第2話 たまに過去がぎゅっとくる


 ビジネスホテルのフロント係に転職してからゆうに十年が過ぎた。

 二十代半ばだった俺は三十代半ばを超え、立派なおじさんへと進化していた。


 立ってるだけ。


 それが俺、山口虎太郎の仕事だ。


   ※


 フロントに立っている時、俺は無心だ。

 入社してすぐの頃は、退屈すぎて十分に一回は時計を見ていたが、こんなもんは慣れである。

 ぼおーっとガラス窓の向こうに映る景色を眺めたり、観てるアニメの続きを空想したり、お客さまがいない隙にアメ舐めたり、結構忙しいのだ。


 うちのビジネスホテルはスイートルーム含めて200室くらいあって、朝と晩はビュッフェのレストラン、そこそこの規模のスパ施設を併設しているので、平日でもまあまあお客さまは多い。

 客層は、やっぱりビジネスマンが多いな。それに近所に多目的ホールがあるので、なんかの試合に出る体育会系の大学生の一団や、コンサート目当てで地方からうちに一泊する若い世代の子も多い。


 だが実際、チェックイン、チェックアウト以外はほとんどやる事がない。

 そのインアウトだってルームキー渡すか受け取るかだけだ。


 同じ立ってる仕事でも、アパレルの店員さんの方が100倍忙しい、というのが俺の持論である。


   ※


 お昼休憩になり、バックヤードに入ると井上さんが先に食事をしていた。


 井上さんは、俺と同じ三十代半ばくらいの、子持ちの奥さまだ。

 はっきり言って美人であり、おまけに物腰も柔らかく、俺のタイプだと言っていい。


 月火木金の日勤で入っている非常勤の人なので、水曜と土日はいない。

 だから水土日に日勤のシフトが入っていると俺のテンションは下がる。


「お昼先にいただいてます」

「ああ、いえいえ、お構いなく」

「今日はパンですか? あ、それ、わたしも食べた事あります」

「たまに甘い菓子パンで不摂生したくなるんですよね」

 俺たちスタッフはぶっちゃけ毎日顔合わせてるから、飯のメニューくらいしか話す事がない。

 大人って案外そんなもんだ。

「こんな季節でしたね」

「ん?」

「山口さんが入ってきた時も」

 言われてああ、と思う。

「そうですね。夏真っ盛りでした。一日中エアコンの利いた室内で仕事できるだけでもここは天国だと思ってました」

「真っ黒に日焼けしたスポーツ刈りの山口さんが、窮屈そうにスーツ着てて。初々しい人が入ってきたなってみんなで話してたんですよ」

「それまではTシャツに作業着でしたからね」

 可笑しそうに思い出し笑いをして、井上さんはのどをクククと鳴らす。


 うちのビジネスホテルは、大元は不動産関連の中小企業だ。

 俺は大学で一浪一留していて、25歳から二年間、関連のゴルフ場でグリーンキーパーをしていた。

 これ以上ないくらいの肉体労働。

 朝三時半に起きて、片道一時間半かけて職場に着き、汗と血涙流しながら一日働いて、帰りは混んだ道を気絶しそうになりながら二時間かけて運転して実家に帰る。

 帰ったら飯食って風呂入ってそのままバタンキュー。

 そして翌日、また三時半に起きる生活。


 今やれと言われたら、一億払ってでもお断りしたい悪夢のような初仕事。

 まあ。今や遠い記憶になって振り返ると、あの日々が自分を強くしたと胸を張って言えるが、でももう絶対に、二度とムリ。


「当時は迷惑かけ通しでしたね。電話応対もできなくて、今思うと恥ずかしいです」

「いいえ。運動少年が毎日敬語練習してて、めきめきフロントマンっぽくなっていって、懐かしいな」

 遠い目をして、井上さんが笑う。

「俺あの頃、井上さんの手帳に憧れてましたよ」

「手帳?」

「ええ。びっしりメモ書き書いてて、大人ってこうなんだって。運動少年にはカルチャーショックでした」

「わたし、昔っから忘れっぽかったからなあ」

 こんな思い出話ができるのも、あれから十年が経って、支配人と、今のチーフと、井上さんしかいなくなった。

「こうやって、俺たち知らないあいだに大人になってたんですね」

「そうですね。頭の中は、まだ学生なのに」

「井上さんは、初めて見た時から大人の女って感じでしたけど」

 そう言うと井上さんは可笑しそうに笑って、ラップに包まれたおにぎりを一口食べた。

「大人じゃないですよ、わたし」

「そうかな。俺なんか毎日ヒマすぎて、フロントで素数数えたりしてますよ」

 そう言うと、井上さんはニコッと笑って、こう続けた。

「わたしなんて、山口さんが何回ステップ踏んでるのか、こっそり数えてますよ」

 さすがベテラン、俺より一歩先に行ってるな。

 て言うか、バレてたんだな。


   ※


 夕方、井上さんが帰る頃に、フロントはちょっと忙しくなる。

 チェックインのお客さまが来るからだ。

 だがその時間には夜勤のスタッフも来るので、忙しいというほどでもない。


 朝のチェックアウトに、夜勤が対応し、少し遅れて日勤がサポートに入る。

 逆に夕方のチェックインに、日勤が対応し、夜勤が合流する。


 こうやって毎日毎日、うちのホテルには誰かが泊まっていき、そしてベッドシーツに鼻くそとかつけて、知らん顔で朝にはチェックアウトするのだ。

 俺は遭遇していないが、客室でウンコしたお客さまもいたらしい。

 パートの清掃のおばちゃんたちもそりゃしんどいわ。

 安い給料で当たり前のようにこき使われて、清掃長のババアに怒鳴られて、俺たちは知らぬふりで、フロントでステップ踏むだけ。


 不公平だ。世の中は不公平で、俺が一番身近に感じる、貧富の差でもある。

 俺がそっち側じゃなくて良かったわ、とは言えないが、思い浮かぶって事は、どっかでそう思ってるんだろうな。


 ライトステップ、レフトステップ、エンドダウン。

 レフトステップ、ライトステップ、エンドダウン。


 まあなんか、そう思う日もある。


   ※


 チェックインのお客さまの第一波が捌けた頃、日勤の俺たちも仕事納めになる。

 タイムカード押して着替えて、ちんちんになった車に乗り込むとドバっと汗が噴き出てくる。

 この十年、車は買い換えていないので、俺の年季の入ったプリウスは未だにMDのスロットを内蔵している。

 ケースから適当に一枚MDを取りだして、セットする。

 おお、今日はZONEか。

 十年前に中古で買ったCDの音源が時を越えて車内に響く。

 ましてや流行っていたのは二十年前だから、学生の頃の部活や恋を何となく思い出して、苦笑いが出る。

 今日井上さんと話していた、十年前の新人の俺。

「遠くに来ちゃったな」

 たぶん、三十代までが俺の青春だった。

 振り返れば甘酸っぱくて、もう胸を締めつけられるような痛みもない。


 頑張っても頑張らなくても、時間は平等に過ぎ去る。

 あの頃逃げた俺を、やっと許せそうな、そんな帰り道だった。

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