さく振動した。
席から立ち上がりそうになるのを抑えて返信を開く。
〈お疲れ様!ありがとうー❀じゃあ、このあいだ決めた曲の練習に取りかかっていいのかな!?((*°ω°*))もう個別でしてるけど!笑〉
文章を読んだだけで、胸に切ない痛みを感じた。
純真な彼女の性格が文全体に表れている。
それは、どんなに紳士を気取った返信文を打っても自分が気色悪く見えるほどだった。
やっとのことで考えた文章を送信する。
〈やる気すごいね(笑)俺も安心院さん見習って頑張るわ〉
〈うん!一緒にがんばろーね(っ´ω`c)*゚✧〉
間を置かず返ってきた返信にまたしてもときめかされ、馨は溜め息をついた。
◇
地下鉄を降りてぼんやりしながら住宅街を歩く。
自宅までは徒歩15分ほどだ。
東大路通などの街中と違って味気ないが、住むならこの辺りがちょうどいい。
あまり
冷蔵庫の中に、今日の夕飯になるようなものが何もないことを思い出して立ち寄ることにする。
ちゃんと自炊しなさいよ、という母の言葉はもう記憶の彼方だった。
たいてい今カゴに入っているような弁当や惣菜、インスタント食品で済ませている。
やっと実家を離れることができたのだから、少しの間は自由にしていたかった。
暗くなり始めた空を眺めて歩いている内にアパートに到着した。
部屋の中に入り、後ろ手でドアを閉める。
そしてそれと同時に、馨は目を
廊下の先に見えるリビングの電気がついている。
靴を脱がずにその場で立ったまま考えた。
昨夜はリビングの電気をきちんと消して寝たはずである。
忘れるのはあり得なかった。
つけたままにしておくと寝室のドアを閉めても光が漏れてきてしまい、気になって眠れないからだ。
万が一たまたま昨日は気にならず消し忘れて寝たとしても、今朝起きた段階で気がつく。
だからやはりあり得なかった。
そこはかとない不気味さを覚えながら、馨は音を立てないように靴を脱いだ。
忍び足で廊下を進む。
リビングから、かさかさと音が聞こえる気がする。
しかしそれよりも自分の心臓の音が大きくて邪魔だ。
心の中に恐怖が生まれていく。
何がいる?
鼠か、ゴキブリか、はたまた強盗か。
それとも。
右手の拳を強く握ってから、馨は意を決してリビングを覗いた。
眩しい白の照明の真下、テーブルの前。
こちらに背を向けて──長い黒髪の女が立っていた。
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