第2話 愛してる
少しぬるめのシャワーでタケルは、熱った身体を冷ます。リノベーションした時、この家に住むつもりはなかったから浴室は外すつもりだったが、今はシャワーだけでも取り付けといて良かったと思う。
身体は、程よい快感に脱力している。
しかし、心はどこか空虚だ。
先程の行為を思い出そうとすると浮かんでくるのはこの場にいない彼女の顔だった。
腰にバスタオルだけ巻いて部屋に戻ると彼は、裸のまま畳に敷いた布団の上に座り、タブレットを真剣に見ていた。
タケルは、そっと彼の隣に座る。
「何を真剣に読んでるの?」
声をかけるとスーツを脱いだ英国紳士は、深く笑みを浮かべ、タケルの口にキスをする。間近で見るその顔に小さな皺が幾つもあるが、あちらの人たちは実年齢よりも大人びて見えるのでそんなに年ではないだろうと思う。じゃないとあの体力は考えられない。
唇を離し、英国紳士は微笑する。
「仕事ですよ。前も言いませんでしたっけ?私はトレーダーです。こうやって為替の様子をチェックしてるのですよ」
そう言って折れ線グラフの幾つも入った画面を見せてくるが、正直よく分からない。家族も友人もナオも勘違いしてるがオレはそんなに頭は良くないのだ。あの当時は何かに集中して取り組んでないと心が壊れそうだから文武両道してただけなのだ。
それに実際には彼のことは、ほとんど知らない。一年くらい前に店に来て、雰囲気で同じ性癖を抱えていることが分かり、気が付いたら関係を持っていた。
名前も知らなければ住んでるところも、日中は何をしているかもほとんど知らない。分かるのは彼が外国籍であること、紳士的な良人であること、そして身体の相性がとても良いこと。
それだけだ。
それ以上は、申し訳ないが興味もない。
しかし、彼は違うようだ。
彼が自分を見る目は、まさに恋人を見つめるそれだった。
「なので、私は充分に貴方を養うことが出来ます」
英国紳士は、タケルの頬に手を当てる。
少し固い手のひらは、ほんのりと温かい。
「正式に私と付き合って頂けませんか?今以上に満足させることを約束します」
告白する英国紳士の目は、うっすらと震えていた。
それだけで彼の本気が取れる。
正直、心がときめがない訳ではない。
いくつになっても告白されるのは嬉しいものだ。
しかし、ときめいたからと言って心が動く訳ではない。
タケルの心は、10代の時から不動のままなのだ。
タケルは、頬に触れる英国紳士の手を剥がし、彼の膝の上に戻す。
「NO」
自分でも驚くほどに綺麗な発音だった。
その返答に英国紳士は、目を閉じる。
認めたくない思いとやはりという想いが混じりあっているのだろう、苦悩で眉間が寄る。
「貴方とはこれ以上の関係を作ることは出来ない」
英国紳士は、目を開ける。
目の端に涙が小さく溜まる。
「それは彼女のことですか?」
彼女を指すのがナオであることは明白だ。
彼は、一度店に来たナオを見ている。パートの女子大生から彼女のことを聞いて酷く狼狽していたことも覚えている。
タケルは、小さく頷く。
「オレの人生のパートナーは彼女しかいない」
はっきりと言う。
その言葉に迷いはない。
英国紳士の唇が震える。
「なぜですか?なぜ抱けもしない、口づけもかわせない、触れることすら憚られるのに、なぜそんなことが言えるのです?そんなものと一緒にいて何が楽しいんですか?」
そんなもの?
