第1話 最高の夫婦の秘密

コンコンッとアルミのボールの縁で卵を叩き、片手で器用に割る。ボールの中に落ちた卵黄の色はとても艶やかだ。続けて、2個、3個と割り、牛乳を適量、蜂蜜も適量、そしてトパーズのように鮮やかな色をした手作りオレンジピールを細かく刻んで大さじにたっぷり一杯入れると、菜箸でかき混ぜる。菜箸の先とボールの底が触れ合い、食材が歌っているように聞こえる。

 綺麗に混じったことを目視すると.半分に切った食パンを4切れ投入し、満遍なく浸るように混ぜ込む。そして完全に味が染み込むまで放置している間にオニオンスープとサラダ作りを始める。

 それらの工程が終わり、バターを塗った熱したフライパンの上に味の染み込んだ食パンを寝かせるタイミングでナオは起きてくる。

 爽やかな甘い香りが部屋中を包み込む。

「おはよう」

 タケルは、笑顔で朝の挨拶をする。

 ナオも寝ぼけ眼で「おはよう」と返し、そのまま顔を洗いにいく。低血圧で朝に弱いナオ、起きてからもしばらくは夢遊状態が続く。

 タケルは、苦笑を浮かべて洗面所に行くナオを見つめ、焼き上がったフレンチトーストを皿に乗せる。卵と牛乳の混ざったクリーム色の表面にこんがり焼け目が付き、その優しい色合いが食欲を唆る。オレンジピールがビーズのように輝いてアクセントを加える。

 毎朝ながら会心の出来にタケルは、満足の鼻息を漏らし、出来上がった料理をテーブルに並べていく。

 オニオンスープ、トマトとレタスとチーズのサラダ、小さなウインナー、そして毎朝の定番であるオレンジピール入りのフレンチトースト。

 見事なまでのカフェ飯だ。

 女子高生なら涙して喜ぶだろう。

 自分の席に紅茶、ナオの席にコーヒーと牛乳を置いて席に着くと、導かれるように顔を洗い終えたナオも席に着く。

 阿吽を超えるタイミングの良さに他者が見たら舌を巻くことだろう。 

 そして言うのだろう。

 理想の夫婦だな、と。

「「いただきます」」

 2人は、同時に手を合わせ、同時に言葉に出した。

 しかし、口に運ぶのはナオが先だった。

 フォークを用意してあるのにフレンチトーストを手づかみすると、そのまま口に運ぶ。

 ナオ曰く、パンは手で食べる物らしい。

 毎朝のことながらその豪快さが面白くて目を細める。

「今日はどお?」

 毎朝作っているのに毎朝同じ質問をする。

「うーんっ」

 噛み切ったフレンチトーストを皿に戻し、口元を押さえながらゆっくりと咀嚼する。

「美味しいけどいつもより苦い」

 我が家のフレンチトーストに使っているオレンジピールは、タケルの手作りだ。オレンジの皮を嫌になるくらいスジを取って、嫌になるくらい煮こぼす。丁寧な作業をしているが、砂糖水などで味付けしてないので、自然本来の清涼のある匂いと苦味が残っている。

