第九話

 その翌日、午前10時ごろ。

 けいは学内サークル全ての部室が入っている建物、通称「サークル棟」の階段を上っていた。

 目指すはその4階にある、warehouseウェアハウスの部室。

 唯一馨が、安心院あじむ寧々ねねに会える可能性が高い場所だ。


 当然、昨日鉈落なたおちに彼女を誘うよう頼まれたすぐあとにも訪れたのだが、残念ながら彼女には会えなかった。

 だからこうして、今日の講義が午後からなのにも関わらずここに来ている。

 

 馬鹿みたいだ、と馨は我ながら思った。

 彼女をバンドに誘うこと自体は慌てる必要など全くないのに、彼女を探すことに執心しているのだから。

 一目惚れでここまで躍起になる自分が恥ずかしくて、馨はこれを恋ではなくだと懸命に言い聞かせていた。

 


 無心に階段を上りきり、部室にたどり着く。

 さまざまなロックバンドのステッカーが貼られた分厚い鉄の扉の前に立つと、期待と不安で鼓動が早まるのを感じた。

 寧々が中にいるのを想像しながら、固く冷たいレバーを掴んで下げ、扉を押し開ける。

 

「……あ」


 室内に足を踏み入れたところで、馨は思わず固まった。

 中には三人の先輩がいて、扉の音で気がついたのか皆こちらを見ていた。


 音楽サークルだというのに誰も楽器に触っておらず、全員が煙草を吸っているせいで天井付近は微かに白く煙り、張り詰めた静けさが漂っている。


「あーえっと……」

  

 寧々に会えず落胆する気持ちが、本能的な危機感で霞んでいく。

 彼女がいないのなら、むざむざこの中に入る必要はない。

 馨は目を逸らして後退あとずさりしながら頭を下げた。


「済みません、失礼しました、帰ります」

「おい、ちょっと待て、一花いちはな。お前こっち来い」


 ラズベリー色の髪の女性が、煙草を持った手で馨を手招いた。


「な、何ですか」

「いいから来いや」

「…………はい」


 凄まじく逃げ出したかった。

 しかし、従わなければ恐い目に遭う。

 すでに何度か彼らに会っている馨には、それが薄々分かっていた。

 恐る恐る、彼らの囲むローテーブルのそばに座る。

 

「お前よく来るよなぁ。まだ仮入部なのに」


 馨を手招いた女性がそう言った。

 彼女は2年生の澤田さわだ伊都季いつき

 このサークルの副部長で、馨と同じく英文学科に所属している。

 見た目の印象はスマートな美人だが、実際の性格や言動はかなり荒い。

 なるべくなら直接会話するのを避けたい人物の一人だった。

 

「そんなにうちのサークル気に入ったか?」


 彼女は煙草の灰を古びた灰皿に落としながら尋ねてきた。

 馨は正直に首を縦に振る。


「は、はい。とても」

「ふうん? 例えばどこがだ?」

「え、それは……初心者でも歓迎してくれますし、先輩達が優しいところ、ですかね」


 馨がそう言うと、澤田は意地悪そうににやりと笑った。


「つまり、あたしら先輩をうやまってるってことか?」

「え? はい……」


 何となく嫌な予感を覚えつつ頷いたとき、澤田の横に座っていたウェーブパーマの女性が、溜め息とともに煙草の煙を吐いた。


「ちょっと澤田、やめなよ……」


 彼女は熊澤くまざわなみ。澤田と仲の良い、英文学科の2年生である。

 このサークルの会計を務めていて、比較的物腰は柔らかい人物だった。

 

「一花くんが可哀相。いじめるの良くないよ」

「いじめてなんかねえって。……なあ、一花。あたしらを尊敬してるなら、一つ頼まれてほしいことがある」


 どうやら自分は今いじめられているらしい。

 馨はそう認識して内心身構えた。


「な、何ですか」

「別に難しいことじゃねえんだ。ほら、そこにあるスマホ」


 澤田が指差したのは、テーブルの上にあるスマートフォンだった。派手にデコレーションされた、ピンクのケースに入っている。

 

