第十四話
「恋の、おまじない?」
互いに目を逸らせないまま、じっと見つめ合い──
「な、なななななんてねっ、冗談っ! ちょっとカッコつけちゃったっ」
「え?」
寧々はサンプル本を閉じて慌ただしく棚に置いた。
そしてビニール包装された新品を取ると、狭い通路を小走りで駆けていく。
「っあ、安心院さん?」
「お、おおお会計、してくるからーっ!」
◇
会計が終わって店を出たところで、
「ご、ごめんね馨くん……っ」
寧々は済まなそうに顔の前で両手を合わせた。
「私その、ちょっと、カッコつけちゃったというか、気取っちゃったというかっ!」
「ああ、そうなんだ……別に大丈夫だよ」
馨は、少しでも期待した自分を愚かだと思った。
彼女の行動に、好意や下心はない。
ただ彼女は純粋で茶目っ気があるだけなのだ。
「じゃ、じゃあえっと、次は駅の方に行こっかっ! はあぁ、変な汗かいちゃったっ、恥ずかしいっ」
彼女は顔を手で
駅に向かって歩き始めたが、彼女はやたらと早足だった。
時折自らの痴態を思い出すのか、小さく悶えたり唸ったりしている。
横で見ている分には可愛い上に面白いが、本人は恥ずかしくてたまらないのだろう。
雑貨屋に来た時に渡ったスクランブル交差点に差しかかった。
ちょうど信号が赤になったので立ち止まる。
しかし、その隣で寧々は止まらずに車道へ出ていった。
「え、ちょっと、安心院さん。赤信号!」
咄嗟に彼女の可愛らしいリュックを掴んで強く引っ張る。
彼女は両手をばたつかせ、
「わっ! あれっ赤っ? あわわわっ!」
あわわわはこっちの台詞だ、と内心思いながら馨は息を吐いた。
「危ないじゃん。ぼーっとしすぎだよ」
「あっ、うぅ、ごめんなさいぃ」
「俺も急に引っ張ってごめん。……足
「うん……それは大丈夫だよっ」
彼女は店での振る舞いをよほど恥じているらしい。
そうでないとこんなに上の空になるわけがない。
やっと信号が青になって、二人歩き始める。
「私、今日ダメダメだねっ。案内してあげるって自分から言ったのに、なんかお店で変なこと言っちゃうし、信号無視しちゃうしっ……あぁぁ」
彼女は肩を落として嘆息した。
確かに道路に飛び出したのは彼女の不注意かもしれない。
だが、街案内しようと思ってくれた彼女の思いやりは十分伝わっていた。
彼女が自分に特別な感情を抱いていなかったとしても、幸せなことには違いない。
「そんなことないよ。俺は楽しいよ」
「えっえっ! ほんとっ?」
寧々は横断歩道を歩きながらぱっと馨を振り返る。
驚いているようだったが、目が輝いていた。
「うん。街の中まともに歩くの初めてだったし……安心院さんとも話せたし」
「えぇっ! わ、私っ?」
馨の方をよそ見しながら歩くせいで、彼女の足取りはよたよたしている。
目を向けてくれるのは嬉しいが、危なっかしいのでやめてほしいと思った。
「わ、私も楽しいよっ! 馨君ともっとお話したいなってずっと思ってたのに、なかなかその、タイミングとか合わなかったからっ。MINE、歓迎会のときに交換しておけばよかったーってもう何回も後悔し──わっ!」
交差点を渡りきる直前、寧々は僅かな縁石に
「! 危ないっ」
「え、ぁっ……!」
さきほどのこともあって、わりかし迅速に彼女を支えられた。
お陰で転倒するのは免れたが、躓いたときに彼女のトートバッグが吹き飛んでしまっていた。
かなりの勢いだったのか、中に入っていた弁当箱とスマートフォンがアスファルトに飛び出している。
「うわ、安心院さん、携帯やばいかも」
「あっ……え、あ……」
呆然として動かない寧々の代わりに、馨はそれを拾いに行った。
弁当箱はバッグに戻し、スマートフォンを拾って裏返す。
幸い画面に目立った傷はないようだ。
「よかった、セーフっぽい」
そう言って彼女を振り返る。
彼女はまだ立ち尽くしていた。
同じタイミングで交差点を渡ってきた人々が、二人を避けて通り過ぎていく。
「? 安心院さん、どうしたの」
