波打ち際で、ふと振り返って、ゆるやかな曲線を描いた道を走る、一台の車をみたとき、――もしくは、月の浮かんだ海で冬眠している、重力への根深い怨みをいだいた、幾人ものひとの呪詛が凝固して成った楕円形の塊がまとう、冷淡な寂しさの影を感じるとき、貝殻のなかで乱反射している凱歌が、深宇宙へと放散されるのだろう。


 喩え続けるならば、サハラ砂漠に架かるほの暗い虹を、幽霊が運転する貨物列車の荷に埋もれて夢みるとき、――もしくは、飛脚が人恋しい峠道で見つけた彼岸花を、真夜中に狐が摘みとるとき、少なからぬ人々の無意識下の欲望から、物語への憧れが霧消するのだろう。


 一月の中旬の、いまだに山奥で凍てついたままの滝が、ぼくのみすぼらしい首筋にあるような気分がするとき。そんなときには決まって、彼女の目線が捉える対象物の隅に、ピントの合わないぼくが映っている。


 すると、瞬く間に、倒置法ばかりで構成された詩を綴った書物が、無数の鳥の群になり、超自然的な芸術感覚が、普遍的な真理にでもなったかのように、――そう、あらゆる定義が無根拠であることが曝かれた末、ぼくの亡命先であるこの外延で育まれつつあった文学と科学は、遠近法を逆転させてしまう。


 奈落の底、――楽園から独立を勝ち取った、主権を保持する自治領域――には、さらなる係争の種、即ち、所有権が不明の、無主物と見なされている鍾乳洞があり、青い霧が、空っぽな思想を練り固めた生命体を隠蔽している。


 そんな鍾乳洞の回路を抜けると、静謐と虚無、このふたつの冷凍された概念の頂を繋ぐ稜線が、月の明かりに凪いでいる。


 ああ、靴紐を結ぶこの手に浮かぶ血管が、彼のもののように見えてしまう。むしろ、そうであればいいのに、とさえ思う。ドッペルゲンガーの逃避行が、情のない瞳を灼いている。……


 家の前の、ゆるやかな坂の道をのぼっていくと、区長の家のガレージから黄身色の明かりが漏れていた。壁に立てかけられている折り畳まれた椅子を開くと、眠りこけている華の秘密を暴こうとする、佞悪な妃になったような気分がした。


「山口くん、こんばんは」と、ふいに、彼女に声をかけられた、――清潔に。


 いま、目の前に、彼女がいる。初春の地中海の白夜、とでもいうような、半文学的な比喩、もしくは、可能性と幻想の狭間にある妄想、――手が届かないというより、実感がわかない。火星から届いた手紙に貼られた切手が、ぼくの知る概念の写生であれば、そんなことを思いはしないのに。


 太鼓の皮の真ん中は黒ずんできている。バチで叩くと吸い付くような感覚がする。子供たちが、競うようにガレージに集いはじめる。祭りは、そう遠くない。……

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