第2話 大事な話
「うそ、うそでしょ……」
華代は友達との楽しい旅行帰りだった。
俺の、「細江を殺した」という話を聞くと、華代が口を覆った。俺は華代の腹の辺りを見ながら話した。
「うそじゃない」
俺は銃を見せた。ブルドッグを。リボルバーを。
華代が震える息を飲み込んだ。それからほろほろと涙をこぼしてその場に崩れ落ち、喘いだ。
「それで撃ったの?」
「ああ」
「殺したの?」
「ああ」
「銃声は……?」
華代は涙で濡れた目を床に落とした。
「聞こえなかった」
「そうだろうな」
俺は静かに続けた。
「やったのは今朝のことだ。お前は外出中だった。昨日から二日間、友達とどこかに行ってろって言ったな? 約束を守ってくれて兄ちゃん嬉しいよ」
華代の手が震えていた。
「不審な音は聞こえなかったかと訊かれたら『聞こえなかった』と答えろ。本当のことだ。素直に言えばいい。嘘はつかなくていいんだ。お前は昔から、分かりやすいからな」
「本当にやったの?」
「やった」
俺は隣の壁を見た。
「見てくるか?」
華代は首を横に振った。
「誰かが見つけるまで知らないふりをし続けろ。臭ってきたらさすがに通報していいが、日常生活に支障が出るまでは気づかないでいろ」
「そんなの無理だよ……」
「いいか」
俺は華代の目の前にしゃがみ込むと肩を掴んだ。
「これは兄ちゃんなりのけじめのつけ方だ」
華代が俺を見た。
「許せなかったんだ……許せなかった。何をおいても復讐したかった。許せなかった。華代を傷つけるなんて。俺の華代を、妹を、お前を、傷つけるだなんて」
「でも……」
でもじゃない、と俺は遮った。
「兄ちゃんがやったんだ。兄ちゃんが逃げる。お前は逃げなくていい。お前はずっと、お前のままでいろ」
「でも……」
「でもじゃない」
再び遮って、俺は妹を抱き起した。
「これで全部ちゃらだ。これで全部終わりだ。お前を脅かす奴は消えた。この世からいなくなった。お前はちゃんと勉強して、立派になって、俺の分もいい人生を送れ。いいか、俺のことは忘れろ。兄ちゃんは逃げる。逃げ続ける。隠す。隠し続ける」
妹の返事は待たなかった。
俺はブルドッグをしまうと妹の部屋を去った。隣室の二〇五号室を一瞥すると、もう一度通風孔のカバーがしっかりはまっていることを目視で確認した。あいつは消えた。あいつは死んだ。俺はほくそ笑んだ。ざまあみろ……ざまあみろ!
ただ、ただ、どうしてだろうな。視界がぼんやり滲んで、瞼がかっと熱かった。鼻の奥がぎゅっとして、俺は首を振った。何でもない。何でもない。これでよかったんだ。俺は正解だ。
銃を入れたケース――ホルスターっていうんだ――をカバンにしまった。
冬の夜は早くて深い。
世界はとっくに真っ暗だった。特に石槫荘のある辺りは街灯も少ないからほとんど闇に飲まれている。一番近くにある街灯は……田んぼの真ん中に、一本だけ。
俺はその一本を目指して歩いた。ただ静かに歩いた。カバンが肩に重たかった。歩く度に腰に当たった。そのリズムが、重たかった。
*
あの事件から、きっかり二年目の冬だったと思う。
当たり前だが会社は辞めた。俺は一人で、周囲との人間関係を一切断って、とある山間の町で住み込みのアルバイトをして過ごしていた。旅館……とも言えない、療養施設のような場所で、食堂で料理を運び、言われれば布団を片付け、廊下を掃除し、ゴミ捨てやお客様への挨拶もこなし、マルチプレイヤーと言えば聞こえのいい仕事を、俺は毎日粛々とこなしていた。時給はたかが知れているが、身元を探られないし、住む場所は提供してくれるし、食事も客に出したものの余りものをもらえるし、とにかくやりやすい仕事だった。一生続けるわけにはいかないかもしれないが、とりあえず今を過ごせれば。この今をやり過ごせれば。
