Ⅰ
「オシアン!!」
……ナポレオンは驚いた。幼い頃を夢に見ながら、深く沈んだベッドの上で、悲痛な叫びをあげたことを。そして、この悲鳴に驚いたのは、彼だけではなかったようだ。
「どうしたんですの、あなた? 何だか、魘されていたように見えますわ」
傍にいたのは、彼の妻であるジョセフィーヌだった。純白のドレスに身を包み、その美貌を惜しげもなく晒している。
彼は思い出した。少し昼寝をすると言って、毛布を被って横になっていたことを。
「あら、大変。あなた、随分と汗ばんでいますわ」
ジョセフィーヌは美しく、彼の愛する女性だった。しかし、いくら愛しの妻からの呼び掛けであろうと、無理やり夢から引き剥がされてしまっては、何とも言えない気持ちになる。
「別に、どうと言うことはない」と、彼は言った。未だに花畑にいるような、実に曖昧な気分だったが。
「それよりも、何故ここにいるんだ? 外にダリアでも見に行こうかと、言っていたではないか」
「ええ、もちろん。そうしようと、思っていたんですけれど。私のフォルチュネが、どこかに行ってしまいましたの。もしかしたら、この部屋に……」
――その直後、ナポレオンの足に激痛が走った。慌てて毛布を捲ってみると、例のフォルチュネが噛みついている。ふさふさとした毛を惜しげもなく生やした、ジョセフィーヌの愛犬だった。
「まあ、フォルチュネったら。こんなところに、隠れていたのね」
ジョセフィーヌは、特に夫を心配する素振りもなく、犬の頭を撫でつけた。軍人たるもの、そこらの犬に噛まれたぐらい、何ともないとでも思っているのだろうか。
「お騒がせしました。もう一度、お眠りなさいな」
「いや、もう十分だ。この犬のせいで、目が覚めた」
ナポレオンは体を起こし、身だしなみを整えた。妻と犬が去ってしまうと、再び部屋は静かになった。
……実を言うと、夢の続きを見るのが怖かった。あれは懐かしい日の記憶だった。孤独な彼の心を癒す、脆くて陳腐な話だった。
「――あれは全て、私が生み出した幻だ」
歳を重ねていく度に、彼の幻想は薄れていった。そして、幻想が色褪せるにつれて、無意味な現実が脳裏を支配した。
故郷の島に、あんな森などなかった。あそこは、ただの野原だった。
幼年学校に、あんな来客などなかった。あそこは、ただの宿舎だった。
陸軍学校に、あんな花畑などなかった。あそこは、ただの更地だった。
くだらない。とんだ茶番だった。
すっかり支度を整えると、彼はとある本を手に取った。その表紙には、『オシアン』の文字が写っていた。
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