第16話 誰もいない

 まずい。これはまずい……。小室の時みたいに直接的に俺の名前は出ていないが華代の名前がある。必然苗字もだ。最低限の勘が働く人間なら華代の名前から俺に辿り着くことは容易だ。まずい。どうする……。

 咄嗟に俺は、この〈石槫いしぐれ荘密室殺人事件〉の資料を隠してしまいたい衝動に駆られた。これさえ見られなければ俺は……しかし駄目だ。そんなことをしたら俺が石槫荘の犯人だとバレることになるのか? いや、とバレなければ平気なのか? 必死に頭を働かせる。隠すか? 今なら誰もこの書架を見ていないから、隠そうと思えば隠せてしまう……。

 しかし駄目だった。俺が資料を持って悩んでいる間に、女性が一人やってきて書架の前に立った。くそっ、仕方ない。ため息半ば、舌打ち半ばで女を見る。えーっと、誰だこいつは……。

 記憶を手繰る。確かこいつは、三人いた女性の一人。大関未菜ではなくて、脱落した高松優子でもない。黒髪に、怪しく輝く目。白くてほっそりした指。松代真帆だ。長い髪を肩まで垂らした人魚みたいな出で立ちの女。スラっと背の高いモデル体型。こいつも殺人犯なのか。いや、一人冤罪がいるって言ってたから分からんな。そんなことを思いながら見つめる。松代真帆。この女の名前は松代真帆。

 怪しまれないように俺はそっと俺の事件簿を棚に戻す。それから、書架には飽きたような体を装って少し距離をとった。そのまま資料室を出ていくつもりで歩いていく。振り返りざま、俺は松代真帆の方を見た。彼女がどの事件のファイルを手に取るか気になったが、しかしあいつは俺のファイルを取らなかった。〈石槫荘密室殺人事件〉がしまわれている場所からはかなり離れたところにあるファイルを手にしていた。俺は一安心すると資料室を出た。だが、背中は汗で湿っていた。



 資料室を出た以上は別の方法で何かの事件を調べなければいけない。俺がこうして迷っている間にも誰かが俺の部屋を、事件を、調べているかもしれない。時間は迫っている。行動を、とにかく行動をせねば。

 俺は迷った。誰かの部屋を見に行くか、それとも俺の部屋が調べられていないか見に行くか。情報収集という意味では前者がよさそうだが、フェイント――自分の部屋を調べはしないだろうということから間接的にバレる可能性はある――目的で自分の部屋を調べるふりをするのもよさそうだ。悩む。しばし立ち止まる。

 ……誰かが俺の部屋を調べていないか、チェックくらいはしに行ってもいいか。

 俺は廊下で少し足踏みをすると自分の部屋に向かった。誰かが俺の部屋を調べていないか。それを確認するために。宣戦布告を、ちゃんと受け取れるように。

 ドアの前で一瞬、手を止めた。開けた先に誰かいたらどんな顔をしよう。びっくりした顔でもすれば悟られてしまわないだろうか。

 だが冷静に考えて、部屋の調査をしに行った先で予期せぬ人と鉢合わせたら多少なりともびっくりはする。自然体で行けば大丈夫。俺は息を整えるとドアを開けた。その先には誰もいなかった。

 だが、そう、誰もいなかった。

 

 俺の部屋には明かりがついていた。豆電球ではなく蛍光灯がついていた。それは、そう、ついさっき誰かが、俺の部屋を調べに来たことを示すサインだった。俺はしばし、自分の部屋の入り口で呆然とした。

 だがすぐに気を取り直す。調べられた以上はただ時間を浪費してはならない。攻められているならこちらも攻めなければならない。俺は作戦を練った。どの部屋から当たるべきか。比較的簡単そうな部屋はないか。