山の麓にある、本当に小さなコンビニには、週に一度行くことにしていた。
決まった日じゃない。何せ仕事が不定休だ。仕事の合間に行くしかない。おかげさまで意識的に時間帯をずらす必要はなかった。俺が考えるまでもなくマネージャーが俺の休みの日を決めてくれたし、俺はそれに従って休みの日にコンビニに行ってホットスナックと雑誌を買って家で読むだけだった。それが人生唯一の楽しみだった。コンビニだけが俺の癒しだった。コンビニだけが俺の娯楽だった。
——華代に似てるな。
最初はそう思った。
夕方。五時過ぎ。陽が沈もうとしている頃に、俺はいつものようにコンビニを訪れていた。雑誌は定期購読しない。その日棚に置いてあったものの中で一番興味を引かれたものを買って帰る。だからいつも前後の脈絡のない記事や漫画を読む。この日は下らない、本当に下らない情報誌を買って帰った。帰るつもりだった。ただ彼女が目に付いた。いつかの華代に似た女の子だ。
ああ、持っていくな。
髪の短い、耳までのショートカットの女子高生がすっと、菓子の棚からチョコレートをひと箱カバンの中にしまった。レジには行かない。だろうな。俺はコンビニの入り口のところで少し待つと、目の前を通り過ぎていった彼女の後をつけた。店から少し離れたところ、具体的には駐車場を出たくらいのところで、俺は声をかけた。
「万引きは駄目ですよ」
セーラー服の肩がびくりと震えて、女の子が目に見えて驚いた。俺は彼女に触れるでもなく、だがしっかりと距離を詰めながら、もう一度つぶやいた。
「万引きは駄目ですよ」
女の子が振り返った。ほら、やっぱり。
華代によく似た女の子だった。丸い輪郭。目尻の垂れた、いつも笑っているような目。くっきりした眉に、控えめの鼻と唇。耳元までのショートカット。ただでさえ丸い頭がさらに丸く見える。そのシルエットがかわいらしい。久しぶりだな。思わずそんなことを言いそうになった。
「ごっ」
女の子が頭を下げる。
「ごめんなさいっ」
俺は黙って彼女の頭頂部を見つめる。沈黙が息苦しかったのだろう。女の子は顔を上げると、しばし唇を噛んだ。それでも俺が黙っていると、やがて意を決したようにつぶやいた。
「な、何でも言うこと聞きますから……」
「そういうことは言わない方がいい」
俺は手を差し伸べた。
「自分の権利を簡単に他人に渡しちゃいけない。自分のことは自分しか守れない。しっかり、守って」
俺の態度が意外だったのか、彼女はぽかんと俺のことを見た。
「盗んだものは、今返してくれれば俺が済ませておくから」
女の子が怪訝そうな顔をした。しかしひとまず罪を逃れられるなら、と判断したのだろう。カバンからチョコレートを出すと俺に手渡してきた。ついでに――と言うとちょっといじわるかな――小さく頭を下げて、それからまた「ごめんなさい」と小さく叫んで駆けていった。俺は手にしたチョコレートを持ってコンビニに戻った。レジに行くと、ちゃんとお金を払って買った。
初犯だろうな。
そんなことを思いながら帰り道を歩くと、遠い山の向こうで日が暮れていた。もう辺りは真っ暗で、街灯の明かりだけが唯一の頼りだった。
何だか見覚えがあるな、と思ったらあの時の夜によく似ていた。
冬の夜は早くて深く、そして重い。
雑誌の入ったカバンが少し重たかった。それはちょこちょこ跳ねて俺の腰に当たった。そのリズムさえも苦しかった。やっぱりあの日の夜みたいだった。
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