 タケルとナオは、結婚してから毎朝このオレンジピール入りのフレンチトーストを食べていた。

 どちらかが風邪とかで具合が悪くならない限り欠かしたことは一度もない。

 それが2人に課せられたルールであるかのように2人は毎朝食べた。

「これじゃお店に出せないよ」

「別に出さないよ」

 この会話も朝の常套句となっていた。

 ナオは、オニオンスープを啜り、小さなウインナを齧り、トマトを口の中に放り込む。そしてフレンチトーストを手づかみで食べる。

「タケルさあ。ひょっとしてだけど溜まってる?」

 タケルは、思わず口に含んだ紅茶を吹き出しそうになる。

「朝からなんだ⁉︎」

「だって、溜まってるから集中出来なくて、いつもより苦いんじゃないの?」

 何かおかしなこと言ってる?と言った表情でタケルを見る。

 タケルは、何も言わずに頬だけ赤く染めて紅茶を口直す。

 それはつまり図星ということだ。

 ナオは、勝ち誇ったようにニヤニヤ笑う。

「そういうナオこそどうなんだ?」

「どうって?」

「ここ2、3日起きてくるのがさらに遅いぞ。そっちこそ溜まってるんじゃないか?」

 仕返しとばかりにタケルが意地悪く言う。しかし、ナオはあっけらかんと、

「溜まってるよー」

 と、醤油とってとでも言うように返す。

 奔放なナオは、こう言う発言にも躊躇いがない。

 聞いたこっちが赤くなり、タケルはそれ以上何も言えずに草むらをつつくようにサラダを食べた。

「そんじゃさ。今日はお互いにその日にしようか」

 そう言うとナオは、スマホを取り出してSNSでメッセージを送る。

「よしOK!」

「早いな」

「善は急げでしょ?」

 そう言って残りのフレンチトーストを食べる。

「タケルも早く誘った方がいいよ。予定入れられる前に」

 そう言われてタケルもスマホを取り出しSNSで目的の相手にメッセージを送る。

「夕飯は?」

「もちろん食べる」

「作り置きでいい?」

「もちろん」

 そうしている間にタケルのスマホにも返事が返ってくる。

「そんじゃお互い遅くなるけど」

「レンジで温めてね」

 そして2人は朝食を食べ終え、身支度すると各々の仕事へと向かう。

 2人は、理想の夫婦と呼ばれている。

 しかし、肉体関係はなかった。


 タケルの経営するカフェは、地元でも有名な桜の名所である県立公園の近くにあった。亡くなった祖父から譲り受けた古民家をリノベーションし、江戸時代の茶屋のような雰囲気を残しつつも板張りの現代風にアレンジしたカフェは、地元民だけでなく、公園に遊びにきた区外、市外の人たちにも好評で、一度や二度、タウン誌が取材に来たこともある。

 最も客たちの目的がカフェしにくるだけでなく、紙面を飾ったイケメン店主を見に来ているとは本人も気づいていない。正直、身なりを気にしたことはない。仕事する時は、量販店で買ったパーカーにジーンズ、そしてナオが開店祝いに買ってくれたデニム生地のエプロンをしているだけだ。

 それにタケルとしては、店の雰囲気や周りの環境ではなく、あくまで味で勝負したいと考えている。

 高校を卒業して調理の専門学校に行ったことにも驚かれたが、カフェを始めたことにも家族、友人達は大変驚いていた。

 成績も良く、バスケでも高い評価を受けていたタケルは、てっきり大学に行ってどこかの大手企業に勤めるか、バスケで実業団にでも入ると思われていたのだ。

 それが180度違うカフェの店主となったことは今でも話題に上がる。

 その度にタケルは、カフェ経営はオレの夢だったんだと笑いながら語る。

 実際、タケルの料理の腕は中々のものだった。

 カフェで提供するのはロコモコや魚のフリッター、オムライスやパスタと言った主の物にスープやサラダをつけたプレートメニューが多いがどれも高評価だった。

 それだけでない。

 コーヒー、紅茶と言った定番にも豆や茶葉に拘り、種類も豊富だ。ジュース類も果物から直接絞った100%に拘っている。

 そして極め付けはなんといってもフレンチトーストだろう。フレンチトースト用にタケル自らが焼いた食パンに厳選した卵、牛乳、蜂蜜を使い、外側は程よく固く、中身がトロリとした不純な味のないシンプルな甘みは、誰が食べても喜ばれる看板メニューであった。

