憧れ

「何か必要なものはある?」

「ない」

「そう。じゃあ、行ってくるね」

 母さんは早々に病室を去っていった。

 母さんはどう思っているんだろうか。充がいなくなったことを。

 そういえば、充がいなくなってから母さんの過保護さは増している気がする。おそらく、充の事があってから同じ病気である俺の身体の心配をしているんだろう。

 どこか焦っているようにも見える。何か言葉を口にすれば、母さんを悲しませてしまう。それを思うと、何もいえなかった。

 不意に母さんと入れ替わりに誰かが入ってくる足音が聞こえた。目を向けると、今日も元気にあいつがやってくる。

「よう! 体調は大丈夫か?」

 いつもより、やけに大きな声を発した陽輔が心配する言葉と随分とかけ離れた表情で入ってくる。その様子に俺は察した。

 遥さんと仲直りした後から機嫌が戻り、いや、これはそれ以外にも何か良いことでもあったんだろう。嬉しいのは分かるが、正直、ここまでくると気持ちが悪い。

 俺は陽輔を態と避けるようにそっぽを向いた。

「なあなあ、聞いてくれ。さっきそこで、看護師さんから飲み物くれたんだ! ラッキー!」

 子どものように笑う陽輔だが、ここに毎日来るなら顔を覚えられてもおかしくはない。しかも俺の病室の同じ階なら尚更だ。

 昔から人気者の陽輔はもしかしたらこの病院でも人気者なんだろう。大声を出すことが少なくない陽輔なら病院関係者に知れ渡っていてもおかしくない。いい知れ渡りならいいが、おそらく……。

「やっぱり、どこいっても俺は人気者だねえ」

 自慢気に話す姿は完全に自分に酔っている。こいつは駄目だな。

 こうなれば、口にするのは一つ。

「そういえば、遥さんは一緒じゃないのか?」

 遥さんの名を出せば、周りが見えない陽輔でも正気に戻る。それだけ遥さんのことが好きなやつだ。

「あー、それが塾らしいんだよね。ほら、前に言ってただろ。看護師になるためには勉強頑張らないといけないらしくてさ」

 残念そうな顔をする陽輔は苦笑を浮かべる。そうか、確かに遥さんは以前に口にしていた。

『看護師を目指そうかなって思ってるんだ』

 おそらく、それは充の事があったからだと思う。それに加え、遥さんは優しい。

 怪我をして見舞いに来た陽輔の心配をしていた時もあった。看護師を目指すのに納得のいく性格だ。

 そんなことよりも気になる事が一つある。


「陽輔は部活だろ? こんなとこに来ていいのか」

 小学生の時、俺をサッカーに誘ってきた陽輔は中学に上がるとサッカー部に入っていた。

 高校に上がってもサッカー部に入部していたはずだ。部活が終わった後、即行で俺の見舞いに来ていたんだ。それなのに、思ってもいない言葉を耳にする。


「俺、サッカー部辞めたんだ。もうサッカーはやらないと決めた」

 何かを決意をした言葉。だが、言葉とは裏腹に表情は曇っていた。なんというか、悔しがっているようにも見えた。

 本当はやりたいはずだ。それを止めたのは俺なんじゃないか、と心の中で思い始める。

 未だに俺が原因でサッカーをやりたい気持ちを押し殺しているんじゃないだろうか。罪悪感を覚える。

「俺のせいで、サッカーを辞めたなら謝る。だが、違うんじゃないか? あの頃、陽輔は楽しそうにサッカーやってた。それは分かる」

 思わず出た言葉にあの頃を思い出す。苦しくても必死にボールを追いかけていた俺の視線の先に楽しそうにサッカーをやる陽輔の姿が過ぎる。

「うん。本当はさ、あの頃サッカー選手になりたいと思ってた。けど、それは俺だけだったらしい。部活に入る理由が女子にモテたいとか受験に役立つとかさ。そういう奴が多くてさ。皆んなってわけじゃないけど、それだけでやる気なくしちゃった……」

 意外だった。それで辞めるようなやつではないと思ったからだ。

 誰よりも楽しんでいたし、憧れへの強い気持ちを持っていると思っていた。


「それで、辞めたのか。軽いな」

「いいだろ! 母ちゃんには内緒な。サッカー部辞めて、遊びに行くなら勉強しろだの、下の子の面倒見ろだろって煩いからさ」

 笑っているが、他人事ではない気がする。陽輔の学校は偏差値が高いらしい。そんな高校に入った陽輔は頭がいい。優等生と云うに相応しい。

 何度か一緒に勉強したことがあるが、俺にはついていけない。正直、勉強もスポーツも出来る陽輔が羨ましい。

「おい、聞いてるのか! 俺の父ちゃんと母ちゃん、怒ると恐いんだぞ」

 じゃあ、ここに来るより家で勉強してろよと内心呟いた。

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