第69話 「泣かせてしまった」

 お店の入口に立つ、エリアスの存在が信じられなくて、私はすぐに駆け寄れなかった。


「本当にエリアス、なの?」


 見覚えのある茶色い髪に、緑色の瞳。私よりも頭一個分くらい高い身長。

 爽やかな見た目に反して、中身は意外とお茶目。

 私はいつもそれに翻弄ほんろうされていた。


 一歩ずつ前進しながら、その一つ一つを確かめた。


 苦笑する、その顔に手を伸ばすと、待ちきれないとばかりに掴まれて、抱き寄せられた。


「ごめん、マリアンヌ。怖い思いをさせて」


 その瞬間、たがが外れたかのように感情が溢れた。エリアスの背中に腕を回して、強く服を掴む。その手は震え、呼応するかのように、目から止めどなく涙が流れた。


「エリ、アス……私……私の、方こそ、ご、ごめん、なさい」


 嗚咽おえつが混ざって、うまく言葉が発せられなかった。それでもエリアスは優しく髪を、背中を撫でてくれた。


「うん。いいんだ。結局、こうなったから」

「こうって?」


 私は顔を上げて、エリアスを見た。


「悲しませないように、泣かせないようにしたかったんだ。それなのに……」


 未だ涙が流れる両頬を包み込むと、エリアスは顔を近づけた。

 瞼にキスをして、閉じた瞬間に流れた涙を指で拭った。


「泣かせてしまった。こんなにも」

「同じ、ことを、言う、のね」


 返事をしている間にも、エリアスの唇は濡れた私の頬へと向かう。

 流れた涙を追うように、上から下へ。


「同じ?」

「お父様、が」


 目を開けようとした瞬間、再び瞼にキスされた。


「泣きそうな顔は、見たく、なかったって」

「うん。俺も見たくなかった。だから……」

「エリアス?」


 その先を促すように言うと、顎を掴まれ、唇に柔らかい感触がした。

 目を閉じていても分かる。エリアスの唇だと。


「んっ」


 声が漏れた瞬間、薄目をそっと開けた。そこに映ったのは、見慣れない壁と天井。

 薄いオレンジ色ではない茶色い塗装に、私はハッとなった。


 あっ、ここはケヴィンのお店じゃない!


「んんっ!」


 離してとばかりに私はエリアスの背中を叩いた。


 すると簡単に、けれどゆっくりと唇が離れた。が、背中と腰に腕を回されてしまい、エリアスとの距離はさほど変わらないままだった。


「エリアス、その……少しだけ、離れて……」

「嫌だ」

「で、でも、ここは……私の部屋じゃないんだよ」


 この状態のエリアスに、ケヴィンの名前を出すべきじゃないと思った。けれど、恥ずかしくて後半は小声で抗議した。


「あぁ、周りを気にしているのなら、大丈夫だ。誰もいないから」

「え?」


 咄嗟に首を左右に振って確かめる。

 うまく周りが見えないことが分かるや否や、エリアスは私を抱き抱えた。


「嘘は言っていないだろう?」

「う、うん。でも、何で?」

「そりゃ、マリアンヌのあんな姿を、見せたくないからに決まっているだろう」


 あんな姿って。つまり、知らない間にエリアスが、人払いしていたってことなの?


 でも、お陰でキ……じゃなくて恥ずかしい場面を見られずにすんだのは、感謝しないと……。


「……ありがとう」

「うん」


 エリアスは私の頬にキスをしてから、下ろしてくれた。


「マリアンヌ……」

「何?」


 突然、神妙な顔で名前を呼ばれた。声もどこか不安気な様子だった。


「まだ、怒っている?」

「怒るって?」

「その、今日の午前中……」


 言い辛そうな声を出しながら、エリアスがネクタイに手を当てた。


「今は怒っていないわ。あの後、色々なことがあったから」


 というより、この体勢を拒否していないんだから察してよ。さっき、キスだってしたんだし。


「今はってことは、まだ怒っているんだろう」

「それは、後でちゃんと罰を受けてほしいと思ったからよ。このネクタイをしたこと。お父様の不調を黙っていたこと。それに対しての罰を」


 私はそう言いながら、順番にネクタイとエリアスの顔に人差し指を向けた。


「じゃ、別に俺を見捨てて邸宅を出たわけじゃないんだな?」

「何の話?」

「ポールがそう言ったんだ。愛想を尽いて、マリアンヌは邸宅を出て行ったって。見捨てられたって言われて……」


 悔しそうに話していた顔が、次第に泣きそうな顔へと変わる。


 あぁ、これなんだ、と私はここでエリアスとお父様の気持ちが、ようやく理解できた。


 確かにこんな顔は見たくない。泣きそうな顔なんて。それも私が原因なら、余計に。


「それなら、どうしてここに?」

「密偵と連絡が取れるケヴィンなら、マリアンヌの行方が分かると思ったんだ。そしたら――……」

「うん。私がいた」


 頷くエリアスの顔に、私は満足した。


「ほら、私がエリアスを見捨てたわけじゃないでしょう?」

「……ここにはケヴィンがいる」

「うん。ケヴィンのお店だからね。エリアスの冤罪えんざいを晴らすために、協力してもらいたくて来たの」


 だから、ケヴィンに乗り換えるわけじゃないのよ、と言うとエリアスは安堵した表情になった。


「それなのに、当のエリアスが現れるんだもの。……ビックリしたわ。どうやって抜け出して来たの? 釈放されたわけじゃないんでしょう?」

「あぁ。表向きは今も、部屋で拘束されていることになっている。治安隊にテス卿の知り合いがいるから、その伝手つてで抜け出して来たんだ」

「それじゃ、尋問と言っても酷いことをされているわけじゃないのね」


 よく見ると、エリアスの顔に傷や痣はない。私が抱き締めても、痛がる仕草や、我慢するような仕草もないことに、今更気がついた。


「ポールの尋問以外はな」

「っ! ごめんなさい。確かに邸宅を出る時、エリアスよりもお父様の用事が大事って言ったわ。でも、それは外出する口実で。本当はエリアスのためなの。だから、見捨てたわけじゃ――……」

「分かっている。それすら俺を攻撃する材料にしたってことは。でも、自信が持てなかったんだ」


 あの時、私がエリアスの手を振り払ったから。


「ダメって言ったのに、このネクタイをしたエリアスが悪いのよ」

「慰めてくれないのか?」

「自業自得よ。少しは反省して。あと秘密にしないで」


 本当は慰める場面なんだろうけど、すでに前科があるため、寛容になれなかった。

 そう、二年前。私に内緒でオレリアと叔父様を処理しようとしていたから。


「ごめん」

「うん。もう二度としないでね」

「分かった」


 シュンとする姿に、今は満足することにした。本当に分かったのかは怪しいけど、今はこの件を問い詰めるところじゃない。

 そう、気持ちが落ち着いた私は、あることを質問した。


「それでお父様と何をしようとしていたの? ポールを罠に嵌めようとしているって聞いたけど」


 エリアスがここに現れる前に話していたことだ。

 これはお父様だけじゃない。エリアスも一枚噛んでいるに違いないと思ったからだ。

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