蕎麦処の女将
西川東
蕎麦処の女将
単身赴任で働くWさんの体験。
Wさんの趣味の一つに、食べ歩きがある。それはネットや雑誌で有名な店ではなく、町中華や個人で経営している食堂、特に蕎麦屋には目がないという。チェーン店とはまた違う、客層やメニュー表、その個人店独特の雰囲気がたまらないそうだ。
ある休日の昼間、なにか食べようと行きつけの店に行ってみると、そこが店員の体調不良から急遽休店となっていた。
(これも個人店ならではだな)と、あきらめて別の店に向かうと、そこは定休日になっていた。
こうして、あてもなくフラフラと歩き回っていると、みたこともない蕎麦屋の前に出た。
いままで、「近隣の店は開発しつくした」そう思い込んでいたWさんは、この蕎麦屋の存在に意表を突かれた。すぐさま、ここだと店の戸を開いた。
「いらっしゃいませ」
店内の少し暗くて、木造の古臭い感じとは対照的に、若く、透き通った女性の声が響き渡った。そして、声の主、三十代ほどの長身の女性。この着物姿の彼女、短く切った髪に化粧は薄めの顔、その席に案内する身のこなし、何もかもがキリッとして気持ちがよかった。
「なんにしましょう?」
注文をとる彼女の、凛々しくもどこか優しさのある声に、思わずこちらの声が上ずってしまう。そんな調子だから、考える余裕もなく「もりそばで!」と口走ってしまった。
少々お待ちを・・・と、立ち去っていく彼女の後姿を目で追っていく。厨房にその姿が消えてしまうと、客は自分一人だけなのに気付く。なんだか、ちょっと寂しくなった。
(点呼が聞こえてこないな・・・女将さん一人で切り盛りしているんだろうか?)
そう思うと、なんだか自分が、あの女将さんを独り占めしている気がして、変な優越感が湧いてきた。
(こんなにいい女将さんがいるのに、お店が空いているのは腑に落ちないな・・・)
(やはり、隠れた名店というやつなのか。はたまた蕎麦は不味いのか・・・いやいや、そんな訳があるまい・・・)
(他に客は来るのだろうか?来なかったら、女将さんに声でもかけてしまおうか・・・)
店の天井の隅っこ、テレビに映った面白くもない番組を眺めながら、そんな妄想を楽しんでいた。
ここで、歩き回ったのが原因か、腹痛が襲ってきた。店に誰もいない形になってしまうが、どうのこうの言っていられない。急いで店の奥の方、『お手洗い』と書かれた部屋に駆け込み、更にその中の個室の扉を開く。
そして、なんとか一難も去り、腰をあげて後は外に出るだけ。
(今頃、誰もいない席に蕎麦を置いた女将さんが待っているんだろうな)
そんなことを考えながらドアノブに手をかけた。ちょうどそのタイミングであった。
「お待たせしました。『かけそば』です」
あの凛として優しい声が、扉の一歩前、すぐそこから聞こえてきた。
(注文したのは『もりそば』だが・・・)と一瞬思ったが、そんなことはどうでもいい。
店員がお手洗いの個室まできて、料理を持ってくることがあろうか。
いや、それ以前に、音もなく、個室の扉の前まで・・・。
状況を理解しようとして、逆に混乱しているWさんをよそに、外の女将さんの声はしゃべり続けた。
「天ぷら蕎麦、お持ちしました」
「鴨南蛮でございます」
「きつね蕎麦です」
「ニシン蕎麦お待たせしました」
「大変お待たせしました・・・」
こんな感じのことを、順繰りにハキハキと口にし続ける。よく通った素敵なあの声は、抑揚があるのに、壊れたカセットのように機械的な雰囲気がする。なんだか、急に末恐ろしくなってきた。逃げ場のない個室の温度がガクッ・・・と下がった気がした。
(いま、扉を開けた先にいるのは、本当にあの女将さんなのだろうか)
そんな言葉がふと頭の中によぎったとき。
「『もりそば』でしたもんね。ちゃんと覚えていますよ」
あの女将さんの声が、耳元でいたずらっぽく囁いた。
うわっ!と叫び声をあげてお手洗いを飛び出したWさん。
すると、そこには先ほど注文した際にはみたことのない、背の曲がった老婆がいた。
「あら、お客さん、いらしてたの?」
訳の分からなくなったWさんは、「違います!」と、これまた訳の分からないことを叫んで店を飛び出したという。
後日、近所の人にそれとなく件の蕎麦屋のことを尋ねたが、「昔から老夫婦二人きりで経営している店で、若い女など今日日みたことがない」とのことだった。
最後に女将さんにかけられた、あの〝いたずらっぽい〟声。
それを思い出す度に、言葉の節々から、どことなく邪悪なものを感じて、Wさんは背筋が寒くなるそうだ。
蕎麦処の女将 西川東 @tosen_nishimoto
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