第7話 俺の部屋

石槫いしぐれ荘密室殺人事件でございます」

 老執事はそう告げ、そして今まではしなかった動作をひとつした。鍵をドアに差し込んで開けたのだ。俺には――石槫荘密室殺人事件の犯人である俺には――その動作の意味が理解できた。理解せざるを得なかった。

 ドアが開く時、俺は心が凍りつき、ひびが入っていくのをばりばりと感じた……なんて陳腐な表現が頭に浮かぶくらいには、俺は緊張していた。扉はスムーズに開いたのだが、しかし蝶番の軋む音が聞こえたような気がした。

 この部屋のドアはあの石槫荘のドアと全く同じだった。安っぽい、表面ばっかり何かでコーティングした、よくあるしみったれた、貧弱で貧相なドア……妹の部屋と同じドア。上に取り付けられた通風孔まで完璧に再現されている。

 中に入っていく。室内は暗かった。

 廊下から差し込む光と、豆電球の光とでかろうじて室内が見える。視認できるものは少ない。まず炬燵。床に散らばったレポート用紙。ビールの缶と、カップラーメンの容器。ぼんやりとした光の範囲でしか見えない。だがそれで十分なこともある。

 男の背中。

 真ん中に赤黒い点が、二つばかり。

 炬燵に突っ伏す形で息絶えていたのは、そう、俺があの日殺した、細江啓二だった……まぁ、多分、それを模した人形、なのだろうが。

「暗いな」

 誰かがポツリと、一言。まぁ、ここまでの部屋で暗い部屋は少なかった。最初の部屋……何だったっけ。そうだ。「阪根峠バイク刺殺事件」でもバイクのランプが僅かに漏れている程度の明るさだった。あの部屋と同じくらい暗いのではなかろうか。

「明かりはつけられないの?」

 女の声。暗くて誰が言ったのかも分からない。

「電気、つけよう」

「……ひとつ注意点がございます」

 俺たちの背後にいた白髪の執事が告げた。

「室内にあるものはどれも好きに触っていただいて結構ですが、しかしこれは完全な再現です。手を加えるということは、完全を崩すことを意味します」

「触らない方がいいってことか?」

 誰だか知らない男の、小さな怒気を孕んだ声に老人は答えた。

「後程主人から説明がございます」

「ま、まぁ、見えたところで、どうせさっきの感じだろうし……」

 これは女の声。

「悪趣味なもの見せられても、ねぇ」

 俺は腹の底で笑った。悪趣味なもの……悪趣味なもの、か。

「お済みのようでしたら」

 白髪の老執事が暗闇の中、一礼する。俺たちは黙って彼の前を通ると廊下に出た。全員が部屋を出て……あの安っぽいドアが閉まるのを見てから、老人は俺たちを案内して次の部屋へと向かった。緩くカーブした廊下をひたすら歩くと、ぐるり一周、何となく最初の部屋の近くに来たなという頃になって、老執事が左に折れた。見ると階段があった。薄汚れた体育館か何かのような、仄暗い、質素で、湿っぽい階段だったが、絨毯ばかりが高級で、足音がすっかり消えた。体がちょっと沈んだ気さえする仕様だった。

 階段は上と下とに続いていたが、俺たちは執事に続いて階段を下りた。誰が先頭で誰がしんがりだったか、全く記憶にないが、俺は前から三番目くらいを歩いていた。



 階段の後には広いんだか狭いんだか、廊下なのか広間なのか分からないスペースを通って、それから大袈裟なドアの前に来た。執事がそのドアを開けた。向こうには大きな広い部屋があった。テーブルと椅子、そしてその奥には……小さな手すりに囲まれた台、そしてそのさらに奥に大きな机があった。

「お食事を」

 老執事がテーブルを示すと、そこには湯気が出ている食事があった。スープと石焼きのステーキとがある。他にはサラダのような野菜皿、付け合わせの何か、それにワイン……あまり立派なレストランに行ったことがない俺でも分かった。高級料理だ。一流の料理だ。

