第17話 身元不明

 ひやりとしたが、俺は何とか動揺を隠すと曖昧な笑顔を浮かべて〈坂西川原女子高生殺人事件〉の部屋を出た。廊下で、俺は震える息を吐いた。

 まぁ、しかし、それはさておき。

 俺は何とか歩き出すとそれぞれの部屋の標識を見て回った。あの〈雑居ビル占い師殺人事件〉がどこにあったか忘れていたからだ。しかし廊下を一周した後、俺は自分の間抜けさを呪った。〈雑居ビル占い師殺人事件〉は〈坂西川原女子高生殺人事件〉のすぐ隣だったからである。逆方向に歩き出していればすぐ見つかったのだ。

 再び震えるため息をつく。

 時間を無駄にしてしまった。もう俺の部屋には誰か入っているというのに。

 気を取り直して、俺は部屋に入る。

 しかしそこにも先客がいた。そいつは死体人形の後ろに回り込んでいた。手にはコードがあった。多分、炬燵の。

 そいつは沈黙を以て俺の来訪に応えた。俺は彼の名前を思い出した。あいつは確か、食事の時俺の隣に座っていた男だ。参加者名簿を思い出す。えーっと、あいつは、確か……。

 貝塚。貝塚聡。

 彼は手にしていたコードを放すと、じっと俺の方を見てきた。炬燵のコードはだらしなく彼の足下に落下すると、そのまま死んだ蛇みたいに転がった。それから彼は唐突に動き出すと、俺の隣を通り抜けて部屋から出ていった。俺は振り向いて、彼の背中を見た。

 あいつ、何か分かったのだろうか。

 俺はこの部屋の犯人じゃない。だからあいつが何かを掴もうと俺の知ったことではないのだが、しかしあいつがもし、頭の切れる奴なら警戒しないといけない。俺は目線を部屋の中央に戻した。炬燵の天板に突っ伏した死体人形が目に入った。

 周囲を観察しよう。俺は死体人形の周りにあるものを見た。

 開け放たれた二面の窓。部屋の入り口を南とした場合、西の方にひとつ、北の方にひとつ。窓の向こうには、隣接したビルの非常階段と思しき階段があった。西の窓にも北の窓にも、だ。犯人は逃げようと思えばこの階段を使って逃げられる。だが今は犯人の逃走経路を考えても意味がなさそうだった。俺は再び部屋の中を見た。

 それこそ、雑居ビルみたいに。

 壁に立てられた様々な本棚たち。高さも横幅も全然違う。どれひとつとして同じじゃない。雑多な棚だ。

 中にある本は文庫本、雑誌、辞書、洋書と本当にまとまりがなかった。占い師がどういう職業性質を持つのか分からないが、相当雑な性格をしているのは見て取れた。

 押し入れに目をやる。上の段に布団が敷かれている。何だかドラえもんみたいだ。下の段には布団がもう一組。来客用か? ここにもやはり手がかりらしいものはない。

 そういえば、さっき出て行ったあいつ、コードを手にしていたな。

 俺は振り向くとコードを眺めた。布でコーティングされたコード。炬燵なんかによく使われているやつだ。電源には刺さっていない。そして死体人形の首をぐるり一周回って、肩と首の境目から垂れていた。これだけではあの貝塚聡が何をどう受け取ったのか、辿るのは不可能そうだった。

 炬燵の横、西の窓の近くに置かれた電気ストーブを見た。これも何の変哲もないものだ。こいつから何かを読み取るのも難しそうだった。やっぱりだ……情報が多すぎても却って混乱する。俺は眉間をつまんだ。別に疲れたわけではないが、ちょっと休憩したい気持ちになっていた。

 視線を下ろしたついでに床を眺める。チラシ、丸めたティッシュ、輪ゴム、目薬……落ちているものにも法則性がない。もしかしたら法則性がないことが法則なのか? だんだん哲学的思考になり始めたことに嫌気がさす。そもそも〈雑居ビル占い師殺人事件〉とあるが、死んでいるこいつが占い師である確証すらない。何も分からなかった。何も得られなかった。

 駄目だ。やっぱり現場から読み取れることはない……。俺は部屋を出て資料室に行く決意を固めた。分かりやすい情報、という意味ではあっちの方が確実だ。警察の目を通せば、この混沌とした部屋の中にも、何かルールが見つかっているのかもしれない。

 振り向きざま、俺はもう一度部屋の中を見た。空調で冷やされた部屋だけがあった。俺は部屋を出た。



〈雑居ビル占い師殺人事件〉


 そう書かれた棚を覗く。さっきの滅茶苦茶な並びの本棚からすると、この資料室の本はさすが、背の高さも棚の中身も綺麗にまとまっていた。俺は今日何度目かになるため息をついて、背表紙を撫でた。さっき〈田間マンホール死体遺棄事件〉ではまず『事件全貌』を調べた。同じようにしよう。そう思って薄いノートを手に取った。それから真っ直ぐにデスクの方に向かった。そしてそこから聞こえてきた声に、俺は絶望した。

「ふうん、窓にはシャッター、玄関ドアには鍵。完全な密室。指紋もなく、弾丸の線状痕は警察に登録されたどの銃とも一致しない。犯人に繋がる物理的証拠はなし」

 ――密室。声は確かにそうつぶやいた。現場再現の部屋で完全な密室、ってやつは俺の部屋しかない。誰かが……誰かが俺の部屋を探っている。

 それはさっき俺の部屋の電気がついていたことからも自明のことであるはずなのに、やはり現実として目の当たりにするとぐっと心臓を掴まれたような気持ちになった。俺は〈雑居ビル占い師殺人事件〉のノートを手にしたまま、閲覧机の中から適当なものを選んでその前に立った。ノートを開いて、ちらりと横目に俺の事件を調べていた奴の顔を見る。そして再び、ゾッとした。

