第32話 忰田団地首吊り事件
天啓的に降ってきたこのアイディア、使える。大丈夫だ。きちんと機能するはず。
ただ、問題はどちらからどう攻めるかということだった。
俺は冷静に考える。俺にはもう、片方の結末は見えている。となると必然……。
リラックスルームでのマッサージが終わった後。
俺は階段を下りると、そのまま〈忰田団地首吊り事件〉の部屋へと向かった。そして雑多なテーブルを見つめると、そこにあったペットボトルを手にした。中身を確かめる。透明な液体。そしてほんのちょっと香ばしい液体。俺はそれを確認すると、部屋を出た。
廊下に出た俺は、天井に向かって告げた。ハッキリと、強い声で。
「ゲームマスター」
返事はすぐに来た。
〈何だね〉
「告訴したい」
〈ほう〉
嬉しそうな声だった。言われなくても分かっているだろうが、俺はその声に返した。
「みんなを食堂へ呼んでくれ」
〈任せてくれたまえ〉
それから俺は食堂へ向かった。階段を下りて、地下一階に着く頃にはもう大分度胸も据わっていた。
*
それでもやはり、告訴台の上は緊張した。
小室竜弥を脱落させた時の緊張感が蘇ってしまったのだ。手を見る。僅かにだが、震えていた。喉が渇いて、変な汗をかいていた。だが、覚悟だけは決まっていた。やるべきことは、決まっていた。
やがて大関未菜が来た。彼女は一回分告訴権を剥奪されているので、大人しくしているより他ない。続いて貝塚聡が入ってきた。俺は大きく息を吸った。これからだ……これからだ。
〈さて、若槻明宏〉
天井が展開してきて、モニターが姿を現した。相変わらず嫌味な調子の声で、くすくす笑いが聞こえてきそうなしゃべり方をしていた。
〈君は誰をどの部屋の罪で告訴したいんだね?〉
俺は胸元を軽くタップした。鳩尾の辺りにトントン、という拍動が走ると、不思議と気持ちが落ち着くのだ。手元に置いたペットボトルも確認した。透明の液体が入っているボトル。これが、うまく使えれば。
「〈忰田団地首吊り事件〉について告訴したい」
〈ほう、誰を?〉
俺は真っ直ぐ指をさした。彼の目が驚愕に見開かれた。
「貝塚聡」
*
「本件をまず簡単に説明する……と言っても、なかなか難しいんだが……」
俺の言葉を三人——大関未菜と貝塚聡と、それからゲームマスター——が待った。俺は続けた。
「まずある女性のTwitterに『あなたの家で首を吊ります』というダイレクトメッセージが来た。怖くなった女性は母に連絡。母が女性の家に向かうことになった。しかし母だけだと何かと不安だと思った女性は、職場が家の近くである夫に連絡。果たして母と夫が家に向かった……」
自分で言っててまだるっこしいが、しかしこう語るより他なかった。俺の拙い話でも整理しないよりはましだ。何せこんがらがった事件だから。
「で、母と夫が家に着くと、中からいきなり見ず知らずの女性が現れて『確かに、首、吊ってますよ』と告げた。慌てた母と夫の二人が中に入ってみると、三条利通、三十八歳がなわとびで首を吊って死んでいた。奇怪なことに、『確かに首を吊ってる』と告げた謎の女性は、母と夫の二人が警察を呼ぶまでの間に姿を消した」
はぁ、何とか整理し終えた。さて、ここからだ。
「まず、女性にダイレクトメッセージを送ったのは三条利通だった。スマホにログがあったそうだ。続いて行方不明になった女性。化粧や装飾品が濃かったらしい。しかし実はこれらの証言、どれも捜査官から妙だと思われている」
俺は息を継いだ。
「常識的に考えて、Twitterに見ず知らずの人間から『あなたの家で首を吊ります』なんてダイレクトメッセージが来たら真っ先にいたずらを疑う。真に受けて怖がるのはITリテラシー的にどうなんだ、というのが『捜査官の所感』。そして行方不明になった女性についても、第一発見者の母の証言が妙に細かいという『捜査官の所感』があった。要するにこの事件を構成する奇怪なポイントは全て違和感があるということだ。以上の点から導き出せる仮説がある」
母も女性も、誰かを庇っているんじゃないか?
