第十話

 容赦ない衝撃を受けて床に倒れたけいの上に、ぶつかった人物も倒れ込んできた。


「ぐっ……!」


 かなりの重量に押し潰されて声が漏れる。

 

「や、あぁ、嘘っ、どうしよぉ〜〜!!」


 叫び声を上げて馨の上から退けたのは、ロリータファッションに身を包んだ、背の高い黒髪の女性だった。

 余りに大きな声で叫ぶので、周囲の注目を浴びている。


「ごめんなさ〜い!! 大丈夫!?」

「あ、ああ、はい……」

「全然前見てなかったぁ〜! ほんとに怪我とかしてませんか!?」

「はい……ほんとに、俺は大丈夫です」


 馨は何とかそう言って立ち上がり、彼女を見上げた。

 彼女の目線は馨よりもかなり高い位置にあり、ざっと見積もっても10cm以上の身長差があった。

 それでいささか驚く馨をよそに、彼女はおろおろと辺りを見回す。


「い、医務室行かなくて平気かなぁ!? もし骨でも折れたりしてたら……!」

「ヤッシー? どうしたのー? すごい絶叫だったけどー」


 そのとき、実習室からもう一人女性が出てきた。

 くすみを含んだ桃色に染まったツインテールに、白と黒のゴシックなワンピース。

 それを視認した瞬間、馨は反射的に逃げ出しそうになった。


 彼女こそが、探していたが全く会いたくない人物、高蜂谷たかはちや謳香おうかである。

 高蜂谷は馨を見ると、目をらんと輝かせた。


「あれー? いっちーじゃん!」

「……お、お疲れ様です。高蜂谷先輩」

「え!? 謳香、この男の子と知り合いなの!?」


 ヤッシーと呼ばれていた背の高い女性は、高蜂谷にすがりついた。

 高蜂谷は厚底の靴を履いているのだが、それでもヤッシーの方が遥かに背が高い。


「私今ね、この子とぶつかっちゃったんだ! 謳香の大事な後輩くんだった!? ごめんね!!」

「うん、それよりヤッシー、早く教授のところに行ってきなよー。呼び出し食らったんでしょ?」

「あぁ、そうだった……!! ごめんなさい、後でちゃんとお詫びします!!」


 ヤッシーはあたふたしながら馨に頭を下げ、再びものすごい勢いで廊下を駆け抜けていった。

 慌ただしい騒がしさが去り、馨の中に緊張が走る。

 高蜂谷はにこっと微笑んで馨に近づいてきた。


「いっちー、会えて嬉しいよ! 今の時間は空き講なのかなー?」

「は、はい。澤田先輩から連絡来てませんか? これ届けに来たんです」


 馨は彼女にスマートフォンを差し出した。


「わー、ありがと♪ いっちーが来るとは聞いてなかったけど、予想外で嬉しいっ!」

「それは良かったです。じゃあ、俺はこれで」

「待てやお前」


 踵を返したところで、がしっと腕を掴まれた。

 高蜂谷の細い指が服越しに肌に食い込む。

 ドスの効いた低い声で、彼女は囁いた。


「なにさっさと帰ろうとしてんだよ。私に会いたいからこの役買って出たんだろ?」

「! は、はい。そう、です」

「……あはっ♪ そうだよね!」


 ぱっと馨の腕を解放し、高蜂谷は一転して明るい声音で言った。


「それじゃあおいで? いっちー。お菓子たくさんあげるから♬」

「あ、あざす……」


 彼女に手招かれるまま実習室に入り、窓際の席に連れて行かれる。

 隣の空いた席に馨を座らせると、彼女は大量の飴や個包装のチョコレートなどをデスクの上に置いた。


「召し上がれ♪」


 そう言ってにこにこと見つめてくる。

 市販の菓子なのだから安全なことに違いないが、毒入りと錯覚してしまう。

 それほど、彼女は馨にとって恐ろしかった。

 とにかく機嫌を損ねてはならない。

 勧められたチョコレートを馨が一つ口に入れると、高蜂谷は嬉しそうに笑った。


「いっちーは可愛いね♪ 忘れ物も届けてくれるし、懐いてくれるしっ」

「あ、はい……どうも」


 彼女の意識を自分から逸らしたいと馨は思った。

 このままではヘビに睨まれたカエル状態だ。

 必死にそのきっかけを探し、馨は彼女の前のパソコンに目を留めた。


「せ、先輩、レポート書いてるんですか」

「あーうん。そうなの! これがちょーメンドクサイんだぁ」

「何の講義ですか?」

「アメリカ文化って講義だよ。でも無駄話ばっかりでぜーんぜん進まないし、ワケ分かんないの。北郷ほんごうって教授なんだけど、私はポンコツって呼んでるんだぁ」

「ひでえ……」

「んー? 何か言った?」

「い、いえ、何も」