彼女の方に歩み寄る。彼女の目はまっすぐ馨を見ているのに、呼びかけには応じない。
歩行者用信号が赤になり車が走り始める。
馨は歩道の端に突っ立っている彼女の腕を、恐る恐る掴んで引っ張った。
「ほ、ほら、車道近いから危ないよ」
腕を引かれるまま彼女は車道から離れる。
しかし、街の明かりを宿してきらきら輝く瞳は、ずっと馨から逸らされない。
「安心院さん……?」
「……馨くん」
突然、彼女は口を開いた。
何かを期待しているような、乞うような、そんな表情で。
「馨くんは、何とも思わなかった……?」
「え? 何のこと?」
「私が──」
寧々がそう言いかけたとき、馨の左手の中で彼女のスマートフォンが長く振動した。
反射的に視線を下ろす。
点灯した画面には「亮輔」という、着信相手の名前が表示されていた。
馨が顔を上げる前に、彼女はあっと小さく声を漏らして馨の手からスマートフォンを取った。
そして小さくごめんなさい、と言って電話に出る。
その表情は少し強張っていた。
「あっもしもし……うん。今、東大路通の、交差点、うん。ちょっと……本買いに行ってたの」
街の騒めきに掻き消されて相手の声は全く聞こえてこない。
恋人、なのだろうか。
急に涌いて出た嫌な予感が、馨の頭の中で駆け巡る。
そしてそれと同時に、歓迎会のときの着信も同じ人物からだったのではないかと胸騒ぎがした。
「たった一駅だし、一人で帰れるから待っ…………ごめんなさい。う、うん……分かった」
終始緊張したまま彼女はそう言って、通話を切る。
気まずそうな顔をする彼女が何か言う前に、馨は切り出した。
「だ、大丈夫? もしかして今のって……彼氏さんとか?」
動揺したそぶりを見せないように何気ない口調で尋ねる。
しかし彼女はスマートフォンを両手で握り締め、激しく首を横に振った。
「ち、違うよっ! 今のは、お母さん!」
「え? でも、ごめん……名前、男の人っぽかったから」
本当はそうであってほしくないのに、確認しようとしている。
我ながら気持ち悪いことをしていると思った。
「りょ、亮輔は、お兄ちゃんの名前! お母さん、携帯とか持ってないの。使いこなせないから! だからお兄ちゃんの携帯で、駅まで迎えに行くからって電話してきたのっ。いつもこうなんだっ」
「ああ……そうなの?」
確かに彼女は家族と暮らしていると言っていた。
娘の帰りが遅いから親が心配するのは、何ら不思議なことではないが。
「うん! 私は地下鉄で帰るって言ったんだけどね、遅いから……駄目だって」
そこで少し彼女の表情に
「私の家、厳しいの。いまだに門限もあるし」
「……そっか」
頷きながら、馨は自分にもかつて厳しい門限が課されていたことを思い出した。
「とりあえず、駅まで行こうよ」
そう言いながら寧々にトートバッグを渡し、駅の方を指す。
彼女は小さく頷いた。
駅の地下に繋がる階段の前まで来て立ち止まると、寧々は申し訳なさそうに眉を下げた。
「馨くん、ごめんね。ほんとはもうちょっと長く、一緒にいたかったのに……」
「仕方ないよ。また、その……機会があったら、どこか案内して」
さりげなく言ったつもりでも、ぎこちなさが出る。
また二人で遊びたいという意思を伝えるのは、馨としてはほとんど告白に近い勇気が必要だった。
寧々は先ほどからきつく引き結ばれていた口元に、ほんのり笑みを浮かべて頷く。
「うん、ありがとう……馨くん」
「こちらこそ。それじゃあ、また」
「あ、ま、待って!」
踵を返しかけて止まると、彼女はすっと右手を差し出してきた。
「あの……馨くんっ。こ、これからも、よろしくねっ」
握手ということなのだろう。少し大袈裟に思えるが、彼女らしい気もする。
馨はどぎまぎしつつ、躊躇いを見せないように彼女の手を握った。
「こちらこそ、よろしくね。安心院さん」
「うん……!」
柔らかくて温かい手だった。
ずっと触れていられたらいいのに、と馨は密かに思った。
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