第4話 みんなあらぶってる
ビジネスホテルのフロント係に転職してからゆうに十年が過ぎた。
二十代半ばだった俺は三十代半ばを超え、立派なおじさんへと進化していた。
立ってるだけ。
それが俺、山口虎太郎の仕事だ。
※
「こたろー、飲も?」
「いや、俺はもういいんで」
「なんでえ、やだあ」
「クラスの女子かてめーわ!! いいから水を飲め。パスタ食ったら撤収、いいね?」
「いやだあー、飲もうよー、一緒にダメになろうよー」
「死ねお前」
これがあの、職場ではロマンスグレー気取っている支配人、大渕遼太郎の実態だ。
俺より十個上なので、今年47歳。
とてもじゃないが、同僚たちには見せられん素顔だ。
「すまん。あっこちゃん。今日は特に荒れてたな」
「孔明さんがいなかったら、劉備さんはとっくにマジ出禁です」
「マジすまん。俺が注意したところであの酒癖が治るとは思えんが、努力する。だからまた飲ませてやってくれ」
「孔明さん、とことん尽くしますね」
「あんなでも普段は尊敬する上司でな。店にはなるべく迷惑かけないから、普通に接してやってくれ。あれで傷付きやすいんだ、あの人」
「今日お会計いつもの倍ですけど、いいですか?」
「うん、悪いが領収書頼む」
「了解です」
………………。
…………
……
タクシーからバカを引きずり出す。
「おい、いいか。帰って寝ろ。明日はスマホのアラーム六時にセットしたからな。何があっても朝はピッとして来い。いいな?」
「もうムリ、もうムリ」
「舐めてんのか。起きたらお前は理想の旦那で、理想の上司だ。俺はもう帰るからな。何も考えずに寝て、気合い入れてピッと起きろ。明日は俺非番だからな。分かったな」
「わかった……」
「以上!! 解散!!」
「ありがとうございました」
なにが悲しくて、入社した頃に目標としてた人の世話なんかせにゃいかんのだ。
俺は立て替えた飯代の領収書をやつの胸ポケットに押し込んで、再びタクシーに乗り込む。
支配人、大渕遼太郎。
未だに十代の飲み方をする、俺の上司だ。
※
休日。
バカのおもりで疲れていたが、あいつの相手してたらもう一人、俺が見捨てたら人生終わりそうなやつがいたのを思い出して、俺は早朝から車を走らせる。
「アラカミ?」
「ああ。開いている、入ってくれ」
気の抜けた声が、大学の研究室の入口から聞こえる。
扉を抜けて部屋に入ると、朝日が差し込んでいた。雑多に机が並んだ向こう、東向きの窓際でアラカミはコーヒーの紙コップ片手に放心していた。
「すごい顔してるな。最後に寝たのは?」
「記憶にない。まあ座ってくれ」
「駅で朝飯買ってきたぞ。俺もまだだから一緒に食おう」
そう言うとアラカミは苦い顔をしてサンドウィッチの入った紙袋を睨みつけた。
「飯か。飯、そうだよなあ。食わないのは無理だもんなあ。おっけ、食うよ」
「ご老人にはお粥の方が良かったか?」
「お前なあ、低血圧って立派な病気の一つだぞ。寝不足、低血圧、過労。こんな思いしてなんでワタシは生きてるんだって思うよ」
息を吐きながら頭を起こしたアラカミの顔は蒼白だ。
「助教授って激務なんだな。知らなかったよ」
「ああ、そうだよ。お前の10倍は働いてる」
「あの頃バカにしてた助教には悪いことしたな」
俺は紙袋からサンドウィッチを取りだしてアラカミの向かいに座る。
間に置かれたテーブルにはタバコのシケモクが山のように積み上げられていた。
「その吸い殻の山、全部アラカミ?」って聞きたくなるくらい。
●
アラカミは死んだ顔でアボガドチキンのパンを手に取りもそもそと食い出した。
「なあこたろー。考えてもみろよ。あの若くて美しかった憧れのアラカミさんが、今ではタバコとコーヒーと目薬が手放せないんだ。10年前に想像したか? あのアラカミさんが洗った顔拭くのに白衣使ってんだぞ」
「いや、タオル使えよ」