 松代真帆だった。

 さっき親しくしてしまった松代真帆が俺の部屋を調べていた。心臓が爆発しそうだった。動揺を隠すのに必死だった。

 目の前のノートの内容が全然頭に入ってこない。緊張で喉が渇く。しかし不自然に見られてはならない。俺は無理矢理ノートの内容を頭に入れた。しかしその時、偶然あることに気が付いた。

 ページ……ページに開いた跡がある。ノートの中央でも何でもない、全体の三十パーセントくらいの場所が自然に開けるくらい背表紙が歪んでいた。誰かが……誰かがこのノートを見ていた。

 このページに何かあるのか? 俺は必死に文字を追った。だいたい次のようなことが書かれていた。


 新宿にある雑居ビルにて異臭騒ぎがあり区職員、警察官が駆け付け調査したところ、通りに面した中華料理店の上に住む占い師の男性をしばらく見かけないとの声を聞き、出向いてみると果たして占い師である川内幸男が首に炬燵のコードを巻き付けられて死亡していた。

 現場は鍵が開いていたどころかドアも窓も何もかも開けっ放しで、川内は部屋中央の炬燵の上で息絶えていた。

 室内をくまなく調べたが川内の指紋の他もう一人の人物の指紋を確認。だが、ビルに設置された監視カメラを見ても不審な人物は誰一人映っていなかった。

 後の調査で、「川内幸男」という名前は占い師として活動する際の名前であったことが判明する。本名は、と警察は調査したが手がかりになるものが室内には見当たらず、事件は完全に暗礁に乗り上げた。唯一分かった情報として、凶器となった炬燵のコードから僅かに指紋が検出されたのだが、警視庁のデータベースにない指紋で照合不可能。身元不明の「川内幸男」の事件は発覚から五年後、未解決事件となった。


 なるほど事件全貌はそういうことらしい。俺の前の読者がこれを読んで何を掴んだのか、さっぱり分からなかったが、一旦コードの指紋の件は注目してもよさそうだと思った。俺はノートを閉じると再び書架の前に戻った。松代真帆はその間もずっと俺の部屋の資料を見ていた。

 棚の前に戻ると、ひとまず俺の部屋の資料の何が読まれているのかを調べた。まず『事件全貌』があった。次に『捜査官の所感』。つまり今松代真帆が見ているのは『採取された物的証拠』。それより前に『事件全貌』を読んでいるのか、それともいきなり『採取された物的証拠』に走ったのかによって俺の危険度は違ってきた。前者なら俺の立場は絶望的だ。

 だが、ひとまず。

 松代真帆の部屋が〈雑居ビル占い師殺人事件〉ならこちらが告訴される前に相手を潰すことができる。今のところ俺の部屋を調べているのは、多分あいつだけ。できる。何とかなるかもしれない。僅かな期待を込めて、俺は〈雑居ビル占い師殺人事件〉の『採取された物的証拠』を手に取った。『捜査官の所感』は今のところどう使っていいか分からない。さっきの〈田間マンホール死体遺棄事件〉の経験を活かすなら、まずは物的証拠だ。そう思って資料を机に持っていった。

 そして驚いた。これにも誰かが読んだ形跡がある。

 ページの端が折れていたのだ。誰かがこの本に触った証拠だ。でも誰が? 俺より先にこの部屋を調べた奴が……と考えて思い至る。あいつだ。貝塚。貝塚聡。

 あいつはもしかしたら、先に資料を見てから確証を得るために部屋に行ったのかもしれない。そういえばあいつは炬燵のコードを手に取っていた。炬燵のコード。俺は資料の中からそれに関する情報を引っ張ってくる。

 大体次のようなことが書かれていた。


・炬燵のコード――炬燵自体は型番号から見るにおよそ五年は使われているものだったが、コードは新しいものだった。古いコードは室内から見つからず、またゴミ捨て場等にもなかったため、少なくともゴミが回収された、事件の三日前以前に捨てられたことが推測される。また本コードからは指紋が採取されており、首に巻き付けられた場所からおおよそ百六十センチのところに、コードの両端に二つ、確認された。また被害者の背中に足跡があったことから、おそらく犯人はコードのここを掴んで被害者の背中を踏みつけるようにして締め上げたものだと思われる。

 漠然と、この事件の犯人が誰か、分かってきた気がした。

 俺は記憶を引っ張り出した。多分、あいつだ。あいつが犯人なんだ。だが名前を思い出すのに時間がかかった。駄目だ。俺のおぼろげな記憶に頼るより資料を見た方が早い。そう思って俺は書架に引き返した。だがゲームマスターの声はそのタイミングで聞こえてきた。

〈諸君〉

 心臓に氷の針が突き刺さった、気がした。

〈食堂へ来てくれたまえ〉

 俺はそっと振り返って松代真帆を確認した。

 挙手していない。つまりあいつが告訴したわけじゃない。

 それは安心材料のひとつではあったが確定ではなかった。俺が告訴されるわけじゃないという保障は一切なかった。俺は震えながら資料を棚に戻した。それから食堂へと向かった。

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