「とにかく中身のない講義だからさぁ、レポート書けないんだよねーっ」


 頬を膨らませながら、高蜂谷はマウスをころころと操作する。

 確かに、レポートは用紙2枚目の半ば辺りで止まっていた。

 どうやってこの場から上手く逃げ出そうか考えつつ、馨は彼女に同調する。


「困りますね。興味が湧かないと、余計に進まないですしね」

「そうなの! 講義のレジュメじゃなくてポンコツあいつの好きな小説家のインタビュー記事とかばっかり刷ってくるし。いらねっつーのー」

「そうなんだ……自由な人ですね、その教授も」

「ほんとそうだよ! 自由すぎていっそ講義に来なきゃいいのになー」


「謳香ぁ〜!!」


 その時、さきほど聞いたばかりの嘆かわしい声が実習室に響き渡った。

 声の方を見遣ると、ヤッシーがよたよたとこちらへ向かってきていた。


「あ、ヤッシー。もう戻ってきたのー?」

「案外早かったぁ〜! この間の無断欠席の話だったけど、何とか許してもらえた〜!」

「そうなんだぁ。良かったじゃーん」

「うん! もう疲れちゃった!! 研究室のドア、力いっぱい開けちゃって無駄に怒られたし〜!」


 ヤッシーは高蜂谷の背後にある席の椅子に勢いよく座った。

 ギギッと椅子が不穏な音を立てる。

 

「もうほんと焦った〜……あっ!!」


 そこでやっと高蜂谷の隣に座る馨に気がついたのか、ヤッシーは再び立ち上がった。


「そうだ、君、さっきは激突しちゃってごめんなさい!!」

「いえ……別にどこも怪我してないですし、もう大丈夫ですよ」

「でもでも謳香のサークルの後輩くんなんだよね!? じゃあバンドマンだよね!? 私ひどいことしたよね、バンドマンは身体が大事なのに!!」

「? ええ……」


 バンドマンでなくても身体は大事だと思ったが、馨は何も言わなかった。


「ちゃんとお詫びさせて! 私、天満屋敷てんまやしき いとです!! えっとえっと君は」

「あ……俺は、一花いちはな馨です」

「一花さん!! この度は本当に…………、えっ?」


 ヤッシー改め天満屋敷てんまやしきは、土下座しようと床に膝をついたところで顔を上げた。

 次第に、開いた口があわあわと動き出す。


「い、一花……? 一花って……え? いや、ま、まさか……いやでも……え、そんな、嘘」


 馨を見つめる彼女の顔は、みるみるうちに青くなる。

 対する馨はわけが分からず眉をひそめた。


「俺の名前……何か変ですか?」

「あっい、いえ、その……っ」

「んー? ヤッシー、いっちーの知り合いなの?」


 高蜂谷が首を傾げて彼女に尋ねる。

 しかし馨の知り合いに「天満屋敷」という変わった苗字の人物はいないはずだ。

 

「俺のこと、知ってるんですか?」

「いや……いや、あり得ない……だって、ここにいるわけがない、はずだから……」

「あの、天満屋敷さん……?」


 顔を伏せてぶつぶつと言い始めた彼女を覗き込もうとしたとき、彼女は急に顔を上げた。


「い、一花さん! 一つだけ聞いてもいいですか……!?」

「は、はい……?」

「あの、出身地は! 一花さんの出身地はどこですか!?」

「北海道、ですけど」


 特に勿体振もったいぶらずにそう言うと、天満屋敷は震えながら不自然に目を泳がせた。


「なっ、なるほどぉ〜。でしたら、ひ、人違いでしたです」

「え?」

「ひ、人違いです! ほんとに、ほんとに人違いでした、恥ずかしい〜……さ、さぁて、レポートやらなくちゃぁ」


 天満屋敷はふるふると首を振り、何事もなかったかのように再び椅子に座った。


「ちょっとヤッシー、人違いって反応じゃなくなーい? なんか嘘ついてなーい?」


 高蜂谷が怪訝そうに天満屋敷の座る椅子を蹴ったが、彼女は黙ったまま振り向かない。

 妙な展開のせいで気まずい空気が流れる。

 しかし人違いだと言い張るなら、これ以上問い詰めようもないと馨は思った。


「あ、あの……それじゃ俺、そろそろ行きます」

「え? あ、うん。じゃあねいっちー。アディオス♪」


 高蜂谷は、先ほど馨を引き留めたときとは打って変わってあっさりと手を振った。

 彼女もさすがに気まずい空気を感じ取ったのかもしれない。

 馨は背を向けて微動だにしない天満屋敷を一瞥してから、その場を後にした。

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