第34話 石槫荘密室殺人事件

石槫いしぐれ荘密室殺人事件〉


 俺の部屋の前に来た。ボロアパートのボロ扉。上には通風孔。そしてカバー。戸を開ける。中に入った。蝶番の軋む音が、したような気がした。

 玄関。靴も脱がずに入る。すぐ左手には台所。冷蔵庫のすぐ隣に洗濯機。電子レンジは見当たらない。代わりに埃と、黴の匂い。鼻孔を薄く突き刺して、胸の奥のあの感情を呼び覚ます。

 背中を二発撃たれた死体。

 炬燵に突っ伏す男の背中。

 人形だから、血のにおいはしないが……どことなく、生臭い気がする。

 誰かがつけた明かりの中に入っていった。俺の影が人形を包んだ。この背中を踏みつけたい気持ちに駆られた。頭の芯が痺れてきた。この瞬間、思考は放棄していた。代わりにただ憎しみだけを、俺は喉で感じていた。

 しゃがみ込む。傷跡を見つめる。石榴みたいに弾けた肉片。親指が丸々入りそうな穴。指圧でもするみたいに、ぐっと親指で押したくなったが、無意味な行動だと自分を嗜めた。これ以上この背中を見ていても無駄な気がして、俺はしゃがんだまま振り返った。

 俺の背中に廊下の明かりが差していた。見ると玄関ドアの通風孔のカバーの目が、ちょうどブラインドのように重なり合っているカバーの格子が、俺のいる位置からだと全て平行になって外からの光を全部透過させていた。俺はぼんやりとそれを見た。幾筋も並んだ光の束。不思議だった。見ている内に温かい気持ちになれた。

 と、光の束に乱れがあることに気が付いた。カバーの格子、ブラインドの刃に当たるところが凹んでいるのだ。ああ、はめ込む時にハンマーで殴ったっけな。その時に一か所強く叩き過ぎたか。そう思った時だった。

 .38スペシャル自体は珍しい弾じゃない。競技射撃でも使う。だから大学の射撃部にも備蓄がある。俺が立宗大学射撃部の弾を使わなかったのは、大学の部活で使われる弾は管理がされているからだ。あそこから盗めば足がつく可能性がある。でも、そうか、もし、それなら……。

 俺は立ち上がって部屋を出た。玄関の外から、通風孔カバーを見る。あった。ハンマーで格子を叩いた跡。ブレードの一部が凹んでいる。そしてブレードの隙間の角度は――そうだ、死体人形の背後にしゃがみ込んだ俺から見て、隙間から差す光が見えたのだから――細江啓二の背中に向かって垂直に差し込む形で出来ている。つまり、通風孔カバーの隙間から細江の背中は狙える。格子の隙間を目測で確認した。隙間の幅はだいたい一センチ程度。入る。.38スペシャル弾が入る。

 いけるかもしれない。

 俺は振り返ると足早に資料室へと向かった。階段を一段一段下りるのがまだるっこしくて、最後の方は数段飛ばしに降りていた。やがて資料室に入った。俺は〈石槫荘密室殺人事件〉の棚の前に来た。『事件全貌』『採取された物的証拠』『捜査官の所感』全て抜き取られていた。俺はデスクへと向かった。

 果たして大関未菜が資料を広げてそれらを読んでいた。俺は彼女の隣に立った。

「よかったらそれ、見せてくれないか」

 俺は『採取された物的証拠』を指差した。大関未菜はちらりと、サイドの髪の毛を揺らしてこちらを見てきたが、すぐに「いいよ」と資料をこちらに押しやってきた。俺は「ありがとう」と礼を言った。この関係も、何だかおかしい気がしたのだが。

 ページをめくった。細江の体から採取された弾丸。これについての記述を探した。すぐにそれを見つけた。俺は読みふけった。


・.38スペシャル弾――被害者の体内より。二発続けて撃ち込まれており、内左側に当たった弾丸が肺と心臓の一部を破壊。致命傷になったと思われる。弾丸の出所については謎が多く、警察官の標準装備であるため近隣の交番、警察署、全ての備品を確認したが使途不明の支出はなく、石槫荘近辺でこの弾丸を入手するのは不可能だとの判断が下った。使用された拳銃含め、弾丸にも謎が残っている。


 俺は深いため息をついた。

 弾丸についての記述が少ない……! 弾丸の出所は謎だと表記されている! 触れられていない。立宗大学の射撃部についての記載はない……! 