 しかしこの「簡単そうな部屋」には大きな落とし穴があるのだ。先程の〈田間マンホール死体遺棄事件〉もそうだが、シンプルな部屋ほど情報が少なくて推理に難儀する。かといって情報が多い部屋に行くと頭の中の整理が大変で、すなわち一朝一夕にはいかない問題なのだという結論に辿り着く。だが迷っている時間はない。考えなければ。考えなければ。

 少し迷った後、俺はとりあえず廊下に出て、少しの間歩くことにした。運動しながら考えるというのはいい。名案に辿り着くこともあるし、頭の中が整理されることもある。

 廊下をぐるり一周、歩こう。そう決意して動き出した。一周するうちに何かアイディアが浮かばなければ手近な部屋に飛び込んでそこを調べよう。そう決めた。

 時間にして五分もかからないくらいだった。調べるべきこと、調べられていること、色々なことを考えたが、大きな収穫はなかった。一周もしないうちに、「ああ、これはこれ以上考えても無駄だな」と悟った。なので手近にあった部屋に飛び込んだ。この屋敷にふさわしい綺麗なドアで、把手に触れると僅かに冷たかった。


〈坂西川原女子高生殺人事件〉


 ドアを開けるとまず流れる水のせせらぎが聞こえてきた。すすきの草むら。そしてその向こうに。

 人影があった。俺はぎょっとした。さっき書架の前で遭遇した松代真帆がいたからである。

「あら」

 向こうも俺に気づいた。それから、人懐っこい目線を送ってきて、つぶやく。

「あなたもこの部屋を?」

「たまたま前を通ったから入ったんだ」

 嘘ではなかった。

「歩きながら考えていてね」

「さっき、すごかったね」

 松代がコンクリートの床の上で後ろ手を組んだ。

「あの大関って子もすごかったけど……」

「あの子はすごかった」

 俺は同意した。

「あの子みたいには、いかなかったな」

 俺は歩いて彼女の元へ向かった。松代の足下。死体を模した人形が転がっていた。丸い尻の死体。素っ裸の死体。

「髪が刈られてる」

 松代が指をぱしゃぱしゃと動かした。親指と薬指を何度かくっつける。ハサミのジェスチャーだ。

「虎刈りだね。ひどいことする」

 松代の言うとおりだった。転がっている女子高生――と思しき死体――の頭部は滅茶苦茶に髪が切られていた。不揃いで、かなり無残だ。また、裸である理由も分からなかった。よほど精巧に作られているのだろう。うつぶせになった死体の胸部には乳房と思しき丸みがあった。そんなところに女性を感じたが、まぁ見ていても、仕方のないものだった。俺は状況の把握に努めた。

〈田間マンホール死体遺棄事件〉と同じような現場だな……。

 シンプル。川原に女子高生の死体が転がっている。頭が丸刈りになっていることと裸であること以外、特に手がかりらしきものはない。文字通り裸一貫。考える手立てがない。

 熟慮の末、俺はこの部屋を後にすることにした。踵を返して歩き出すと、俺の背中に松代真帆が話しかけてきた。

「もういいの?」

「この部屋は分かりにくい」

 俺は端的に返した。

「もっと手がかりがありそうな部屋に行く」

「……じゃあ、あそこは?」

 何か提案してくれるのか、と俺は松代の方を振り返った。彼女は微笑んで告げた。

「ほら、あの占い師が殺されていたとかいう……」

 俺は記憶をたどった。あった。確かに、そんな風の名前の部屋が。


〈雑居ビル占い師殺人事件〉


 確かにあの部屋は散らかっていた。必然情報が多い。つまり手がかりも多い。あそこなら何か分かるかもしれない。

「ありがとう」

 お互い秘密を暴き合う関係なのに「ありがとう」もないもんだ。

 そうは思いながらも、有益な情報をくれたことに間違いはない。俺はドアに手をかけると静かに部屋を出た。

 そう、出ようとした時だった。

「……あそこも手がかりがいっぱいあるかもね」

 その後に続いた言葉に、俺は動揺した……してしまった。


〈石槫荘密室殺人事件〉


 松代は確かに、そう言った。

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