第3話 ブルドッグ

 家に帰ると決まってすることがある。

 それが例え三十秒にも満たない外出の後でも、必ずそうする。

 玄関から半身以上外に出せば絶対にする。そうせずにはいられない。

 いや、もっと言えば俺の意識がこの部屋から離れた後には確実にする。

 六畳の部屋。その隅に設置されたクローゼット。

 床下収納がある。クローゼットの床の一角に正方形の蓋があり、それを外すと物をしまえる空間がある。中にはビニール袋が三つしまってある。一つが本命で、残り二つにはアダルトDVDを数枚ずつ入れてある。これを隠していたのか。そう思わせるためのフェイクである。

 普段、クローゼットの床には百均のアルミシートを適当な大きさに切って敷いているので、直接床下収納の蓋は見えない。

 俺はこの、「家に帰ると決まってすること」をする時、丁寧にアルミシートを剥がして、それから丁寧に四角形の蓋を外して、丁寧に穴の中に手を入れ、丁寧にビニール袋の内の本命の一つを引っ張り出して、そして丁寧に、革の容れ物を取り出す。

 革の容れ物――ホルスターに入っている、ずっしりと重たいそれ。

 リボルバー。ブルドッグ。

 五百七十グラムのそれはずっしりと重い。何かで読んだ。魂の重さは二十一グラムだそうだ。死の直前と、死んだ後、同じ人間の重さを測った結果それだけ軽くなっていたらしい。単純計算、二十七人分の命がこの銃に宿っている。そりゃ重い。重いだろうさ。

 女子高生の万引きを止めた日。

 俺はいつものように暗い部屋に帰ると、明かりもつけずいつものように儀式をした。アルミシートを剥がして蓋を開け、ビニール袋を引っ張り出して革のホルスターを出し、それから銃を手に取り丁寧に重みを確かめる。クローゼットの近くにはクロスが入ったケースも置いてある。俺はそのクロスで銃の側面を片面ずつ決まって十回、擦る。それからグリップのところも丁寧に三回擦る。まるでバーテンダーがグラスを擦る時のように、何度も、丁寧に、拭う。再び銃を丁寧にホルスターにしまうと、ビニール袋に入れ、穴の中に入れ、蓋をし、シートを貼り、クローゼットを閉める。ここまでやってようやく、家に帰ってきた気になれる。明かりをつける。

 息が詰まる? まぁ、捉えようによってはそうかもしれないな。でも、考えてみてほしい。家に帰ったら手洗いうがいをし服を着替え万全の「お家モード」にならないと一息つけない人だっている。シャワーを浴びないとくつろげない人もいるし、聞くところによれば帰ってすぐ全裸にならないと気が落ち着かない人もいるそうだ。そういう手合いと一緒なのだ、俺は。俺の儀式は銃を取り出し確認し磨いて戻す。それだけ。それだけなのだ。健康的な部類だと思う。

 大学で射撃部にいた頃も、俺はこうして銃を磨くのが好きだった。

 きっと、物のメンテナンス作業が好きなのだと思う。

 中学でバドミントンをやっていた時もラケットの整備は怠らなかったし、高校でテニスをやっていた時はもちろん、大学で射撃部に入ってからも、扱うものがより精密になったので尚更、俺は道具を磨いた。いい道具がいい結果を運んでくれる。そう思っていたし、そう信じていた。実際その通りになった。かつてバドミントンをやっていた頃、テニスをやっていた頃、俺のラケットは必ず勝利をもぎ取ったし、射撃をやっていた頃も、俺の競技用拳銃は必ず的を射抜いたし、そして俺のブルドッグは、あいつの命を奪った。今もこうして俺の手元にある。こいつが俺の手元にあるということは俺があの事件と結びつくことはないということだし、俺の安全は保障されている。

