第27話 奇怪

「分かった」

 唐突に大関未菜がつぶやいた。

「私も秘密を一個教えてあげる」

 それから大関未菜は俺に大股で一歩近づくと、耳元に口を寄せてきた。俺は黙って聞いた。

「私がこの部屋の犯人だよ」

 ゾクッとした。優しく柔らかく告げられた真相は、俺の脳髄をつまようじのように細い何かで突き刺した。

「本当か」

 俺は訊いた。

「それを話してどうする」

 すると大関未菜は今度はハッキリと笑った。先程の解けるような笑顔ではなく、にっと、広がるような笑みだった。

「さて、どうするでしょう」

 分からなかった。分からなかったから、俺は複雑な顔をして彼女から一歩下がった。彼女も俺から顔を離した。静寂が流れた。

 ハッタリか……? まず思ったのがそれだった。俺の〈石槫いしぐれ荘密室殺人事件〉と違って露骨に関係者の中に名前が……。

 ――いや、分からない。俺はこの事件のファイルを読んでいない。

 もしかしたら〈忰田団地首吊り事件〉のファイルには、大関未菜か、大関未菜に関係する人物の名前が載っているのかもしれない。隠す必要がないから開示した。そうともとれる。そうとしかとれない。

 俺はこの場を離れるべきか一瞬迷った。迷ったが、数歩、よろよろと動き出した。その頃になって、大関未菜がぽつりとつぶやいた。

「汚いキッチン」

 同意できるので、俺も応えた。

「生活感ありすぎだよな」

「チラシに……ティースプーン? ちっちゃなスプーン、箸、食べかけのヨーグルト、水の入った五百ミリリットルのペットボトル……ラベル剥いであるの? 珍しい……あれ、もしかしたら」

 大関未菜は、テーブルの傍で倒れている椅子をさしてつぶやいた。

「ここで座って水を飲んでいる時に、襲われたのかも」

 言われてみれば納得できた。テーブルの上のペットボトル。そして倒れた椅子。そこから伸びた直線は、そのまま死体のぶら下がっている梁へと続いていた。あり得る。あり得そうではある。

 俺はもう一度だけキッチンを眺めておこうと、少し歩いて物色した。ジップロックの束が入った箱がひとつ、冷蔵庫の横に置いてあった。サランラップは流し台の上に放り出されたように置かれている。黒こげの鍋と薬缶。鍋の中には何もなかった。ぽっかり口を開けたゴミ箱を覗いてみる。生ごみ、プラスチックごみと分別されていた。生ごみの方には魚の骨と思しき残骸が捨ててあって、僅かな腐臭を放っていた。他にもバナナの皮、丸まったティッシュ。プラスチックごみの方は最近出したばかりなのだろうか、中身は少なく、ラップの残骸や、ペットボトルの蓋、お菓子の袋など、目ぼしい情報は一切なかった。唯一、空のプラスチックカップが入っており、そのストローには口紅の跡があった。明らかにDNAを採取できそうな代物だが、何か手がかりにならないか。少し考えたが分からなかったので、記憶の片隅に留めて置く程度にした。それから大関未菜の方を振り返った。

 彼女は死体人形を眺めていた。あの精巧で、リアルな死体人形。顔が紫色で、口からよだれも垂れていて、糞尿の跡まで生々しい、あの死体人形を。

「何か分かったか?」

 そう訊くと、大関未菜はこう返してきた。

「索条痕は一本だね」

「さくじょうこん?」

「うん。紐で首を絞めた時に首の皮膚に残る擦過傷。普通に紐でぐっと絞めただけなら、索条痕は水平にできることになるんだけど、首吊りの死体は顎から後頭部にかけて斜めにできる。この死体は、顎の下から後頭部にかけて斜めに索条痕が伸びている。水平な索条痕は見つからないから、『首を絞めた跡に縄で吊り上げた』訳ではないことも分かる」

 すごい推理だ。さすがだな、と思いつつも、俺は頭に浮かんだ疑問を口にする。

「お前、この部屋の犯人なんじゃないのかよ」

 すると大関未菜はいたずらっぽく笑った。

「今のは犯人からのヒント。さて。ここから辿り着けるかな?」

「難しそうだ」

 実際死因に自殺以上の痕跡が見つからないとあれば、俺にできることは限られる。俺は警察官でも、凄腕の刑事でも、推理小説に出てくる探偵でもない。ただの殺人犯だ。

「追い詰めてみせてよ」

 大関はまだいたずらな笑みを浮かべていた。

「さっき松代真帆を追い詰めたみたいにさ」

「あれはまぐれだ」

「ハサミのくだりはさすがだと思ったよ」

「たまたま現場再現の部屋で見ていたんだ」

「見逃さなかったのも才能」

 えらく持ち上げるな。そう思ったが、何だか華代に褒めてもらえているようで悪い気持じゃなかった。惜しむらくは、俺はこれから懸命な努力によってこの女を脱落させねばならないということだ。

