第33話 一対一
〈当たり屋というのは明らかな金持ちよりも、努力すればある程度お金を用意できる人間を狙うらしい……〉
貝塚聡が「あの部屋」に連れ去られた後。
ゲームマスターが静かに語りはじめた。
〈貝塚聡は真面目なサラリーマンだった。勤勉で、酒や賭け事も一切せず、女も妻一人、趣味らしい趣味もなわとび含めたジムでの運動だけで、ただ貯蓄をしていく、極めて堅実な男だった。彼の目標はただ一つ。現役時代に蓄えた金を使って老後世界旅行をすること。妻と計画も練っていた。だがある日、妻が人を轢いた……そいつが三条利通、当たり屋だった」
俺はあいつのことを、貝塚聡のことを思った。
毎日辛い思いをして稼いだ金。
将来のために蓄えた金。
それをどこの誰とも知らない、人を脅して金をとるような奴に奪われる気持ちが、どんなものだったか。
〈三条はまとまった金を要求するようなことはしなかった。ただ毎月ちょっとずつ金を吸い取るような真似をした。真面目に働く貝塚も、さすがに毎度毎度、連続して掠め取られると疲弊していった。そしてある日、それは起きた〉
俺は頭の中で「ある日」を思い浮かべた。事故の決定的場面を元に金を強請る三条と、絶望的な表情をする貝塚。やがて貝塚の目線は家の片隅に置かれた趣味のなわとびに注がれ、ラベルを剥がしたクリアコーヒーを飲んでいる三条の首にぐいいっと……。
〈貝塚は三条を殺した。殺してすぐ、家族に連絡した〉
まず妻に連絡した、とゲームマスターは続けた。
〈妻はすぐに夫の元へ向かった。そこで息絶えた三条利通を見つけた。妻は自分が招いてしまった事態の大きさに絶望したが、考えた。何とかこの事件を、何とかこの一件を終わらせるには……するとそこに、母が来た。妻の母だ。母は定期的に、娘の真面目な夫に挨拶に来ることにしていた。だが、その日は運が悪かった……〉
雪だるま式に大きくなっていく事態に胸が痛んだ。
〈母は『このまま時間が経てば経つほど不利になる』ことを告げた。いっそのこと自分から警察を呼んでしまった方がいい、とも進言した。だが刑務所送りは困る。それだけは困る。なので口裏を合わせることにした。だが即席のアイディアではどうしても破綻があった……〉
そこから進んだ惨劇を思うと息が苦しくなった。だが、失敗が功を奏することもあったようだ。
〈母は自分の家族以外の誰かが犯人だったということになればいい、と、『現場から逃げた謎の人物がいる』という話をでっち上げた。妻は死んでいる三条が自殺だったらいい、と、『三条自身から自殺を仄めかすメッセージが来た』ことにした。本来なら、こうしたその場凌ぎの発言は矛盾や食い違いが生まれてお互いを破滅させ合うものだが、妻と母の証言は奇跡的にもお互いがお互いを邪魔しなかった。貝塚が確実に相手を絞め殺そうと咄嗟にとった『相手を背負うようにして絞め殺す』という手段は、索条痕が自殺の場合と一致する方向に役立った。しかし強く踏み込んだ足跡という他殺らしさをにおわせる証拠も残ってしまった。果たして『自殺なんだか他殺なんだか分からない現場』が完成した〉
そして、捜査が混乱したのか。俺は深くため息をついた。迷宮入りには綿密な準備や、シンプルすぎるほどシンプルな構造以外にも、運や巡り合わせというのも大事なのかもしれない。
〈そういうわけで若槻明宏。君の勝利だ。おめでとう〉
俺は告訴台から下りた。虚しい気持ちになったが、大きな勝利だった。食堂のテーブルの前に立った時、俺は大関未菜と目が合った。
――こいつが、冤罪か。
残った〈
――そしてこいつは、とっくのとうに俺を〈石槫荘密室殺人事件〉の犯人だと考えている。
一から証拠をでっち上げないといけない俺に対し、大関未菜はかなりのところまで俺を追い詰めている。不利な状況だった。しかしこれを覆さないことには「あの部屋」送りになる。
大関未菜と見つめ合った。向こうも俺が犯人だと分かっている。もう確実に俺を狙いに来る。あいつが俺の部屋を調べに調べて、事件の解像度が上がれば上がるほどこちらは不利になる。俺は考えた。どうにかして、彼女に罪を着せなければ……。
――ポーズだけでも、俺は〈石槫荘密室事件〉を調べておいた方がいいのだろうか。
これまでの様子を見るに、ゲームマスターは既に誰が犯人でどのような経緯で殺人に及んだのかまで知っている。だからゲームマスターに対して隠し立てする必要は一切ない。そして大関未菜も自分が犯人ではないことは知っている。必然俺が犯人であることも知っている。つまり隠す必要はない。
――となると、俺がやるべきなのは大関未菜の妨害か?