 丁寧に磨く。丁寧に、丁寧に、気持ちを込めて、思いを乗せて、磨くのだ。いつもそうしていた。そうすることが心の安定剤だった。

 ただ、そう、この日だけは。

 帰りがけに見た景色があの日によく似ていたからだろう。

 俺は一度しまった銃を再び取り出し、明かりの下、たっぷり五分は銃を磨いていた。いつもなら十回しか擦らないところを百回も二百回も三百回も磨いていた。両面やった。グリップもやった。華代を思わせる女子高生に会ったことで、心が過去に飛んだのかもしれない。そして再び傷ついた。メンテナンスは、心の治療だ。そんな風に思いながら磨いた。磨いた。磨いた。

 音に気づいたのはその時だった。

 軽い音だった。軽量の金属が擦れるような、ぶつかるような、そんな音。俺は耳がよかった。小さな音を聞き分けるのは得意だった。だからその音を拾った。それは郵便受けに何かが投函された時の音だった……それも、俺の郵便受けだ。俺は音でそれが分かった。何か特徴のある音だというわけではないのだが、二年間この部屋で生活していて染みついた、ある種の本能的な部分が俺に「俺の部屋の郵便受けがいじられたぞ」と告げていた。

 俺は時計を見た。午後五時四十分。

 チラシが入った……可能性は捨てきれない。

 郵便物が来た……可能性は捨てきれない。

 どこか他所の部屋の郵便受けだった……可能性は捨てきれない。

 いや、それよりも。

 俺が恐れるリスクは、誰かが俺の郵便受けを無闇に覗いたんじゃないかということだった。別に郵便受けに何か、見られて困るようなものを置いているわけではないが、しかし俺の私生活への目線というのは強い干渉だ。気を回さなければならない。意識しなければならない。見張っておかなければならない。

 だけれども。

 俺が先程検討した通り、俺の部屋じゃない郵便受けの音である可能性は十分にあった。いくら俺の耳がいいとはいえ、その程度の聞き間違いなら起こす可能性はあったし、そうであってほしいと実際思った。

 俺は立ち上がると廊下を歩き玄関へ行った。まずそっと、ドアの覗き穴から外を見た。何もない。誰もいない。俺は靴ベラを手に取った。何も持たないよりはマシ……かもしれない。ゆっくりとドアを開ける。外気が、冷気が、滑り込んでくる。静かに、息を殺した。扉の向こうの気配を探る。何もない。誰もいない。何もない。誰もいない。二度確認する。そしてまたゆっくりとドアを開けた。共用部の廊下には……やはり誰もいない。

 靴ベラを持ったまま外に出る。

 郵便受けは階下。俺の部屋は二階だ。廊下の階段を降りてすぐ左手側に郵便受けがある。俺は静かに階段を下りた。それから郵便受けに近づき、周囲を見渡して怪しい奴がいないか確認した後、そっと投函口を覗いた。そこには封筒があった。

 一瞬、息が止まった。

 俺に何かを送ってくる人間なんていない。俺は誰とも交流を断ったのだ。

 ダイレクトメールという可能性はあった。だが俺はどこにも自分の痕跡を残していない。ネット上にもリアルにも。個人情報を打ち込む機会なんて一切なかった。なのに、ダイレクトメール? 

 何か送ってくるとしたら役所だ。だが役所に目をつけられるということは、下手をすればそういうことだ。

 だが……だが。

 例えば隣室に入れるはずの郵便を間違えて俺の部屋に入れてしまったという可能性はある。あるいは下の部屋、いや、このアパートのどこかの部屋の誰かの郵便が俺の郵便受けに入ってしまった可能性は大いにある。あわてんぼうの配達人が、確認もせずに放り込んだ可能性は、ある。

 静かに郵便受けを開ける。

 夜の薄闇の中に、それは姿を現した。

 白い封筒。縦長だが特別なデザインだ。郵便番号を書くところがないし書かれていない。上質な紙を使っている。手触りがいい。

 封筒を手に取る。まず目に入ったのは「C.C.C」というイニシャルだった。何の略だ。美容系か? 健康系か? 

 しかしそんな疑問などどうでもよくなることが裏に書かれていた。相変わらず郵便番号も住所も一切書かれていないそこにあったのは宛名だった。この封筒に書かれている文字は「C.C.C」とその宛名だけだった。こう書いてあった。


〈親愛なる殺人犯 若槻明宏様〉


 俺の名だった。そして、俺の罪だった。

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