第十一話
それから数日。
暇さえあればほぼ毎日部室に顔を出していたが、
その上、部室に行った際には部長から新入生最初のライブの概要を聞かされ、ますます焦りに拍車がかかっていた。
加入する予定の新入生が多いため、各個人が組めるバンドの数を1バンドに制限するらしい。
つまり、もしも寧々が他の誰かに誘われてOKしてしまったら、彼女との接点を持つ重要なきっかけを失ってしまうということだ。
実際は冷静に考えればそんなこともないのだが、今の馨は完全にそう思い込んでいた。
恋とは認めたくないにもかかわらず、大学で、最寄駅で、そして夢の中でさえも、彼女を探していた。
◇
この日も彼女に会えないまま、一日の講義を終えた。
今馨がいる通称「B館」という建物は、隣の真新しい中央棟と違って夕方以降は
静かで寂しげだ。
唯一響く自分の足音をぼんやり聴きながら、階段を降りていく。
「……?」
しかし、2階まで来たところで馨は立ち止まった。
微かにピアノの旋律が聞こえたのだ。
清らかで落ち着いた音に興味をそそられ、耳を澄ます。
この建物にはピアノはないはずだが、明らかに廊下の先から聞こえてきていた。
焦る心が、宥められるような音色。
馨はそのまま1階には降りず、音の出どころを探して廊下を進んだ。
突き当たりの角を曲がると、無機質な白い壁に似合わない木製のドアがあった。
そのドアを見た瞬間、馨の中であっさり謎が解ける。
B館の隣には、小さなチャペルがあるのだ。
そしてこのドアの向こうにあるのは、そのチャペルの2階席。1階の祭壇の傍にはパイプオルガンと、グランドピアノが置いてある。
そのピアノの音だったのだ。
そういえばスピーキングクラスのオーストラリア人講師が「今度の祝日にピアノコンサートがある」と話していたのを、馨は思い出した。
今の時間に礼拝やイベントがあるとは考えにくいので、恐らくそのコンサートの練習なのだろう。
この扉は礼拝などのとき以外は施錠されていて開かないが、ピアノの音はドアの外でも十分に聴こえる。
曲に聞き覚えはなかったが、その美しく馴染みやすいメロディはどことなくアリアのようだと思った。
外が薄暗くなるこの時間、暖色の淡い照明が灯されているだろうチャペルの中を想像する。
──ふと、ドアの向こうからピアノとは違う小さな音が聞こえた。
視線を上げる。
目の前で、古びた金色のドアノブが回った。
そしてゆっくりと、ドアが開き始める。
ピアノの音がより鮮明に流れてくる。
中から姿を現したのは、安心院寧々だった。
「わっ、えっ!? 馨くんっ……!?」
寧々は目を丸くして声を上げながら、慌てて後ろのドアを閉める。
「あ、安心院さんっ? なんで、ここに?」
ずっと探していた彼女が目の前にいる。
驚くのと同時に、嬉しくて顔が緩みそうになる。
彼女は淡いローズピンクのワンピースの裾をぎゅっと握って馨を見た。
「あああのね馨くん、私ここが立ち入り禁止だってちゃんと知ってるんだよっ? でもでも、ここ通ったときにすごく綺麗なピアノの音が聞こえたから、だめ元でドア開けたら開いちゃって! どんな人が弾いてるんだろって、一目見たかったの……! ごめんなさいっ!」
「い、いや。俺に謝られても」
「ああっそっか……! そうだよね、ごめんねっ。ちょっと動揺しちゃったっ」
彼女は顔を赤らめて頬に手をやったあと、照れたように笑った。
「それにしても、偶然だよねっ。馨くんもピアノに釣られて来たのっ?」
「ああ、うん。そう」
「やっぱり! すごく、惹かれる音色だもんねっ」
「うん」
平静を装って
せっかくの好機だ。どうにかして自然に、彼女をバンドに誘わなければ。
脈絡がなければ、下心を疑われる。
自然に、さりげなく。
「あ、そうだ。ね、ねえ、安心院さん」
「?」
「そういえば
「あっ、そうなの? ううん、初めて聞いたよ!」
彼女の返答に、内心馨は安堵した。
知らないということは、まだ誰にも誘われていないのだ。
「そっか。それがさ、入部した新入生も
「えーっ、そうなんだ! それすごい! 絶対楽しいよねっ!」
「うん。俺もそう思う」
「想像しただけでドキドキだねっ。まだ誰とも組んでないけど! えへへっ」
寧々はそう言って照れくさそうに笑う。
そのいじらしい振る舞いに見惚れながら、馨は意を決して口を開いた。
「あのさ、安心院さん」
「ん?」
「そのライブなんだけど。もし安心院さんさえ良かったら、俺と一緒に、出てくれないかな」
「…………えっ! え、ええっ!?」
寧々は顔を真っ赤にして声を上げる。
「わ、わわわ私っ? だ、だけど、私っバンドは本当に初心者だよっ……いいのっ?」
「そんなこと言ったら、俺だって経験ないし。でも俺は、その、安心院さんと一緒にできたら、楽しいかなって思って」
「あうぅっ……」
控えめな胸に手を当てて、彼女は目をぎゅっと瞑る。
突拍子のない誘いで戸惑わせてしまったかと馨は不安になったが、彼女は数拍置いたあと、頷いて目を開けた。
「あの、じゃあっ……わ、私で良ければ……その、よろしくお願いしますっ」
「! ほんと?」
「はい……っ」
恥ずかしそうに小さく頷く彼女を見て、馨は愚かなほど舞い上がった。
「やった……! 俺こそ、よろしく」
「うん、うんっ。あの、私はキーボードでいいんだよね?」
「そう! ギターとボーカルは俺で、ベースは
「んっ!? ちょっと待って! 馨くんが歌うのっ!?」
「ああ、うん、一応」
「すごいっ! 何でもできるんだねっ。私なんて鍵盤弾くだけだし、憧れちゃうなぁ! 馨くんの歌、早く聴いてみたいっ」
大きな目を輝かせて見上げられ、馨は気恥ずかしくなって少し言葉に詰まった。
しかし、寧々はそれに気づいたようで目線を下に下げる。
「あ……ご、ごめんなさいっ。話の途中だったねっ」
「ううん。えっとそれで、ドラムは
「あるよっ! ちょっとだけだけどっ」
「二人ともいい奴だよ。もし安心院さんが嫌じゃなければ……のちのちグループMINE作りたいから、連絡先教えてほしいんだけど、いいかな」
彼女が歓迎会で、連絡先の交換に対して「心の準備ができていない」と言っていたのは覚えている。
断られるかと心配したが、彼女は何か決意したように頷いた。
「うんっ、いいよ! む、むしろ歓迎会で馨くんから言ってくれたのに断ってごめんねっ」
「いや、全然。俺こそ、あのときは馴れ馴れしくてごめん」
「そんなことないよっ」
彼女が差し出した携帯の画面からコードを読み取り、彼女のアカウントを登録する。
メッセージ代わりに手近なスタンプを送ると、彼女はじっとそれを見てから顔を上げた。
「あ、ありがとっ! これからその、改めてよろしくねっ」
「うん。こちらこそ」
浮かれる気持ちを抑え、彼女に笑顔を向ける。
彼女は相変わらず頬を赤く染めたまま馨に手を振った。
「そ、それじゃあねっ! ちょっと私、図書館に用事があるからっ」
「ああ。うん、またね」
「うんっ!」
ばいばい、と言って彼女は小走りで去っていった。
その背中を見届けてから、馨は一人小さく喜びを噛み締めた。
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