 その為、桜の時期でなくても客は絶えることなく、子供連れ、カップル、学生、お一人様、テラス席にはペット連れ等、たくさんの客が店を訪れる。

「今日もお客さんいっぱいですね」

 パートの女子大生も嬉しそうに言う。

「ありがとう。賄いにフレンチトーストを振る舞うからもう少しがんばってね」

 タケルがにこやかに笑いかけると女子大生は、少し頬を赤く染めて「はいっ」と頷き、張り切って業務に当たった。

 店の扉の開く音がする。

 スーツを着た男性が店の中に入ってきた。

「いらっしゃいませ」

 タケルは、にこやかに迎える。

 その男性客が一歩店の中に足を踏み入れた瞬間に、客の視線を一斉に集めた。

 背が高く、一眼でわかる上等なスーツ、肌は雪化粧を被ったように白い。顔の彫りが深く、鼻が高い。薄緑の目と被ったハットの隙間から金糸の髪が見える。

 恐らく英国系の白人だろう、紳士然とした佇まいでゆっくりとした足取りでカウンター席まで寄ってくる。

 そしてタケルの目の前の椅子を引いてそのまま座り、にっこりと笑う。

「ご注文は?」

 タケルもにっこりと微笑む。

「エスプレッソとフレンチトーストを」

「メープルシロップはつけますか?ジャムを好まれる方もいますが?」

「メイプルシロップで」

「畏まりました」

 そう言って厨房に行こうとすると、くいっとエプロンが引かれた。

 見ると、英国紳士の手がエプロンを掴んでいた。

 熱のこもった眼差しでタケルを見る。

 タケルは、その眼差しを受け止めると、笑みを消す。

「お客さま?」

 少し冷たくなった声に英国紳士は、慌てて手を離す。

「失礼しました。やはりエスプレッソでなくラテで」

「絵柄はつけますか?」

「お願いします」

 タケルは、「畏まりました」と呟き厨房へと戻っていく。

 英国紳士は、注文したラテとフレンチトーストをゆっくりと、時間を掛けて食べた。タブレットで書籍を読み、時の歩みと共に変化していく客層を眺め、エスプレッソを注文し直した。

 夕方になり、客も減り、パートの女子大生が仕事終わりに賄いのフレンチトーストを食べている間も英国紳士は、タブレットで書籍を読み、窓から差し込む夕日を見ながら席を立とうとはしなかった。女子大生は、訝しみながらも店主が注意しないので何も言わず、食べ終えるとそのまま帰宅していった。

 カフェの中は2人だけになる。

 タケルが食器を洗う音だけが耳を打つ。

 そしてタケルがエプロンを外し、カウンターから出てくると、ようやく英国紳士は椅子から立ち上がる。

「お待たせ」

 タケルが優しく微笑むと、夕日に照らされた紳士の顔が輝く。そしてタケルの肩に手を回すと、そっと引き寄せ、唇を重ねた。

「今日は楽しみましょう」

 そう言って2人は暗い店の奥へと身体を入り込ませていった。


 ナオは、市立大学の看護学部を卒業後、そのまま付属の大学病院に勤めた。

 大学病院では救急救命を始め、外科、整形外科、産婦人科の病棟ナースを経験、どこの部署に行っても評価はA判定。優秀、手際がいい、同じ看護師たちから見ても処置の早さ、点滴の刺し方、患者への対応は素晴らしく、医師達からしても彼女が手術に一緒に立ち会ってくれると言うだけで安心感がまるで違うと評され、一時期は医学部をもう一度受けてみてはとまで言われた。後輩への指導も素晴らしく、リーダーシップを発揮し、20代でチーフの声まで上がったが、「結婚するので」と丁重に断られ、遂には外来への希望を出された時は、上層部たちはとても驚いていた。

 恐らく子どもを産むことを考えているのだろうと周りは思い、チーフになったとしても産休育休は勿論使えるし、時短だって出来ると説得したがナオの決意は変わらず、惜しまれつつも外来への異動となった。

 ナオは、屋上のベンチでタケルが用意してくれたお弁当を食べていた。朝は洋食だからと、いつも和食弁当にしてくれる。今日は鮭の俵お結びにたまご焼き、昨日の残りの里芋とイカの煮物、ほうれん草の白和えに明らかに早起きして作ったであろう唐揚げが2個添えられている。