「うるせえ。んでな、バカそうな学生が言うんだよ、『アラカミさんは化粧とオシャレしたらオレのタイプだったのに』って。バッカかてめえ!! 10年前のアラカミさんはたかってくる男どもを尻尾で叩き落としてた女だぞ。昔の教授たちに調子こいててすいませんでしたって今なら心から言えるわ」
「ハハハ、あのアラカミも大人になったんだな」
「そうだよ。マンコにカビはえた立派な大人になっちまったよ。セックスが世界の中心だった頃は平和だったなあ」
「なにより。荒れてんな、今日もお前」
ていうか、俺の周り、いつも荒れてんなと思う。
●
「食いたいとか抱かれたいとか、金使いたい、とか、最近ないんだ。寝たいだけは切実だけど。イケメンはイケメンって生き物になっちまったし、生きるってこんなもんかなあ? 朝起きて、何もしないで泣いてる時ってないか? 今さら社会の仕組みに文句言う気もないけど、どうにかならんのか、この世界は?」
「出た出た、アラカミの世界への反逆」
俺はあまりにも彼女が昔と変わらないので思わず笑ってしまった。
彼女は世界を憎む。
つまり愛してくれって事だ。
「たまに考えるよ。あの頃、何が何でもお前と付き合えば良かったんだ。無駄な仮定なんだろうけど、そうすればワタシたちはただの男と女でいられた」
「時間が残酷って話?」
「お前が残酷だって話だよ。もう会いにくんな」
アラカミが顔を伏せる。
「またヒマができたら来るからな」
「言ってろ、バーカ」
研究室を出て、エレベーターに乗った瞬間、大きく息を吐いた。
マジかよ。両想いだった、ってのか?
バカやってアホやって、仲間とみんなで、部屋で雑魚寝してたあのアラカミと俺が。
今さらだ。
そう思って頭を振る。
て言うかホントに今さらだな。
あの頃言えよ、と心の中で呟いた。
※
「ぐっさん、顔疲れてる」
夜勤の真夜中、飯尾が俺の額に手を当てる。
「ああ。ちょっと休日立て込んでてな。俺友だち運ないかもしれん」
「なんだ。友だちさんか」
「あ?」
「ううん。カノジョさんとかかなって」
「俺カノジョいないぞ。言わなかったか?」
「聞いてないです。聞けなかったです」
ああ。なんか最近、飯尾はこういう言い回ししてくるな。
俺はおじさんだぞ。
浮かれて付き合って、なんかのはずみで別れて、その後ずっと同じ職場の同僚ですってキツいだろお前。
マジかどうかも分からない年下の女の恋心とか、おじさんには荷が重い。
「昔話とかないんですか?」
「昔話?」
「うん、恋とか、そーゆーの」
「好きだな、女はその手の話」
「嫌いなんですか?」
「いい恋してねーんだよ、俺。お前若いんだから、何かあるだろ。お前が話せ」
「じゃあ今してる恋の話を……」
「それはダメだ」
「なんでー。ぐっさんだとは言ってないじゃないですかー」
「頼むから、その絡みやめてくれ。可愛い後輩が悩んでたら、優しくしたくなるだろ。あれはそんだけだ」
●
「じゃあ可愛い後輩なんて言うな」
「あ?」
「わたしの中で、カッコ良い先輩になっちゃったんです、ぐっさんが」
「このぐっさんだぞ」
「そのぐっさんがです」
「………………」
「じゃあ、今はいいです。でもこれから、隙あれば仕掛けます。誰にでもしてるんじゃないって、そこだけ覚えといてください」
「やめとけー。俺も辛いし、お前も辛いぞ」
「やだ。大好き、ハート」
えへっと笑う飯尾。
「なにがハートやねん!! 舐めてんのかお前!!」
「ぐっさんとのこんなやり取りが、大好きなんです、わたし」
「もういいわ。お前と話してるとどこまでが本気か分からん。先仮眠とるぞ、襲うなよ。いいか、襲うなよ」
「分かったダーリン」
「ああ、おやすみ、ハニー!!」
もうなんかやけくそだ。
後輩じゃなかったら付き合うんだけどな。
まあ、後輩じゃなかったらそもそも飯尾と俺が出会うとも思えんが。
仮眠室で暗い天井を見上げて、寝れねえなって思っていたら、いつのまにか寝てたらしい。
これも10年選手のなせる業だ。
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