迷宮入りクラブ

飯田太朗

第1話 俺の場合

 屋根を、上る。

 日が昇る前のことだ。辺りは死ぬほど寒い。瓦に接した尻が痛いほど冷えている。

 俺は屋根のてっぺんに座り込むと静かにブルドッグに弾を込めた。ブルドッグっていうのはリボルバーの名前だ。リボルバーっていうのは銃の種類のことだ。回転式拳銃。シリンダーが回転することで次弾の装填がされる拳銃。分かりにくい? ほら、西部劇とかでよくある銃だよ。あれの現代版。

 何であらかじめ弾を込めて来なかったのかって言うと、これが俺のルーティンだからだ。撃つ前に込める。心を落ち着ける意味で、一発一発丁寧に込める。銃身をクロスで磨いて、掌を軽く重ねて銃の厚みを感じたら、準備完了。俺は撃てる。俺は撃てる。そう、心で念じる。

 屋根の傾斜を降りていく。雨樋。俺はその上に這いつくばるように被さると、じりじりと前に出て、上半身を屋根からぶら下げる姿勢をとった。そのままへその方向を見る。上下逆さまの世界で、俺はあの部屋の通風孔を見た。石槫荘いしぐれそう二〇五号室。その玄関ドア上。三十センチ四方の通風孔。本来ならとても人が入れる空間じゃないこの窓でも、銃弾なら通れる。

 二〇五号室は角部屋だ。廊下は玄関ドアを正面に見てずっと右側に続いている。つまり二〇五号室ドア、洗濯機。二〇四号室ドア、洗濯機。二〇三号室ドア、洗濯機……。二〇一号室の洗濯機から先は階段が続いている。

 二〇四号室は俺の妹、華代の部屋だ。若槻華代。俺のたった一人の、かわいい妹。

 そして、お隣の二〇五号室は細江啓二の部屋だ。細江啓二。立宗大学経済学部経済学科三年生。野球部。スポーツ推薦で入学。野球部専用の学生寮じゃなく石槫荘なんていうボロアパートに住んでいるのは、学生寮が改修に伴い部屋数が制限されたからだ。学生街外れの木造アパートで、細江は俺の妹を汚した。

 そもそも俺は華代が石槫荘に住むことに反対だった。華代も嫌がっていた。洗濯機が共用部にあるアパートなんて最悪だ。だがうちには金がなかった。経済的理由というやつで華代はこのさびれたアパートに暮らすことになった。洗濯機さえも部屋の外にあるようなボロアパートで。風が吹けば壁や屋根が震えるようなアパートで。そして細江の餌食になった。やはりこの家は何も守ってくれなかった。

 細江はベランダ伝いに華代の部屋に入った。そして裸になると――もしかしたら裸で華代の部屋に入り込んだのかもしれないが――浴室に行き、浴槽の中に隠れた。じっと隠れた。そして華代がシャワーを浴びるために風呂場に入って、油断しているところを襲い掛かった。

 細江は卑劣だった。

 華代を犯した写真を撮った上に、華代の体にマジックで「私は奴隷です」と書いた。それから華代に命じた。

「写真をばら撒かれたくなかったら言うことを聞け。毎日自分で、体に書いたその文字をペンでなぞれ。俺がやりたい時はいつでも相手をしろ」

 華代は従うしかなかった。まるまる二カ月、華代は細江の言うことに従った。そして限界が来た。華代は首を吊ろうとした。

 たまたま俺が部屋に来ていた。社会人二年目だった俺は華代に美味いものを食わせてやろうと手製の鍋を振る舞いに来た。近所の激安スーパーで買った食材を手に、インターホンを鳴らした。そして華代の部屋のドアが開いていることに気づき、中に入った。部屋の中で首を吊ったばかりの華代を見つけた。

 慌てて救助した。それから華代を病院に連れていこうとしたが、泣いて止められた。訳を聞くと上のようなことを躊躇いながら話してくれた。この時だ。俺が人間をやめたのは。

 警察に行くべきだった? 誰かに相談するべきだった? それは違う。華代にもう一度屈辱を味わえと言うのか。毎日毎日自分の体に恥辱を刻み込んだ華代に、警察の前でもう一度屈辱的な思いをさせて、二度も三度も傷つけろと言うのか。

 いや、正直に言おう。

 華代の話を聞いた時。華代の体を見た時、華代の屈辱を感じた時、俺は憤怒に飲み込まれた。この世の何を犠牲にしても細江啓二に復讐したいと思った。警察だとか何だとかは完全に頭から弾き飛んでいた。三日後だ。俺がブルドッグを手に入れたのは。