俺の言葉に、大関未菜が何度か瞬きをした。
「ここに被害者である三条利通についての情報を加えておこう。三条利通は当たり屋だったらしい。わざと自動車事故にあって法外な慰謝料や治療費を請求するような奴らのことだな。この情報から考えられるに、三条利通は誰かに仕事をした後、取り立てをしに行っている際に殺された。もしかしたら仕事をやりすぎたのかもな。恨みを買った。その仕事先は誰か。あの団地に住んでいた人間だ」
これが犯人の動機だ。そしてそう、次は事件の再現だ。
「三条の死因はなわとびで首を絞められたことによる窒息死。首に残った索条痕は自殺の場合のそれと一致。だがこれを他殺とすると、犯人はなわとびを使って三条を締め上げたことになる。実はこの時注意事項がある。『採取された物的証拠』にあった『足紋』だ。現場の畳には誰かが思いっきり踏み込んだような跡があった。この証拠から、次のようなことが考えられる。他殺のはずの索条痕が首吊り自殺と同じようになった理由についてだ」
俺は両手を右肩のところに構えると、そのまま前かがみになってみせた。ちょうど、サンタクロースが重たい袋を担ぐ時のような格好だ。
「まず、三条の首に縄を通すと、そのまま振り返ってなわとびを肩にかけるようにする。後は思いっきり前屈すれば、なわとびは三条の顎の辺りから後頭部にかけて、斜めに食い込むことになる……この痕跡は、首吊り自殺をした人間に見られる索条痕と同じ形になる。足紋がいやにはっきり残っていた理由は、この殺害方法を実行する時、犯人の足には自分の体重に三条の体重が加算されただけの重さが加わるためだ。三条の仕事で強請られた犯人は、自宅で話をするフリをして三条を殺した。多少暴れたんだろうな。現場の椅子はひっくり返っていた。この殺害方法ができるのは、肥満体型である三条を肩から担げるだけの腕力があり、なおかつ団地に住んでいる……」
と、俺の発言の途中で貝塚が挙手をした。ゲームマスターが応じた。
〈貝塚聡〉
「殺害方法は分かった。確かにその通りかもしれない。だが容疑者の絞り方がおかしい」
俺は返した。
「何がおかしい?」
「その殺害方法なら、てこの原理が働くはずだから多少力がなくても実行できるはずだ」
「そうかもしれないが、力があった方がやりやすいだろう」
「そうだろうな。だが俺は、お前のその推理から違う絵が描けるぞ」
それから貝塚は堂々と話し始めた。
「現場にペットボトルがあった。おそらく三条のものだ。三条が座っていたと思しき場所に置いてあったからな。つまり三条はコーヒーを飲んでいた。リラックスしていたんだ。相手が男性だった場合、それも脅迫だなんていう強い場面においてリラックスしてコーヒーを飲むのはふさわしくない。三条は相手をなめていたからコーヒーが飲めたんだ。多くの場合、女性はなめられる。三条の相手をしていたのは女せ……」
俺は指をさして貝塚の話を止めた。一瞬、黙った。
「それだよ」
貝塚は何が起きたのか分からないという顔をした。
それから俺は、告訴台の上に置いてあったペットボトルを手に取ると、前に出て、モニターの中にいるゲームマスターと、大関未菜、それから貝塚の目に留まるよう掲げた。そして続けた。
「今、貝塚が言った『ペットボトル』というのがこれだ。再現部屋から持ってきたものだ。三条は飲み物のラベルを剥がす奇癖があり、これもちょうど、ラベルが剥がされている」
するとようやく察したのか、貝塚の顔が青ざめた。
「大関未菜」
俺の言葉に彼女が反応した。俺は続けて訊ねた。
「何が入っているように見える?」
「水」
「どうして?」
「透明だから」
「ゲームマスター」
〈何かね〉
「何が入っているように見える?」
〈水だろうね〉
「理由は?」
〈透明だからさ〉
「そう……」
俺は貝塚を見つめた。
「そうなんだ。これは誰がどう見ても『水』なんだ。透明だからな。百歩譲ってもサイダーとかその辺りだろうな。でもお前は、さっきからずっとこれを……」
コーヒーと、呼んでいる。
俺は続けた。
「俺はにおいを嗅いでみて分かった。そしてちょっと飲んでもみた。これは確かにコーヒーだ。コーヒーの味のする無色透明の液体だ。で、思い出した。三年くらい前か? クリアコーヒーってのが流行ったな。カフェインだけを抽出してコーヒーの色素を除いた液体ってやつ。おそらくこれがそうだ」
貝塚の目が伏せられた。どうも、戦意を喪失したらしい。かわいそうだが、俺は続けた。
「さっき全員で再現部屋を回った時、お前は『ペットボトルには触れていない』と言った。つまりこの中身が何か、本来なら知らないはずなんだ。これはにおいを嗅いで味を見て初めて『コーヒー』だと分かる代物。なのにお前はずっと、今の場面でもずっと、コーヒー、コーヒー、コーヒー、コーヒー……まだ続けるか?」
〈なるほどね……〉
ゲームマスターが唸った。しかし俺はそれに被せた。
「貝塚、お前は三条がこのクリアコーヒーを取り出してラベルを剥がすところを見ていたんだ。見ていたからそれが透明でもコーヒーであることが分かった。いや、むしろ強請られているというストレスフルな場面で、お前はこのペットボトルが透明かどうかはさておきコーヒーであることの方を強烈に記憶してしまったのかもしれない。この透明な液体がコーヒーであることを知っている人間は、死ぬ直前まで三条と接していた人間だけだ。つまり、犯人だけだ」
貝塚が吐き捨てるような息をついた。それから真っ直ぐに俺を見た。
「見事だよ。さすがだ、若槻明宏」
黒い男たちが「あの部屋」から姿を現した。しかし貝塚は続けた。
「お前が警察じゃなくてよかった」
俺は目を細めてから返した。
「俺もお前にここで会わなければ、こんなに思考力が鍛えられることもなかったよ。だから感謝している。ありがとう」
「俺たち、友達になれたかもな」
「ああ。きっとなれたよ」
貝塚が男たちに両脇を固められて連れていかれた。俺はそれを、静かに見つめていた。この瞬間、食堂には大関未菜も、それからゲームマスターも存在せず、ただ俺と貝塚だけがあった。俺たちは最後までお互いを見つめ合っていた。
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