第18話 雑居ビル占い師殺人事件

 資料室と食堂はすぐ隣だ。なのに移動するまでの時間がどれほど長く感じたことか。歩んだ一歩がどれだけ重く感じたことか。

 そうして開けた静かなドアの向こう。

 告訴台の上には既に人が立っていた。そいつは冷酷な目で俺たちを出迎えた。じとっと湿った、だが凍り付くような目線を俺たちに刺していた。

 貝塚聡……。

 少し奇妙な話だが、貝塚聡が見えたまさにこの瞬間、俺は救われたような気持ちになった。告訴人が貝塚聡ということは、少なくとも俺の事件ではなく、あの〈雑居ビル占い師殺人事件〉が扱われるだろうことは容易に想像できたからだ。

 微かな安堵感に胸のガス抜きをしてもらえた俺は大人しく食堂の片隅に立った。天井からモニターが展開されてきて、ゲームマスターが小さくつぶやいた。

〈貝塚聡〉

 段上の彼が顔を上げた。

〈君は誰をどの部屋の犯人として告訴したいのかな〉

「富樫敦也」

 びくりと、いつの間にか俺の隣に立っていた背の高い男性が反応した。そして、そう、俺がさっき頭に浮かべたのも……こいつだった。富樫敦也。背の高い、粗野な男。

〈富樫敦也〉

 ゲームマスターが指示する。

〈被告台へ〉

 俺の隣ののっぽは一瞬ためらうように身を固くして見せた。が、すぐに覚悟を決めたように俯くと、そのまま黙って歩いて、被告台の上に立った。貝塚が口を大きく開いた。

「そいつを〈雑居ビル占い師殺人事件〉の犯人として告訴する」

〈では貝塚聡くん〉

 ゲームマスターが告げた。

〈始めたまえ〉

 被告台の上で、富樫がぐっと拳を握るのが見えた。貝塚が話し始めた。

「事件のあらましを説明する。某日、新宿、歌舞伎町にある一角で異臭騒ぎがあった。下水管の破裂か何かだと判断した区職員が周囲を捜索したものの何も見つからず、数日が過ぎたところで異臭はある建物からしていることが分かった。一階のテナントには中華料理屋が入っており、当初はこの料理店で出た生ごみが臭っているのだと、職員も中華料理屋の店長に注意喚起をするにとどめたが、しかしそれから一週間経っても臭い問題は解決されず、再び職員が注意をしに赴くと、中華料理屋の店長は拙い日本語で『二階が臭う』という趣旨の発言をした。さらに『最近上の階に住む占い師を見かけない』という趣旨の証言もあり、区職員は警察の同行のもと、二階を訪れる決意をした。一室しかない二階の部屋には鍵がかかっておらず、ドアが開け放たれていた。警察の指示の元中に入った職員が見たのは、炬燵に突っ伏したままの占い師、川井幸男が息絶えているところだった。現場は窓も開け放たれており、冬の凍てつく寒さで満たされていた。しかし物色された痕跡はなく、警察は川井の殺害のみを目的とした犯人による犯行だと断定。直ちに捜査を開始した……」

 貝塚はまるで弁護士か何かのように淡々と事件の内容を話した。端折りや誤魔化しがあった俺の説明とは格が違った。こいつ、こういうのに慣れている人間だな……人前で発表することに恐怖心を感じない人だ。

 貝塚は続けた。

「しかし捜査は早くも壁にぶつかった。ビル内の二箇所、入り口とエレベーターに設置されていた監視カメラの映像をどれだけ洗っても、川井幸男他、ビルの関係者の姿しか映っていなかった。川井の他のビル関係者は基本的にアリバイがしっかりしており、不審な侵入者もいないことから犯人像がつかめない。唯一窓が開いていたことから隣接ビルから侵入があったのではないかという仮説も立ったが、こちらもセキュリティ的におかしな点はなかった。つまり。しかし捜査を進めていく内に奇妙な点がひとつだけ出てきた」

 食堂にいた全員が場の空気の重さに耐えながら貝塚の話を聞いていた。

「川井幸男が死亡推定時刻にことが分かった。そしてそのまま帰ってきた記録がない。つまりこの、『川井死亡直後にビルから出ていった川井が犯人だ』ということになる」

 俺は貝塚のことを真っ直ぐに見つめた。彼はこちらの視線に応えることはなく、ただじっと被告席の富樫を睨みつけていた。

「だがここにきてさらなる難問が立ちはだかった。『川井幸男』は彼が占い師として活動する際に使っていた別名で、本名とは違った。そしてその本名を示す資料が部屋のどこからも見つからなかった」

 この辺りまでは俺も知っていた。ついさっき資料を読んだからだ。しかし貝塚はさらにその先を行った。彼は続けた。

「ビルの監視カメラは、一定時間映像が溜まると自動で古い映像を消していくタイプだったため、警察もあまりに古い情報を当たることは不可能だった。しかし七年前、川井幸男がこのビルに越してきた時の引っ越し業者が興味深い証言をした。荷物搬入の際に雇ったアルバイトの一人が給料ももらわず行方不明になったそうだ」

 当然、事件との関係が疑われる。

 貝塚はそう、息を継いでから話を続けた。

「警察はその行方不明のアルバイトの履歴書を確認。都内に住む三十代のフリーターのものだと分かったが、調査を進めると履歴書に書かれていた住所は存在せず、また名前も偽名であったことが明らかになった。事件はここで八方塞がりとなり、未解決のまま現在に至る……という次第だ。要するに、被害者も容疑者も身元が全く分からないんだ」

 貝塚はそう結論付けると再び富樫を睨みつけた。

「『部屋』を調べた。さすがだよ、ゲームマスター。かなり細かいところまで正確な再現がされているんだろうな。部屋の中の埃ひとつまで完全再現なんじゃないか? 俺が目をつけたのは押し入れだ」