 俺は不動産の仕事をしていた。宅建の資格を取るために毎日二時間勉強していたが、そんなのはすぐにやめた。殺す準備の方が優先的だった。

 俺は仕事柄、妙な人や後ろ暗い人、危ない人と関係することもあった。俺が頼ったのは危ない人だった。

 連帯保証人のいないメキシコ人に部屋を紹介したことがあった。俺の会社は行き場のない人やホームレスに部屋を紹介して社会復帰の手助けをするNPO法人としての顔もあり、出稼ぎに来たものの仕事を失くしてあぶれている外国人に部屋を紹介することがあった。俺はその仕事の一環でとあるメキシコ人の面倒を見たことがあった。メキシカン・マフィアに関係したことがある人物だとは後で知った。

 格安の値段で拳銃、ブルドッグを買い取った。弾も付けてくれた。腕には自信があった。俺は立宗大学の射撃部にいた。ピストル射撃の専門だった。部門は精密射撃。二時間かけて六十発を正確に的に当てる競技。つまり狙った的に当てることくらい訳なかった。俺は銃が扱えた。

 いや、正直な話をすれば、俺はメキシコ人から買い取るなんていう手をとらなくても、銃が手に入る環境にはあった。俺がかつて通っていた立宗大学には射撃部があって、大学の近くには銃器を扱う専門店があったのだが――もちろん免許や資格がないと買えない店――そこで凶器を調達するという手はあった。だがその方法は確実に足がついた。銃の専門店で登録番号の付いた銃を買って人を殺すのはニアリイコール自首だ。

 競技射撃で使われることのある.38スペシャル弾は人を殺せる。だからその気になれば大学から銃と弾を失敬するという手もあった。だが事件現場近辺で銃器の盗難があったとなれば、そこから容疑者の範囲が狭められる。その輪の中には俺が入るリスクもある。だから、メキシコ人から買った。悪くない選択肢だったと今でも思う。国に登録されていない銃だから、どう考えても銃から俺まで辿れない。正解だったと、今でも思う。

「細江に何か癖はないか」

 俺は妹に訊いた。妹は細江が布団を持っていないこと、冬場は炬燵に突っ伏して寝ること、暗がりが苦手で毎晩豆電球をつけて眠ることを知っていた。

 俺は入念に準備をした。妹の部屋を使って寸法を測り、厚紙で部屋の模型を作った。俺は建築学科の出だった。何回も細江の部屋の前を訪れることで部屋の外観も頭に入れた。何もかもを完璧にシミュレーションし、準備した。

 細江の部屋の通風孔にはカバーがなかった。細江の部屋にだけなかった。だからそれはただの穴だった。おそらく、だが、アパートの管理人が改修工事をサボっていたのだろう。俺は妹の部屋の通風孔カバーの型番を調べ、全く同じものを用意した。石槫荘の部屋の通風孔は外からでもはめ込めるタイプのものだった。

 模型を作れば、玄関上の通風孔が居間に繋がることはすぐに分かった。外を回って観察することで、細江が毎晩、ベランダに繋がる窓のシャッターを下ろしていることも知った。つまり室内で殺せれば密室が作れた。

 住人たちが寝静まっているであろう、早朝の犯行に決めた。もしかしたら夜遅くまで課題をして起きている人間がいるかもしれないが、朝の五時から六時の間は眠気がピークを迎えている頃だろうと思った。

 一度、俺は屋根の上に上った。それからさっきの要領で上半身をぶら下げて、細江の部屋の様子を見た。細江はやっぱり炬燵に突っ伏す形で眠っていた。カバーの外れた通風孔からはその様子が丸見えだった。背中はこちらに向いていた。

 殺れる。そう思った。

 果たしてさっきの場面だ。早朝、屋根の上から上半身をぶら下げ、上下逆さまの世界で通風孔を見ていた。豆電球の薄明りの中に細江の背中が見えた。俺は銃を構えた。体勢が逆さまでも的には当てられる。自信はあった。俺は深呼吸をした。

 銃声。

 二発。

 二発続けて。

 誰か起きてこないか、俺は屋根の上に上り直してから耳を澄ませた。物音ひとつせず、誰も廊下に出てこなかった。十秒、二十秒、三十秒……きっかり一分待った。それから再び上半身だけを廊下の上に下ろした。

 通風孔を見た。豆電球のオレンジ色の明かりの中、細江の背中には赤黒い点があった。致命傷かどうか、確かめたかったが我慢した。俺は屋根の上から下り、一度石槫荘の一階部分に下りると、部屋の通風孔用のカバーを持って階段を上り、細江の部屋の前に行った。

 洗濯機を足場に通風孔の前に上ると、カバーを外からはめ込んだ。持参した金槌で何度も叩いてはめ込んだ。四隅を数回、真ん中を数回。音が心配だったが、しかしこの時間だ。銃声で起きる人がいないなら、ハンマーで殴る音程度で起きてくる人なんていないだろう。いたとしても、通風孔を叩いているだけだ。設備の修繕とか何とか言えば理屈は通るだろう。

 俺は何度も何度も殴った。通風孔カバーをしっかりとはめ込む。さぁ、これで密室が出来た。細江は大きな箱の中に閉じ込められた。

 警察が細江を発見したのは、殺害からしばらく経った頃だった。

 事件は迷宮入りした。

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