 俺は震える手を挙げた。大関未菜がそれを大きな目をして見ていたが、俺は真っ直ぐ手を伸ばすと、天井に向かって突き立てた。すぐに声がした。

〈若槻明宏〉

 声に俺は返した。

「告訴したい」

 スピーカーの向こうで、微かな笑い声が聞こえた気がした。

〈よかろう〉

 大関未菜。ゲームマスターは俺の隣にいた参加者を呼んだ。

〈君が被告席だ〉

 そして、そう、この時、俺は……。

 大関未菜のことを見つめることができなかった。俺はただ黙って、彼女の方を見ないようにしながら資料室を出た。食堂まではすぐだった。俺はあっという間に告訴台にいた。



 大関未菜が被告席に着いたところを見て、俺はああ、とため息をついた。目を伏せた彼女の顔。何の表情もない彼女の顔が、俺の中の何かに巻き付き、締め上げた。呼吸が苦しくなった。心臓が弱まるのを感じた。だが俺はこうしなければならなかった。俺が生き残るために、こうしなければならなかった。

「言うまでもないが……」

 俺は告訴を始めた。

「俺は〈石槫荘密室殺人事件〉について扱う」

〈ほう〉

 天井のモニターが展開して、ゲームマスターの不気味な声を中継する。

〈分かっているだろうが若槻明宏。この告訴が失敗すれば君は発言権を失う。状況は圧倒的に大関未菜に有利になるんだ。分かっているね〉

「分かってる」

 俺は再び息をついた。

「しゃべらせろ」

 今度はゲームマスターがため息をついた。

〈邪魔して悪かったね。続けたまえ〉

「簡単に事件について説明する」

 俺は大関未菜を睨みつけると話を始めた。

「私立立宗大学の学生寮、石槫荘の二〇五号室で異臭騒ぎがあった。駆けつけた管理人が見つけたのは入居者細江啓二の射殺体。警察は本件を殺人事件と断定。捜査が始まった……」

 俺は被告席で縮こまる大関未菜を見て、華代もこんな風な顔をしたのかと思いを馳せた。華代にこんな思いをさせたなら悪かった。申し訳なく思う。だが兄ちゃんは許せなかった。どうしても、許せなかった。

「捜査は早速難航する。現場は窓にシャッター、玄関に鍵、という完全密室。蟻一匹入ることできない空間だった。しかしこれに関しては……前に大関未菜が指摘してくれた通り、玄関上部の通風孔につけられたカバーが後付けであることが分かった。事件当時、ここには三十センチ四方の穴が開いていたことが想定される。犯人はここから細江を撃った。その論旨は俺も変わらず、支持したいと思う」

 ゲームマスターがいやに静かになった。俺は構わず続けた。

「だが俺の主張はある点が決定的に違う」

 一瞬、俺は足元が崩れるような不安に苛まれた。俺の論理に穴はないだろうか。俺が見落としていた小さな穴が、俺を奈落の底へ導かないだろうか。だが俺は気を確かに持った。話を続けた。

使という説を俺は提唱したい」

 ほう、とゲームマスターがフクロウのような声を出した。俺はしゃべり続けた。

「弾丸というのは、何も銃を必要としない。銃は。この装置を他の道具で代用できるなら、銃なんて道具は必要ない。弾丸が発射さえできれば、あんな容れ物は必要ない」

〈銃を使わず弾丸を発射できると言うのかね〉

 ゲームマスターの問いに俺は答えた。

「できる」

〈どうやって?〉

「弾丸の構造について触れる」

 俺は告訴台から身を乗り出した。

「銃の弾丸というのは、まぁ色々種類はあるが、おおまかな構造を話せば、リムと呼ばれる弾の底に当たる部分に衝撃を与えて、プライマーと呼ばれる雷管を刺激し、火薬を発火させることで圧力を生じさせて弾の部分を発射させる、そういう仕組みだ」