タケルの目に怒りが浮かぶ。
意識するより早くタケルの手が英国紳士の肩を掴み、握りしめる。
英国紳士は、小さい悲鳴を上げる。
タケルは、すぐに我に返り、手を離す。
英国紳士の肩にはうっすらと痣が付いていた。
「すいません」
タケルは、小さな声で謝罪する。
英国紳士の目には痛みと小さな恐れが浮かんでいた。
穏やかで優しいイメージしかなかったタケルの豹変に驚き隠せずにいる。
「・・・確かにオレは、彼女を抱けない。口づけすら気持ち悪くなる。でも、それでもオレは・・・」
その目には、揺らぐことのない真摯なものだった。
「彼女を愛している」
オレンジピールの入っフレンチトーストが無性に食べたかった。
肉欲だけでは抱くことは出来ない。
ナオとMSWは、行為に及ぶ前に必ず酒を飲んだ。
MSWは、別に飲みたくもなく、直ぐにでも始めたかったがようだが、ナオが「ずっと習慣なのよ」と言って誤魔化し、ピールを煽った。
習慣なんて嘘だ。
経験なんてこの子を入れて数人しかいない。しかもみんなそう言う商売の子達。素人は彼女が初めてだ。
酒で酩酊するとようやく行為に及ぶことが出来る。
自分から誘っておいて勝手な話しだが、いざしようと思うと彼の顔が浮かんでしまう。だから、この時だけは忘れよう。快楽に溺れようと酒で感覚を増幅するのだ。
彼女との相性はとても良かった。
身体がこんなに馴染むことは滅多にない。
快感に身体と頭が溺れる。
しかし、どんなに快楽に覆われても心の片隅に彼がいる。彼がじっと見ている。
やはり心までは溺れられなかった。
行為を終えると、酷い喉の渇きを覚えて冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して飲む。
そういやこのホテルのルームサービスって高かったんだっけ?なんて思ったが、まあ仕方ないかと開き直って半分以上飲む。
「ねえ、私にも」
ベッドの中からMSWが気怠そうに言う。
余韻が残っているようでまだ頬が赤い。
ナオは、ベッドの橋に座ると飲むかけのペットボトルを渡す。
「口で頂戴」
蕩けるような声で甘えてくる。
あまりの可愛らしさにナオは思わず笑みを零す。そしてペットボトルの水を口に含み、そのままMSWの口に付けて流し込む。
MSWは、口の端から水を溢しながらもゆっくりと嚥下する。
その姿がなんとも艶がやって色っぽい。
彼女が自分と同じ性癖を持っていると知ったのはいつだったろうか?特にお互いから打ち明けたことはなかったように思う。自然と野生の動物が独特のフェロモンを出して惹かれ合うように、ホタルが淡い光りを発して呼び合うように自然と身体を求め合い、よがり狂った。
それでもナオの心の片隅には彼がいた。
唐突に彼女はナオの手首を掴む。
「ねえ。やっぱり私たち一緒に暮らさない?」
「えっ?」
「こんなに相性がいい人初めてなの。私たちきっと最高のパートナーになれるわ」
彼女は、頬を林檎のように紅潮させて告げる。
恐らく意を決しての告白なのだろう。
確かにこれだけの相性の良い相手に出会えることなんて一生のうちに何度あるのだろう。恐らく片手の指を二つか三つ折るくらいかもしれない。
しかし、だとしてもナオの返答は決まっている。
「ごめん」
ナオは、手首を握る彼女の手を話す。
「前も言ったけど私、既婚者なの。彼のことを愛してるの。だから貴方の告白を受け取ることは出来ない」
彼女の顔に絶望が走る。次に浮かんだのは怒りだ。
「何故⁉︎その旦那とはやれないんでしょ?」
「そうね。キスも出来ないわ」
何度も試したが嫌悪感しか出なかった。
手が触れるだけで肌が粟立つ。
その度に胸が痛くなる。
「そんな相手といる意味があるの?抱けもしないのに、キスも出来ないのに、一緒にいる理由なんてないじゃない!」
MSWは、泣きながら声を荒げる。
愛しい者に捨てられないようしがみつくように。
しかし、そんな彼女の声を聞いて、ナオが思ったのは一つの小さな疑問だった。
理由がない?
この子は、一体何を言っているのだろう?
「愛に理由なんているの?」
それは本当に心から溢れた疑問の言葉だった。
その言葉を聞いただけでMSWに入り込む余地がないことが分かった。
MSWの両手がナオの首に伸びる。
咄嗟のことにナオは、反応出来なかった。
首に強い力が込められてる。
爪が食い込み、喉仏が潰れそう。
「死んで」
ぼそりっと呟く。
「私と一緒に死んで」
ナオは、遠ざかる意識の中、タケルの笑顔が浮かぶ。
あーっもう一度食べたかったな。
オレンジピールの入ったフレンチトースト。
つづく
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