「もう、あなたったら。また、その本ですの?」


 ……ページを捲る途中といえども、愛する妻からの呼び掛けには、真摯に答えなければならない。ナポレオンは顔を上げ、散歩帰りの妻を見た。魅力的な彼女の容姿は、出会った時から変わらない。


「おまえはもう、見飽きたかもしれないがな。私は、この本が好きなのだ。それこそ、愛していると言っても、過言ではない」

「まあ、愛している、ですって? それって、どういうことかしら?」


 ジョセフィーヌが聞きたいのは、本の内容が素晴らしいだとか、詩の語り口が美しいとか、そういうことではない。ナポレオンには、すぐに分かった。だから、できるだけ優しい口調で、柄にもない声を出した。


「ひょっとすると、おまえは本に嫉妬しているのかもしれないが、それはとんだ的外れだ。おまえへの愛は本物だ。それこそ、手に取って分かるぐらいに」

「当然、そうですわよね。私だって、ただの本と比べられたら、悲しくなってしまいますわ」


 「ただの本」と言われて、ナポレオンは親しい幻を思い出した。彼の奏でる曲は繊細で、本当に生きているようだった。だが、それ以上でも、それ以下でもなかった。


 ――所詮、ただの幻想に過ぎない。私の退屈を紛らわせる、気の良い道具だった。


 そう思いつつも、ナポレオンは複雑な気持ちになった。だから、さっさと本の話題を切り上げて、妻の美貌を褒めそやした。


「何を悲しくなることがあるんだ。おまえは本当に美しい。ここのところ戦争続きで、おまえに会えないのが寂しい」

「ええ、私も。会えない日が続くと、心がきゅっと、締めつけられますわ」


 そういう割には、ジョセフィーヌは平気そうな顔をしていた。ナポレオンの愛の言葉は、氷の上を滑るように、彼女の心をすり抜ける。


 ……もしかすると、私と妻の愛情は、全く別のところにあるのではないか。ナポレオンは、薄々気づいていた。しかし彼は、愛しの妻を信じていた。


「そう言えば、あなた。また、戦争に行かれるんでしたっけ?」

「ああ、そうだ。またしばらく会えなくなるが、どうか元気でいておくれ」


 二人は体を寄せ合って、甘いキスを落とした。その間だけは、手垢のついた『オシアン』は、冷たく横に追いやられた。

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