 俺の話を、大関未菜は小さくなりながら聞いていた。

「銃という装置は、この雷管の仕掛けが施された弾丸の、言わば尻の部分を叩いて爆発させ、安定的な軌道で発射するための装置に過ぎない……この、、というのがポイントだ」

 俺は再び息をついた。

「大関未菜。お前は以前の告訴で『通風孔カバーをハンマーで叩いた形跡がある』と言ったな。俺も確認できた。通風孔カバーには明らかに硬い何かで叩いたような跡があった」

 あったも何も、ないんだけどな。

 実際俺はあのカバーをはめる時にハンマーで叩いた。四隅と、それから真ん中を、ごつんと何度か、叩いた。跡というのはその時にできたものだろう。

「ここで思い出してほしい。弾丸は尻を叩けば発火し弾が射出される」

 場の空気が爆ぜるのを俺は感じた。

「もし弾を何かに固定して、ハンマーでリムを叩いたとしたら? 雷管を刺激するのに十分な衝撃をリムに与えることができたとしたら? 弾は発射され、細江啓二の背中を襲わないか?」

「そんな都合のいいこと、できない」

 大関未菜が反論した。

「仮にその理論で弾を発射できたとしても、狙いを正確につける装置もなければ、弾道を安定させる手段も……」

「弾道を安定させる手段は確かにない」

 俺は彼女の言うことを肯定した。

「だが狙いをつける装置ならある」

 通風孔カバーだ。

 俺はそう告げた。自分が殺人の時に使った小細工の道具を、こうして再び人を破滅させるために使うのは、何だか不思議な気持ちだった。自分が極悪非道の人間になったような気分になった。

「通風孔カバーはブラインドのように斜めになった金属のブレードが設置されている。当然、このブレードには角度があって、通し方によってはカバーを抜けて物を通すことができる」

 俺は記憶の中の景色を思い浮かべながら話した。死体人形の背中から見た通風孔カバー。ブラインドの隙間から見えた廊下の明かり。

「俺は現場の部屋で確かめた。カバーの隙間部分は細江の背中に光を差し込ませる形で開いていた。つまり、通風孔カバーのブラインドの隙間に弾丸を差し込んで、リムをハンマーで叩けば最低限どこに飛ぶかは固定できるということだ。確かに弾道の安定はできない。だがそれは、弾を数発撃ち込むことで解消しようとしたんじゃないか? 細江の背中に打ち込まれた二発は、トドメの意味も、安定しない弾丸の保険の意味もあったんじゃないか?」

 この方法なら銃はいらない、と俺は告げた。すぐさま大関未菜からの反論があった。

「弾の入手ができない」

「できる」

 俺は断言した。

「現場近くの立宗大学には射撃部がある。凶器になった.38スペシャル弾は競技射撃にも使われる弾丸だ。つまり大学の備品に弾丸がある。ここから弾を盗むことができたら? 人目を盗んでいくつか失敬することができたら?」

「私にはそんなことはできない!」

 と叫んだ大関未菜に、俺は続けた。

「できたかもしれない」

「私は立宗大学にいない」

「いたかもしれない」

「さっきから可能性の話ばっか……私が立宗大学にいたっていう客観的な証拠を……」

「『事件全貌』に、あった」

 俺は強く大関未菜を見つめた。

「被害者、細江啓二が性的関係を強要していた女子学生の一人に、『谷原未菜』という人物がいた。細江の生存を最後に確認した女性だ。『谷原』はこの屋敷にいないが、『未菜』はいるな? 今、目の前に」

 大関未菜の表情が固まった。

「もし、何らかの事情で苗字が変わっていたのだとしたら」

 ゲームマスターのふふん、という声が聞こえた気がした。

「この谷原未菜とお前を繋ぐ線は、確かにない。だが谷原未菜がお前ではないことを説明する資料も同様にない」

 頼む……。

 ここに来て、俺は神に祈った。

 頼む、通ってくれ。俺のこの告訴が通らなければ、状況は大関未菜に圧倒的に有利になる。頼む、通ってくれ……。

「俺の告訴は以上だ」

 最後の一声を、俺は発した。

「ゲームマスター。どう思う」

 しばしの沈黙があった。

 それは長い沈黙だった。

 いや、時間にしてみれば一瞬だったのかもしれない。

 だがいやに長く感じた。

 そうして時間が過ぎた後、ゲームマスターはつぶやいた。

〈納得できる……〉

 それから告げた。

〈『同意』しよう〉

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