 誰がどう見ても愛情弁当と言えるものだ。

 ナオは、鮭お結びをゆっくり咀嚼する。

 鮭の塩味と白米の甘味、海苔の風味とはこれほどに相乗効果を生むのかと驚嘆する。

 ナオは、お結びを飲み込み、水筒から注いだほうじ茶を啜る。これもタケルが用意してくれたものだ。

 そしてじっと空を見た。

「平和だなあ」

 真っ青な空。どこまでも広がる空。何の刺激もない空。雲の一つでもあればいいのに今日に限ってそれもない。

 外来は、時に急患が来ることもあるがほとんどが穏やかだ。高齢者の相手、泣く子どもへの注射、不安を抱える患者への傾聴も救急や病棟の時ほどに深刻なものは来ない。

 穏やかだけど刺激のない仕事。

 自分が望んで異動したというのに、こんなことを思ってしまう自分は我儘なのだろう。

 病棟から外来に異動した理由は周りが考えているようなことではない。周りが考えているようなことを私は出来ない。

 異動を希望した理由、それは外来には私と年の近い女性がいないからだ。

 大体が40代後半〜定年間近の看護師が多い。たまに新人の看護師が入ったりするがかなり歳下なので範疇外だし、医師の中には同じ年代もいるがそんなに接点がない。

 そのおかげで心穏やかに仕事は出来ているのだが・・・。

「退屈だあ」

 看護師になるのは昔からの夢だ。

 父親が当時では珍しい男性の看護師でその働く姿が格好良く、憧れを抱いたのがきっかけだ。

 しかし、自分のある特性に気づいてからこの仕事は、自分には無理なのではないか?と思った。諦めて普通の会社員を目指そうとも思った。しかし、それを後押ししてくれたのが誰であろうタケルだった。

「ナオは、夢を諦めないで。自分に負けないで。ナオならきっと出来る。オレも支えるから」

 その一言が今の自分を作ってくれた。

 そして難関と言われた市立大学に合格し、看護師と保健師の資格を取り、今に至っている。  

 大学病院にはずっといるつもりはなかった。ある程度キャリアを積んだら家の近くの個人医院か役所の保健師にでもなるつもりだった。しかし、外来を体験すると刺激のなさに続けていくのが難しいのではないかと思ってしまう。

「どうしようかな・・・」

 こんな私に出来る選択肢。

「何悩んでるの?」

 吐息と共に耳元で声をかけられ、ナオは思わず「ひやゃあっ⁉︎」とらしくない声を上げる。

 いつの間にか白衣を着た女性が隣に座っていた。

 肩甲骨あたりまで伸ばした髪をシュシュでまとめ、胸元に流している。少し丸みのある顔に大きな目、口元に三日月のような笑みを浮かべるのがなんとも可愛らしい。少し幼顔なのに身体の肉付きはとても良く、白衣が色気をひき立たせていた。

 彼女もこの病院に勤めるMSW、メディカルソーシャルワーカーと言う職種で主に退院調整や介護や何らかの支援が必要な患者に対し必要とされる機関に繋ぐ仕事をしている。いわゆる相談援助職だ。

 ナオも病棟ナースとして勤務していた時に良く関わっていたし、外来になってからも同じ階だからよく顔を合わせた。そして今でもプライベートで色々なものを合わせている。

「い・・・いつの間に?」

 ナオは、動揺を隠せなかった。

「さっきからいたわよ。声かけようと思ったんだけど、考え事してる顔があまりに可愛かったから見惚れてたのよ」

そう言って、男なら間違いなくころっといってしまうような色香のある笑みを浮かべてナオの頬に触る。

 ナオの心臓は、ドキドキして止まらない。

「あら珍しい。緊張してるの」

 ナオの頬をピアノを弾くようにトントンと触る。

「突然現れたからびっくりしただけだよ」

「だからさっきからいたわよ」

 そう言ってナオの顔に自分の顔を近づけて唇を合わせる。

 長いのか、短いのかわからない時間、2人は唇を重ねた。

 無言の空だけが彼女たちを見守る。

 そしてようやく離すと少し息切れしながら彼女は笑みを浮かべる。

「おにぎりの味がする」

「鮭が美味しいでしょ?」

 2人は、額を寄せ合って笑う。

「今日はお誘いありがとう」

「こちらこそ、突然でごめんね」

「楽しみにしてる」

 そういって彼女は、立ち上がるともう一度ナオの頬を触り、去っていった。

 今日は、少しは刺激的になりそうだ。

 そして、ふっと思った。

「相談援助職かあ」

 地域包括支援センターや保健所で働くのも悪くないかもしれない。

 新たな視野を手に入れてナオは、気分が良くなり、夜を心待ちしながら仕事に励んだ。


                 つづく

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