「それ、3年の先輩の忘れ物なんだ。無いと不便だろうから、届けに行ってほしいんだよ」

「3年生……。誰ですか?」

謳香おうかさん……あー、高蜂谷たかはちや先輩だよ」


 馨はその名前を聞いた途端、血の気が引くのを感じて首を横に振った。


「嫌です……!」

「なんでだよ? お前、謳香おうかさんに気に入られてるだろ? ちなみに第13情報実習室でレポートやるって言ってたから、探せば簡単に見つかるぞ」

「そ、そういうことじゃなくて」

「じゃあどういうことだよ。お前、あの人のこと嫌いなのかよ?」

「嫌い、じゃないですけど……!」

「だったらさっさと行ってこい。行かねえと、『一花が嫌ってる』って謳香おうかさんにチクるぞ」

「は……!?」


 澤田はにやにやしながら煙草を吹かす。

 馨の頭の中には、目の前の澤田よりも極悪な人物の顔が浮かんでいた。

 高蜂谷たかはちや謳香おうかとは、このサークル内でかなり影響力のある先輩だ。

 馨をなぜか気に入っているらしいのだが、その可愛がり方はあまりに狂気的で暴力的だった。


「行くしかねえだろ。さくっと行けよ」


 項垂うなだれる馨に無情な言葉を浴びせたのは、古いパイプ椅子に座っていた少し丸みのある体型の男性。

 彼は泰田やすだ崇宏たかひろといい、経済学科所属の2年生だ。


「で、でも。もしかしたら高蜂谷先輩、取りに来るかもしれないですよね」

「来ねえよ。さっき持ってこいって俺らに連絡来たし」

「え、連絡? スマホないのにどうやって」

「あの人2台持ってっから」

「じゃあ今行かなくてもいい気が……」

「分かった。じゃあ『マジ無理めんどくせーって一花が言ってます』って今謳香おうかさんに電話するわ」


 澤田がそう言って自身のスマートフォンを取り出す。

 もしも高蜂谷にそんなことが知れたら、このサークルに居られなくなる。

 馨は慌てて彼女の操作する画面を手で遮った。

 

「さ、澤田先輩ちょっと待って。行きます、行きます」

「いやいいんだよ? 行かなくても。お前が謳香おうかさんにもっと可愛がられるようになるだけだし」

「行きます。もう今すぐ行ってきますから」

「ああそう?」


 澤田が操作を止めたのを確認してから、馨は高蜂谷のスマートフォンを手に取った。


「ごめんね、一花くん……」


 熊澤だけが、困ったような顔をして言う。

 彼女はきっとこの状況をどうにも出来ないのだろう。

 馨は軽く頭を下げて、早々と部室を後にした。

 

 ◇


 サークル棟を出て、隣にある7階建ての建物、「中央棟」に向かう。

 中央棟は数々の主要な講義室やラウンジ、学生支援課の事務室などが入っている、この大学で最も大きな建物だ。

 真新しい白色の壁と、各階ラウンジ側の全面ガラス張りの壁は、無駄に壮大で高級感をまとっている。

 廃墟のような外見をしたサークル棟とは大違いだった。


 裏側の入り口から入って3階まで階段を上り、澤田の言っていた第13情報実習室に向かう。

 寧々に会えなかった上に、高蜂谷と会話しなければならないとは。

 憂鬱で馨の足取りは重かった。

 

 廊下を少し歩くと、例の実習室にたどり着く。


 後方入り口から中に入ろうとすると、ふとどこからか、女性の間延びした叫び声のようなものが聞こえた。


「?」


 何事かと思い、辺りを見回したその瞬間。

 実習室からものすごい勢いで大きな人影が飛び出す。


「──!!」

「きゃあっ!?」


 そして互いに回避する暇もなく、思いきり激突した。

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