「ボナパルト、ハンニバル、カルロス・マグヌス……」


 馬の頭をめぐらすと、そこにはオシアンがいた。滑らかな岩に指を当て、刻まれた文字を読み取っている。


「……つまり君は、あの偉大なカルロス・マグヌスのように、アルプス越えを果たしたんだね」


 淡い髪に、白い肌。赤いフードに、金の竪琴。細い弦をポロンと弾けば、きれいな蝶々がやって来る。


「すごいね、ナポレオン。君はもう、立派な英雄だよ」


 ナポレオンは馬から降り、呑気な口を叩く詩人を睨んだ。今夜は寝つきが悪いと思ったら、こんな間抜けな夢を見る羽目になった。画家に描かせた絵の中で、白馬の上でポーズを取って。


「馬鹿だな、おまえは。絵画など、注文次第でどうにでも描けるわ」


 一度、手綱を放り投げると、馬はそのまま駆けてしまった。主を山中に残したまま、アルプスの奥へと消えていく。


「確かに、そうかもしれないね。でも、僕には分かるよ。君の絵は、君の人格をよく表している」


 オシアンは立ち上がった。そしてナポレオンの肩を抱いて、優しい声で話し掛けた。


「実はね、僕には全部、分かるんだ。君がエジプトに行って、敵軍を破ったことも。君がアルプスを越えて、オーストリア軍に勝利したことも。凄いよ、君は。どうやら僕は、君を讃える歌も作らないといけないみたいだ」


 かつての友人にそっくりな、夢の中の住人が、自分の戦歴を知っている。そんなこと、至極当たり前の話ではないか。ナポレオンはそう思い、彼を鼻で笑い飛ばそうとした。


 ――全く、とことん阿呆なやつだ! おまえはただの幻なのだ! 都合の良い、玩具に過ぎない!


 しかし、できなかった。心が締めつけられるほど、懐かしいにおいがした。


「それにさ、君はただの英雄じゃない。これから皇帝の座を手にする、最高の権力者だ。君の名は、後世まで語り継がれる。まるでフィンガル王のように、クフーリンのように……」


 おあつらえ向きの賛辞など、うんざりするほど浴びてきた。それなのに、何故。オシアンの言葉は、水に溶ける氷のように、すっと心に響くのだろうか。


「フランス帝国は、君のものだ。だから、ゆっくりと、おやすみ」


 ――その一言で、ナポレオンは深い安堵に包まれた。このまま遠くへ行けそうな、そんな気持ちになった。幼い頃に戻ったような、故郷の島にいるような。

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