「名札がございます。席にお座りください」

 執事の一言で、それぞれがテーブルに目を走らせる。ナイフとフォークの傍。山折りにされたカードがあった。右から二番目の席に、「若槻明宏」。そうあった。

 座る。俺の両隣は「貝塚聡」と、それから「大関未菜」だった。

 俺は大関未菜の方にそれとなく目線を走らせた。あの子だったからだ。華代によく似た子。ショートカットに丸い顔。オーバーサイズのだぼっとした服。

「……何か」

 まずい。

 視線がバレた。彼女は怪訝そうな顔で俺を見た。俺は慌てて前を向くと「いえ……」と口籠った。女の視線が外れるのを感じた。俺は鼻から息を漏らした。

「皆様、どうぞお召し上がりください」

 執事が一礼しながら告げる。誰も何にも触れない。

 しかし動いたのは、俺の隣にいた貝塚聡だった。彼はいきなりフォークを掴むと、目の前にあった温野菜のサラダと思しき皿にそれを突っ込んだ。赤い塊。ニンジンを口に運ぶ。

「……美味い」

 一言。その一言が俺たちを動かした。

 三々五々、恐る恐る食器を手に取る。俺の隣の隣。つまり貝塚聡の左隣にいた女が何やらナイフとフォークを扱いにくそうにしていた。慣れない食器だから仕方がない。俺だって箸の方がいい。

 俺は付け合わせの、ミニトマトの皮を剝いたような何かを口に運んだ。一口で含むとそのまま噛む。酸っぱさの中に、甘さ。ハチミツ漬けか? 

「美味しい」

 どこかで女がそう口にした。隣の大関未菜かと思って目をやったが、しかし彼女はスプーンで静かにスープを飲んでいる最中だった。今度は視線がバレないよう、俺は静かに前を向いた。トマトの次は温野菜を食べた。何か特別な塩で下味がついているのだろう。香辛料と、わずかなしょっぱさがした。

 熱せられた石の上で焼かれたステーキに目をやった。ナイフを手に取る。肉の繊維に沿って刃を入れた。小さく切り分けられたそれの、まだ赤い断面を、何とはなしに石に押し付ける。鼓膜をくすぐる優しい音がして、肉の断面が焼けた。近くにあった塩につけ、口に放る。美味い。

 二口目もやはり同じようにして断面を焼くと、今度は石の上に置かれた小さな皿の中にある、タマネギか何かのソースにつけた。口に放る。甘味と旨味。舌が潤う。

 こんなに美味い料理は久しぶりだった。いや、これまでも職場の厨房で作られたそれなりに美味い料理は食べてきたのだが、これは格が違った。美味い。美味い。思わずそう唸りそうになるくらいだった。肉汁に、野菜のみずみずしさに、胃も心も満たされていった。やがて食べ終わる頃には、完全にリラックスした俺が出来上がっていた。

「皆様」

 老執事が、数名のメイドを引き連れ頭を下げた。

「これより、当クラブ主人の準備が整うまで、自由時間といたします。今から一時間半後に再びここに戻ってきてくださいますと幸いです」

 と、執事がじとっとした目を持ち上げ、上目遣いにこちらの様子を窺いながら続けた。

「……なお、逃げようなどということは思わないようにしてくださいませ。ご来賓の皆様におかれましては、どうか静かに、穏やかに、このクラブを楽しんでいただければ幸いです」

 では。と、メイドたちが食器を片付け始める。ちらりと他の人の皿も見たが、みんな野菜の欠片一つ残さず平らげていた。それだけ美味い料理だった。完璧な料理だった。



 自由時間、と言われたから、俺は屋敷の中を散策することにした。どうも俺たちが食事をしたこの食堂は地下一階に当たるらしく、階段を上がったあの奇妙な――そう、殺人現場を再現した――部屋があったフロアは一階。そしてその上にもうひとフロアあった。俺は好奇心からそっちに行ってみることにした。