あまり気分のいい行為ではなかった。それも相手が華代に似た女性であるとなればなおさらだ。しかしそうしないことには身の安全が保障されない。
……苦渋の決断だった。
ここまで逃げてきたんだ、という気持ちの方が大きかった。
確かに華代に似ている女性だが、華代に似ているだけでしかない。別人なのだ。俺の妹ではない。
俺は覚悟を決めて食堂を出た。俺の後に大関未菜が続くのかどうか、見ていなかったから分からないが、しかし俺たちは決定的に違う道を歩き出した。お互いにお互いを、埃が出るまで叩き合い、徹底的に潰し合い、そして地獄へと、送るのだ。
*
まず、俺は資料室へ向かった。俺の部屋が警察にどんな風に捜査されているのか、どういう情報が得られているのか、探るためだ。
『事件全貌』。それを手に取る。
*
立宗大学学生寮、石槫荘二〇五号室から異臭がするというトラブルがあった。騒ぎを聞きつけ管理人が注意のため二〇五号室を訪れると――以前の入居者も食材を腐らせて異臭騒ぎを起こしたことがあったため、その類かと思い――、果たして入居者の細江啓二が背中を二発撃たれ死亡していた。管理人が警察に連絡、事件発覚となった。
被害者、細江啓二の部屋から見つかったパソコンには複数の女性の猥褻な画像が格納されており、警察が調べたところによると、画像の女性はいずれも石槫荘と学生寮賃貸契約をしている立宗大学の女子学生であることが判明した。特に多く撮影されていたのは若槻華代という細江の隣室を借りていた学生であり、警察は彼女が本件と関係しているのではないかと見て捜査を開始したが、被害者の死亡推定日時に若槻華代は友人数名と箱根に旅行に行っており、犯行は不可能だった。
また、凶器となった拳銃についても謎が残った。体内に残った弾丸についた線状痕は国内で登録されているどの銃のものとも合致せず、完全に非合法に運び込まれた銃だった。
使用された弾丸は.38スペシャル弾。警察官の標準装備の弾丸であったため、近隣を管轄する警官全てに装備の点検を行わせたが手がかりは一切なかった……
*
やはり警察も銃の一件で苦労している。大関未菜が俺の告訴に苦戦しているのもその一点だ。俺はかつてのメキシコ人客に感謝した。それから、訳ありの人物に部屋を貸すNPO法人活動を行っていた元勤め先にも感謝した。しかしそれと同時に、この銃の問題は大きな壁として俺の前に立ちはだかることも自覚した。俺も銃の入手経路について立証しないと大関未菜に罪を着せるのは難しくなる。俺も凶器と大関未菜を繋げないと告訴を通すことは不可能になる。
そして一回でも告訴に失敗すると発言権が一回なくなる。この告訴一回分はかなり大きい。一度告訴が却下されると次に大関未菜が告訴に失敗しない限り俺の発言権は永遠に認められない。俺が失敗すれば大関未菜は悠々と事件を調べることができる。あまり下手な議論はできない。それなりにしっかりした論理武装をしつつ、しかし素早く告訴しなければならない。何故なら次の大関未菜の告訴が通ってしまう可能性だって否定できないからだ。
先手必勝を取らなければならない……。
もっと事件を知っておく必要がある。そう思って俺は資料に目を通した。
*
死亡推定時刻の厳密な特定は、死体が炬燵で温められていた関係で不可能だった。死亡推定時刻を割り出す際多くの場合に使われる直腸の温度が高いままだったためである。死斑や血液の凝固具合などから大雑把に、発見時から一か月以上前の死亡であることは推定できたが、細江啓二は年末年始に帰省していなかったことなどもあり、彼がいつからこの部屋にいたのか、いつからこの炬燵の前に座っていたのか、正確な情報は何一つなかった。唯一、細江啓二が生きている姿を最後に確認した人物は、谷原未菜という女子学生で、これも細江啓二に脅迫され肉体関係を強要されていた女性だった。彼女の証言によれば、十二月十二日の夜の時点での細江啓二は、少なくとも女性を犯せる程度には元気だったそうである
*
読んでいるだけで再びあいつをぶち殺したくなる内容だった。華代の他にも女を……許せなかった。堪らなく不愉快で、堪らなくどす黒い感情が胸の奥に湧いた。頭の中では再び引き金を引いていた。通風孔の向こうに見える、あいつの丸まった背中に向かって、何度も! 何度も! 何度も! 何度も!
頭の中で発砲音が鳴り終わったくらいの頃、ようやく俺は資料を閉じた。これ以上これを読んでいると冷静さを欠く。これ以上これを読んでいると考え事ができなくなる。もっと心を落ち着けなければ。頭を冷やして物事を見なければ。
どうする。次はどうする。
『採取された物的証拠』を読もうかと思った。『捜査官の所感』に目を通そうかとも思った。しかし、妙な感覚が俺の中で「現場を見ろ」と告げていた。そこに行けば何があるのか、俺は何を得られ何を失うのか、さっぱり分からなかったが勘に従うことにした。果たして俺は俺の部屋、〈石槫荘密室殺人事件〉を目指した。
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