 貝塚が黙ると場の重力が一・五倍くらいになった気がした。が、やがてすぐに空気は軽くなった。

「押入れの上の段には布団が敷かれていた。ドラえもん形式だな。当然、その布団には誰かが寝ていた形跡があった。そして、下の段には畳まれた布団。来客用かと思って調べてみたが、人が使った後みたいな酸っぱい臭いがした。多分だが洗っていない。もしかしたら使

 言いたいことが分からなくて、俺もみんなも、ぽかんとした顔を彼に向けた。貝塚は続けた。

「人が使った形跡のある布団が二枚あったんだ。まぁ、もしかしたらその日の気分によって押入れの上の段で寝るか下の段にあった布団を敷いて寝るか、選んでいた可能性は否定できないが、常識的に考えればと見るのが妥当。そして行方不明になった引っ越しアルバイト。ビルの監視カメラによれば不審な出入りは死亡推定時刻に川井が外に出ていった一点のみ。『出る』が記録されているんだ。となると『入る』はおそらく『引っ越し搬入の時』だよな? そこ以外に出入りがないんだから」

 俺は富樫を見た。不思議なことに、さっきまでは身を固くしていた富樫が黙って、静かに、肩を緩めていた。

「状況証拠だな」

 富樫が静かにつぶやいた。

「まぁ、続けてみろよ」

 しかし貝塚も不敵に笑った。

「引っ越しの時に奴がいるんだ。そいつはずっと、川井幸男が殺されるまで現場の中にいた。具体的には押し入れの中だろうな。そこで生活していたんだ。そいつがどういう意図をもって川井とそこで生活していたのかは分からない。だがある日、何らかのトラブルが起きてそいつか、あるいは川井がそいつに対して殺意を抱いた。そして真冬のある日、実行に移した」

 炬燵のコードで絞め殺した。貝塚がそう告げると富樫が「ふっ」と小さく笑った。

「まぁ、最後まで聞こうか」

 富樫の姿勢が空威張りのような気がして、俺は湿った目線を彼に送った。大丈夫か? 今のところあいつがつけ込める論理の穴なんてどこにも見当たらないが……。

「川井だとされている死体の背中には誰かが踏みつけた跡が見つかっている。つまり犯人は、後ろから川井の首にコードを巻き付けた後、背中を踏みつけるようにして締め上げたんだ。ちょうど、縄跳びの縄の長さを自分の身長と合わせる時のような要領でな」

 そして、そう、この発言の直後だった。

 ついさっきまで余裕綽々としていた富樫の背中が、凍り付いたように張り詰めたのは。

「資料、『採取された物的証拠』にはこうあった。『また本件に使用された炬燵コードからは指紋が採取されており、首に巻き付けられた場所からおおよそ百六十センチのところ、コードの両端二箇所に、確認された』。分かるか? コードの両端にある指紋と、首が閉まっている部分との間には百六十センチの間隔があった。さらに被害者は踏みつけられる形で首が絞められていた。ちょうど、こういう形になるはずだ」

 と、貝塚は両手を肩の高さに揃えると、そのまま馬の手綱を引くようにぐっと引っ張ってみせた。同時に右足を一歩前に出し、それこそ縄跳びの長さを自分の体に合わせるのと同じように、踏んだ一点を基点に長いものを両肩の辺りまで引っ張っているような格好になった。そこで俺は合点が行った。

「この、握ったところに指紋がつく」

 貝塚は静かに続けた。

「踏んだところと指紋のあった場所。犯人が肩の辺りに手を持っていって、そして踏みつけて人を殺したのであれば、首に巻き付けられた場所から指紋のある場所までの距離で、おおよその身長が割り出せる」

 富樫の体が止まった。貝塚は続けた。

「今、生き残っているゲームの参加者の身長について考えてみよう。女性は二人とも百六十センチないくらいだな? つまり彼女たちが背中を踏んでコードを引っ張って殺したのだとすれば、自分の身長以上にコードを引っ張り上げたことになる。ちょっと不格好だし他の方法がありそうだよな。続いて男性。百七十から百八十くらいまで、幅は広いが一番身長が高いのはお前だ、富樫」

 貝塚は冷静だった。

「俺は身長百七十四センチだ。そこの若槻明宏が何センチかは分からないが俺より少し低い。俺たちが百六十センチの高さにコードを持っていって引っ張ったとすれば、必然顔の辺りまでコードを引っ張り上げたことになる。やっぱり不格好だよな? その点お前はどうだ? 百八十より高そうなお前が、肩の高さにコードを引っ張っていったとすれば……」

 百六十くらいになるんじゃないか? 

 沈黙が圧し掛かってきた。しかしそれは、ゲームマスターによってすぐに破られた。

〈見事だね〉

 それは喝采だった。

〈素晴らしい。部屋の情報と資料の情報、それらを統合的に見た上で参加者の特徴まで踏まえた推理〉

 こういうのを待っていたのだよ。

 ゲームマスターのその一言を合図にしたかのように、「あの部屋」から男たちが姿を現した。富樫は一瞬、怯えるように身を引いて見せたが、しかしすぐさま姿勢を正すと、こう告げた。

「お手間は取らせない」

 富樫は静かだった。

「その先に何があるかは分からないが、自分で行こう」

 そうして富樫は、周囲を男たちに囲まれたまま、黙って静かに「あの部屋」に向かっていった。後にはやはり静寂のみがあった。ゲームマスターが拍手した。

〈素晴らしいゲームだった。私は感動したよ〉

 貝塚聡が告訴台から下りてくる。

 一瞬、彼と目が合った。

 その猛禽類のような目つきに、俺は少し身がすくんでしまった。

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