 廊下はやはり円形だった。

 ぐるりと回る廊下に沿って歩いていくと――何だか酔いそうになる廊下だった――やはり壁に窪みがあって、そこにドアがあった。最初に行きついたドアを開けてみた。羅紗台。ダーツの的。どうも娯楽室のようだった。

 相手がいないことには始まらない部屋だな。そう思ってそこを出た。

 次の窪みにあったドアを開けると、そこは薄暗く、カーテンに仕切られた妙な部屋った。入ってすぐ、カーテンの向こうから女性が姿を現した。一礼し、告げてくる。

「いらっしゃいませ」

 何をする空間か分からなかったが、俺は一歩進むと辺りを見渡した。女性がもう一礼した。

「リラックスルームでございます」

「リラックスルーム」

 思わず鸚鵡おうむ返しをする。女性が続ける。

「殺人犯の皆様に最後の愉悦を味わってもらう場でございます。カイロプラティックによる心身のリラックスを目的とした部屋でして、当屋敷にご来館いただきました皆様全員分ベッドがございます」

 よろしければ。そう、女性が丁寧な手つきでカーテンを開ける。向こうにはベッドがあった。そしてドーナツ型の枕がひとつ。どうもあそこに横になればいいらしい。

「お召し物を変えていただきます」

 そう、女性に示された先にあったのは紙パンツだった。どうも裸になれと言うことらしい。

 抵抗があった。ポケットには拳銃がある。これを脱いで置いておくのか。よく見るとベッドの脇には籠があった。衣服を入れておくものだろう。カーテンが閉じられ女性が席を外すと、俺はブルドッグを取り出し、ひとまずコートを脱いだ。それから少し躊躇って、服を脱いだ。畳んで、籠の中に置く。手に取りやすい場所に拳銃を置き、そして畳んだコートで隠した。これで非常時はここに手を突っ込めばすぐ反撃できる。そんな保険を、自分にかけた。

「失礼します」

 頃合いを見てさっきの女性が入ってきた。そちらにうつぶせに、とベッドを示してくる。俺は指示された通りにする。

 ベッドの脇に立ち、女性が俺の背中をぐいぐいと押し始めた。しばらくの沈黙の後、女性がつぶやいた。

「どうして人を殺したのですか?」

 なかなかに物騒な質問で笑ってしまった。俺は答えた。

「大切な人を殺されてね」

「まぁ、殺されたのですか」

「ああ、魂をね」

 俺は華代のことを思った。レイプは魂の殺人だという。俺は細江に、華代の魂を殺されたのだ。

 女性のマッサージはこれ以上なく気持ちよかった。華代にも味わってほしく思った。遠いどこかで、あいつが何をしているのか気になった。きっといい男を見つけて、結婚でもしているんじゃないだろうか。式に参列できないのは残念だったが、しかし華代が幸せならそれでいい気がした。

 女性の手が肩甲骨の辺りを押した。程よい力で筋肉がほぐれ、俺は思わず「ああ」と声を漏らしてしまった。

「自分がしたことを、きっちり理解していらっしゃるのですね」

 女性に訊かれ、俺は答える。

「一応理解しているつもりです」

「隅から隅まで?」

「ええ。分解して並べられますよ」

「それはすごい」

 女性が鼻からふうと息をつくのが聞こえてきた。俺は訊ねた。

「意図的に人を殺しておいて知りませんでした、なんて奴は少ないでしょう」

「そうでもないですよ。頭が空っぽになっていた、なんて人もいると思います」

 この時一瞬、俺の頭の中で、この人も人を殺したんだろうか、という疑問が生まれた。

 だがそれを確認するのより前に、施術が終わった。

 服を着替えてください、という指示の通りに紙パンツを脱いで、服を着て、銃をポケットに入れると首を回した。

 さっきより肩が楽になっている気がした。

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