「じゃあな」

 俺は部屋を出た。後頭部と背中から魂が抜けて部屋に置いていかれたような錯覚にとらわれたが、すぐに気を取り直した。廊下を静かに歩いた。


 *


 資料室へ向かう途中の階段で、俺は貝塚聡と出くわした。俺はすぐさま訊ねた。

「どこか調べに行くのか?」

 彼はすぐに返してきた。

「お前には関係ない」

「俺の部屋か?」

 もうほとんど迫られているのだし、と俺は隠すことなく貝塚に告げた。彼はぎょっとして俺の顔を見た。

「……お前の部屋は、十分見た。これ以上探っても収穫はなさそうだ」

「そうか」

 じゃあ、必然行く場所は限られる。

「〈忰田団地首吊り事件〉に行くんだな」

 貝塚は首を傾げた。

「まぁ、そうなるよな」

「あそこの犯人、名乗り出ると言ったら驚くか?」

 貝塚がぽかんとした。が、やがて気を取り直したように返してきた。

「大関未菜が吐いたのか?」

「吐いた、というか、何というか……」

 言うべきじゃなかったか、と思いつつも、もう後の祭りだった。俺は告げた。

「本人に訊いてみろ。多分答えてくれるぞ」

 大関未菜があの部屋の犯人だとしたら。

 必然、今俺の目の前にいる貝塚聡こそ無実の、冤罪の人間だと分かる。となると俺は、最低でもこいつに俺の部屋の罪を着せなければならなくて、賢いこいつを丸め込んで俺の部屋の犯人にするのは大変そうだなと少し思った。まぁ、大関未菜が相手だったとしても同じことを思うのだが。

「お前は〈石槫荘密室殺人事件〉の犯人なんだな」

 今更隠し立てしても仕方ないと思い俺は頷いた。

「まぁな」

「お前から仕留めるのもありだな……」

 貝塚聡がぶつぶつとつぶやく。

「……いや、だが、今は何も得られない状況を避けなければならない。やっぱり団地か」

 この時俺はふと、もし大関未菜の犯人開示が大嘘で、目の前のこいつこそが犯人だったとしたらどうなるだろう、ということを考えた。だが、そんな複雑なことは考えるだけ無駄だった。俺の頭は回転数が少ない。俺の頭で考えても、ろくな推理はできないだろう。そう思ってこの場を去ることにした。

「頑張れよ」

 そんな皮肉を、貝塚に投げた。


 *


 資料室に着くと、俺は〈忰田団地首吊り事件〉の資料を掴んだ。『事件全貌』のノートを手に取る。そこにはこうあった。


 *

「あなたの部屋で首を吊ります」

 ある女性のTwitterにそんなダイレクトメッセージがあり、女性は恐怖のあまりと、仕事中だったこともあり母に連絡。母が向かうと答えてくれた後に、やはり母だけだと心配だということになり、職場が家から近い夫にも連絡を入れた。「うちで首吊るとかいう訳の分からないDMきたから見に行ってくれない? 怖い」と。夫は快諾し、果たして女性の母親と夫の二人で自宅である団地に向かったのだが、団地のエレベーターで昇り、いざ自宅の鍵を、という段になって中から見知らぬ女性が現れた。

「確かに、首、吊ってますよ」

 女性はそう言ってきた。

 妻の知人か誰かだろうか。そう思いながら、あまりの事態に混乱した夫は、おそるおそるドアを開けて中に入った。果たしてそこで首吊り死体を発見した。

 遺体は三条利通、三十八歳。地元の自動車整備工場を経営している事業主で、彼の職場から事件現場となった団地までは一キロも離れていなかった。

 奇怪なのはこれからである。慌てて警察に連絡しようとした母親は、おかしなことに気づく。

 さっき「首吊ってますよ」と告げた女性が、跡形もなくいなくなっていたことに。

 *


 支離滅裂だった。何から何まで意味不明。そもそも自宅で首を吊っているという報告を受けて母親に相談する神経もイマイチ分からないし、その後夫に連絡するのもよく分からない。母親が一緒なら自分で行けばいいんじゃないか? 職場がよほど遠かったのだろうか。

 そして次。見知らぬ人間が自宅で首を吊っている状況。自殺するにしても何で他人の家なんか選んだ? もしかして以前の入居者か何かで、思い出のある旧宅で死にたかったとかそういう理由か? 疑問符ばかりが浮かぶが何一つして解決の糸口が見えない。こまった。これは困った。

 そして「確かに、首、吊ってますよ」と告げていなくなった女性。何だ。何者だこいつは。

 事件全貌でこれだけ意味が分からないのも珍しかった。いや、確かに迷宮入りはしそうだが、何か技巧的なところがあって迷宮入りというよりは、関係者全員の不注意というか、過失というか、そういうのが重なり合って迷宮入り化したような、そんな事件だった。

 ――分からん。

 仕方ないので、俺は立ち上がって再び書架の前へと向かった。『採取された物的証拠』のファイルを手に取る。少々分厚い本で、手にすると重かった。

 これが命の、真実の重さってやつかな。

 そんな柄にもないことを考えながら机へ向かった。この頃にはもう、紙の匂いにも慣れてきた。

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