ⅩⅩ

 終わりのない落とし穴に、身を投げ入れたような感覚。裏切られた気分とは、どうにも形容しがたいが、あえて言うならこの様か。ナポレオンは文字通り、頭を抱えてうずくまった。


 腹立たしかった。恐ろしかった。判然としない頭で、気づけばペンを握っていた。




  ジョセフィーヌへ

 私はおまえが憎い。どうしようもなく、憎たらしい。おまえは卑しく、馬鹿で、きたならしい。おまえは何故、私に手紙を寄こさないのか。おまえは夫を愛していないのだね。私が苦しむと知っていて、数行の手紙も送らない!

 ジョセフィーヌ、おまえは一体、何をしているのだ? 夫に宛てる手紙も書けないぐらい、忙しい日々を送っているのか? それとも、新しい愛人と仲良くするので精一杯なのか? 一体、おまえの相手が誰なのか、今すぐにでも知りたいね!




 自分が戦地にいる間に、妻は男と浮気をしていたのだ。今までは、確信がなかった。だが、エジプトにいるときに、はっきりと「それ」と分かった。手紙の返信がないだけでなく、夫を疎かにして遊びほうけているなど! ナポレオンは憤怒した。……それと同時に、一気に愛情が冷めてしまえば、どれほど良かっただろう。


 ――全く、愛とは、何と勝手なものなのだろう! 妻は私を愛していない! だが、私は! 私は彼女のことを、気が狂うほどに愛している!


 いっそのこと、狂人にでもなりたかった! 愛を知らない存在になりたかった! 恋などという概念に、踊らされない人物になりたかった!


 ……ひとしきり立腹した後、ナポレオンは落ち着いた。全く、何をぎゃあぎゃあ騒いでいる? たった一人の女のせいで、危うく理性を失いかけた! 英雄になりたければ、強く生きねばならぬのに! どっと疲れがやって来て、彼は幾分、冷静になった。そして、とある噂を思い出した。


 腕の良い擲弾兵が、恋のために自殺した。彼は立派な人間だったが、精神の苦痛に耐えられなかった。特段、不思議なことでもない。


 この話を聞いたとき、ナポレオンはこう考えた。彼の気持ちも、よく分かる。しかし、恋の悲しみから逃れるために自殺することは、勝利を待たずして戦場を放棄するのと同じではないか! 真の勇気とは、それを克服するためにあるのだから。そう、降り注ぐ弾丸の下で、辛抱強く踏み留まるように!


 ……次の瞬間、腹の底から笑いが込み上げてきた。書きかけの手紙を破り捨て、狂おしいほどの愛情を抑え込む。このままでは、脱兎のごとく逃げ去った、情けない兵士と同類だ。心の中で、そう思いながら。


 ――ジョセフィーヌよ、せいぜい私の気持ちを裏切るがいい! 私はおまえの思惑すらも凌駕して、偉大な人間になるのだからな!


踏みにじられた愛情を、彼は利用することにした。それこそ、かつての友人の言葉と、全く同じように。

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