10年選手のホテルマン
鈴江さち
第1話 卵焼き
ビジネスホテルのフロント係に転職してからゆうに十年が過ぎた。
二十代半ばだった俺は三十代半ばを超え、立派なおじさんへと進化していた。
立ってるだけ。
それが俺、山口虎太郎の仕事だ。
※
ホテルマンの朝は早い。
早朝五時に起きてまずシャワーを浴びる。そんでひげ剃って髪整えたらソファーでゴロゴロしながら冷房の風を直で浴びる。
暑いからだ。
八月初頭のギラギラ太陽とクソうるさいセミの声を聴きながら小一時間を無為に過ごす。
ふむ。ようやく汗はひいたな。
俺はワイシャツに着替えて家を出る。
ちなみにマイカー通勤だ。
まっすぐ走れば二十分くらいで職場に着くのだが、俺はいつも朝飯と昼飯を買いにコンビニに寄るのでもうちょいかかる。
一時期スタバのチャイティーにハマって遠回りして通っていたが、最近はたまに支配人が買って来てくれるのでモーニングルーティーンに入ることはなかった。
支配人とはツレだ。
あいつの方が十歳年上だが、そんな事は問題ではない。
俺が風邪ひくとミカンの缶詰とか買って来てくれるし、休みの日がシフトで被ると夕方から朝まで飲み歩く仲だ。
駅前のイタリアンバルの店員たちからは、敬意を込めて名古屋の劉備と孔明と呼ばれている。
脇道に逸れた。
ホテルの駐車場で、一番隅っこに車を停めて車内でプロテインドリンクの朝食を食い、従業員出入口から直で更衣室に向かう。
ワイシャツからフロント用のスーツに着替え、ネクタイを締める。
さあ、仕事だっ!!
※
1、2、3、4、5、6、7、8、9、10。
1、2、3、4、5、6、7、8、9、10。
もう一回行っとくか? いや、もういいや。
次はあれでいこう。
ライトステップ、レフトステップ、エンドダウン。
レフトステップ、ライトステップ、エンドダウン。
このステップは、実にスリリングだ。
万が一にもお客さまや、今となりで電話対応している非常勤の井上さん(人妻美人)に気付かれる訳にはいかないからだ。
わずかに、ほんのわずかに左右に揺れて、スタートポジションで膝を少し曲げる。
一日八時間立っているのだ。
このくらい遊んでもいいと思う。
そんな訳でもう十一時。
俺は四時間くらい頭の中で数字数えてサイドステップをしていた。
※
昼飯の時間だ。
やっと座れる。
俺はバックヤードに入って、冷蔵庫からコンビニ冷やしうどんを取りだす。
「あら? 今日もうどんですか?」
可愛らしい声に振り返ると、今年中途採用の猿田ももが、小さなお弁当箱から顔をあげて俺を見ていた。
「この暑さだから夕方まで腹減らないんだよね、俺。ももさんは今日もお弁当? 偉いね」
「お弁当って言っても、白いご飯と炒め物ばっかりですけどね」
「でも卵焼きに唐揚げもあるじゃん」
「唐揚げはお惣菜を詰めただけで」
「じゃあ卵焼きちょっとくれ」
「またですか? じゃあ一個だけですよ」
うむ。可愛いな。
ももがお箸で俺のうどんの上蓋に卵焼きを置く。
食う。
「おお、美味いな。今日は海苔と紅ショウガか」
「テレビで昨日見て挑戦しました。山口さんの家庭の味は?」
「うちはマヨネーズだ。贅沢したい時はそこにチーズを入れる」
「へえ、美味しそう」
まごう事なき世間話だ。
俺たちは並んでパソコン前に腰かけながら弁当とうどんを食う。
●
俺は三分ほどで食い終わったが、俺より先に食い始めていたももは、あんなに小さなお弁当箱なのにまだ三分の二が残っている。
「ももさん、相変わらず食うの遅いな」
「ふふっ、学校の給食も一番最後まで残ってる人でした」
「それで自分の牛乳を男子にあげるんだろ?」
「それですそれです」
ももの横顔を見て思う。
学生時代、こういう子を好きになればよかったんだよなって。
美形だとか話しやすい、じゃなくて、こういう女の子が社会では一番モテるんだ。
気が利いて労力を惜しまなくて、よく笑って。
男ってどうして若い頃には気付かないんだろうなって思う。
「ももさん休みの日って何してんの?」
ヒマだったので、本能の赴くままに聞いてみる。
「え、休み? どうだろ。ランニングしたり、写真撮ったり、趣味に生きてますね」
「男は?」
ヒマだったので、本能の赴くままに聞いてみる。
「それ、今時はセクハラって言われますよ」
「ファック今時」
「なんかその響きいいですね。ファックイマドキ」
「なんか息苦しくない? 個人の権利とかで日常も社会もがんじがらめ。平和ボケしすぎだろ日本は」
「ふふ、おじさんみたい」
「おじさんだからな」
「困ったもんですね、今の社会も、おじさんたちも」
「知ってるか? 今の日本はおじさんと呼ばれる人たちが必死に回してるんだぞ」
そうですね。そう言って顔をあげたももが卵焼きをつまんだ。
「じゃあおじさん代表には、おまけでもういっこ卵焼きあげます」
「食うけどね」
●
おじさんは思うんだ。
何がすごいって、自分の食べ物を人にあげられるのが、一番すごいと思うんだ。
「ももさん。お前いいやつだな」
「山口さん」
「ん?」
「餌付け、ちょろいです」
「俺に餌付けしたらなにか得でもあるのか?」
「ないです。ない、餌付けです」
こんなんで恋するほど馬鹿じゃないけど、俺だって人間だから、可愛い後輩以上の気持ちを、持っちまう。
「タバコ、吸ってくる」
「どうぞごゆっくり」
「急いで吸って急いで戻ってくるからな」
「ふふっ。ごゆっくり」
笑顔でそう言ったももに背を向けて俺は喫煙室に向かう。
些細な、大した事じゃないんだけど。俺と話している時のももはスマホを見ない。
それがなんか嬉しかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます