第30話 反撃

 貝塚はしばらく落ち着きなさそうに辺りを見渡していたが、やがて何かに気づいたようにごみ箱の方へ歩いて行った。ちらりと中を覗く。何か見つけたのだろうか。しかし彼はすぐに興味を失くしたように顔を上げこちらに歩いてきた。俺もごみ箱に近づいて中を覗いたが、目新しい収穫は何もなかった。

 ごみ箱に近づいたついでに雑多なものが並んだテーブルを見つめる。チラシの束が何となく気になったが、目線をすぐにペットボトルに移した。水の入ったペットボトル。その向こうに倒れた椅子。そのさらに先に、ぶら下がった死体。

 貝塚と大関の目がこちらに向いていないのを確認してから、何となく俺はペットボトルを手に取ってみた。被害者の三条は、ペットボトルのラベルを剥がす癖があったようだ。一見すると水だが、あるいはこれに、何か混ぜられていたら。例えば薬や毒で昏倒したところを締め上げて、そのまま梁にぶら下げたのだとしたら。

 ボトルの口に鼻を近づけてにおいを嗅ぐ。香ばしいにおいがした。焦げた、ような。炒った、ような。

 その時ひらめいた天啓的な考えにより、俺はボトルを口に近づけた。ほんの少し口に含む。そして、確信する。

 大関未菜に目をやる。彼女はずっと死体を見つめていた。死体人形はでっぷり太っていたので、見ようによっては吊るされた豚肉のようだった。俺は貝塚の近くを離れると大関未菜の方に近寄った。彼女がつぶやいた。

「喉のところ」

 俺は訊ねる。

「喉?」

「うん。なわとびがすごく食い込んでる」

 言う通りだった。天井の梁から伸びたなわとびは死体人形の首元でぐるりと回ってはいたのだが、喉の辺りで肉の壁に吸い込まれており、その全貌は見えなかった。

 だがなわとびのような細い縄で首を吊ればそのような結果に行きつくのは多少納得のできることであり、大関未菜のこれがいったい何なのか、すぐには分からなかった。が、その時だった。


 ――死体のあった場所から一メートルほど離れた場所で見つかった――


 足紋の一件を俺は思い出した。足跡。強く踏みつけたような。

 それと、喉元に食い込んだなわとび。

 もしかしたら、あるいは――。

「誰かが外で殺してこの団地に連れてきたんだろうか」

 俺が適当な、本当に適当な疑問を口にすると、貝塚が即座に否定してきた。

「テーブルにものが置いてあって、さらに椅子が倒れていて、その後ろに死体だぞ。間違いなくコーヒーを飲んでいる最中に背後から奇襲にあったんだ。コーヒーを飲む、背後を取れる人物。おそらくこの団地に住んでいる、被害者と親しい人間の犯行だ」

「そうか……」

 やっぱりこいつ、度胸がある。

「私、一通り見た」

 大関未菜が両手を後ろで組む。その仕草さえ華代に似ていた。貝塚が続いた。

「じゃあ、出るか」

 俺は短く返事をした。

「ああ」 

 それから廊下を歩いた。


 *


石槫いしぐれ荘密室殺人事件〉の部屋に行く途中、俺は何とはなしに訊ねてみた。不自然にならないよう、小さく、そっと。

「ペットボトル」

 俺の声に二人が反応した。

「〈忰田団地首吊り事件〉のペットボトル、触ったか?」

「いや?」

 貝塚が首を傾げた。大関未菜も首を横に振る。

「触ってない」

「ああいうのって、指紋が残ったりしないのかな。表面がつるつるしてるから」

 適当なことを言う。言う意味のないことだと思いつつも、俺にはこれが必要な発言だった。

 貝塚がすぐに笑ってきた。

「あったとしたら、『採取された物的証拠』に載ってるだろうよ。後で資料室で確認しろ」

「ああ、そうだな」

 俺は確信を強めた。

〈石槫荘密室殺人事件〉の部屋の前に着いた。安っぽいドア。その上にある通風孔。言われてみれば、カバーだけ妙に新しい。もう少し使い古された感じを出してからにすればよかったか。二年前の失態を今さらながら後悔する。

 大関未菜がドアを開けた。俺たちは中に入っていった。

 明かりの付けられた室内は隅から隅までよく見えた。

 部屋の角に埃の塊が落ちていた。敷かれた絨毯には黒い毛玉が無数に出来ている。絨毯下の畳に焦げた跡。カップラーメンの容器や、ポテトチップスの袋、ビニール袋や丸まったティッシュ、雑多なものが落ちていた。多分、細江なりの整頓感はある空間だったのだろう。炬燵の右側にはレポート用紙や教科書が堆く積まれていて、ノートパソコンもそこにあった。必要最低限のものは手元にある、そういった感じだ。炬燵の上にはそれ以外大したものはなく、参考書が数冊、それから床に落ちているのと同じカップラーメンの容器と、酒の瓶が何本か、ビールの空き缶、そんなものばかりだった。

 死体人形を、回り込んで見てみる。

 細江ってこんな風に死んだのか。目を瞑ったまま力なく倒れている。口から血が一筋。背中に目をやると、それなりに大きな穴が二つ。かなり大きく空いている。実弾の威力はさすがと言ったところか。死体人形を蹴飛ばしたい衝動に駆られたが、しかし所詮人形、細江を蹴飛ばせるわけではないので大人しくしておいた。俺はしゃがみ込んで、細江の背中の傷をまじまじと見つめた。何だか誇らしい気分になれた。

 振り返る。玄関。ドアの上に取り付けられた通風孔。そしてそのカバー。俺が取り付けたカバー。排気口の部分に鉄のプレートが斜めに取り付けられていて、その角度がこちらから見るとちょうどいいからか、細江の背中の方から見えた通風孔カバーはすけすけで、向こう側、つまり廊下の天井がよく見えた。およそプライバシーを守るという機能は為さなそうだった。

 と、大関未菜が、唐突に部屋から出た。俺は後を追った。

「やっぱり、あるよね……」

 彼女が頭上を見上げそうつぶやく。

 何かに勘付かれたか。そう思って俺は彼女の視線を追った。大関未菜は何度も俺をこの部屋の犯人として告訴しているのに、俺をまるで修学旅行の同じ班にいる男子みたいに、気楽に扱った。俺は彼女の隣で通風孔を見た。

 なるほど確かに、通風孔の縁の部分に少し凹みがある。言われてみればハンマーか何かで叩いた跡に見えなくもない。まぁ、大関未菜が告訴の材料にしたということは、『採取された物的証拠』にこのハンマー跡の記載があったのだろう。

 だが俺は事件当時、このカバーをはめ込む時に通風孔の縁だけではなく、カバーそのものも叩いている。なのでよくよく見てみると、排気口にはめられている斜めのブレード部分にもハンマーで叩かれた若干の変形跡が見られた。大関未菜がそこに気づいたかは分からない。何にせよ、彼女の視線をここから逸らす必要がある。

「被害者は炬燵で何をやっていたんだろう」

 適当な疑問を口にする。大関未菜が答える。

「寝てたみたいよ。『事件全貌』に書いてあった」

「酒も飲んでたみたいだが……」

「炬燵の上だけを見るとそうだね。でも検死解剖の結果では胃の中からアルコールは見つかっていない。食べ物も見つかっていないから、何かを口にしていたことはなかったみたい」

 不思議だった。大関未菜が俺の事件を解いている。それはまるで華代が俺を断罪しているかのようだった。胸の中で何かが震えた。だが、馬鹿馬鹿しいからそれを無視した。

「銃弾は体の中で止まっているな。貫通してない」

 貝塚聡が死体の背中を見てつぶやいた。

「骨にでも当たったか」

「一発目はね。二発目は体内深部から見つかっている」

 よほどこの件について調べたのだろう。大関未菜はほとんど事件の概要を暗記しているようだった。彼女は語り続けた。

「致命傷になったのは二発目。これだけ骨の隙間を通り抜けて内臓や血管を傷つけている。直接的な死因は失血」

 ふうん。そうだったのか。

 自分が殺した人間だったが、正直毛ほども関心が湧かなかった。

 やっぱりあいつの背中を踏みたい。

 心の中で、俺は細江の背中を足蹴にした。爽快感よりも、汚いものを踏んだという気持ちの方が、大きかった。

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