第十二話 新婚旅行初夜
最後のお茶をハーブティにしたのは、なんとなくカフェインがよくないと思ったからだ。
酔っている。
自分でも少し危険なような気がする。頭がくらくらしている。気分は悪くないが、まっすぐいる自信はない。
卓朗から呼びかけられている気もするが、定かではない。
「柊子さん?」
やっぱり、呼ばれているようだ。柊子は重い瞼を上げきることができないままで卓朗に視線をなんとか合わせた。
「はい」
「大丈夫?」
「……はい、たぶん」
卓朗は立ち上がり、まだ腰掛けている柊子の前に立った。
「もう出ようかって言ったんだけど、聞いてる? 立てそう?」
柊子はぼやっとしたままで、卓朗を見上げた。それから出された卓朗の手を取り、体を引き上げてもらって立った。足を踏み出したとたんに卓朗の胸にぶつかった。柊子がよろけたからだ。
柊子はそのまま卓朗にもたれ続けた。
「一人で歩ける?」
柊子は返事をしなかった。歩くどころか立てそうな気がしない。それを伝えるのもおっくうだった。
レストランのウェイターがやってきて、卓朗と話をしている。柊子は卓朗の腕に掴まりながら、それを耳にしていた──聞いてはいない。
「柊子さん。抱き上げるよ」
言うなり、柊子は卓朗に横抱きにされた。彼の肩に頭を乗せる形で落ち着き、柊子は無言のまま目を閉じた。ウェイターが「こちらへどうぞ」と卓朗を先導しているのを、やはり雑音程度に耳にしていた。
次に柊子にやってきたのは、猛烈な吐き気だった。ゾンビのように身を起こし、辺りを見回す。
「柊子さん?」
「……は、きそ」
その短い言葉だけで、卓朗は柊子の状態を察してくれた。彼女の肩を引いてすぐさまトイレまで連れてきた。柊子は迷わず、そこに胃のものを吐いた。
卓朗が背をさすってくれている。落ち着いてから顔を上げた。間に合わなかったのか、ブラウスとスカートに吐いたものが落ちていた。
「……あ」
「待って」
卓朗はすぐにバスローブを柊子に渡してくれた。
「着替えられる?」
無言でいると、卓朗が柊子の服を脱がし始めた。ブラとショーツ、キャミソールの姿の上からバスローブを着せられた。
「もう大丈夫なら部屋に連れていくけど、どうかな」
「……まだ、ここに」
「分かった」
彼は柊子の汚れた服を持ってバスルームを出た。どこかに電話をしているようだが、柊子に再度吐き気がやってきて、それを最後まで確認する前に彼女は便器に顔を向けた。
いつの間にか、もう一度、卓朗が柊子の背を撫でていた。
「ありがと……」
「マシになった?」
卓朗はマグを渡してくれた。ぬるいお湯が入っていて、柊子はそれで口をゆすぎ、再度注いでくれたものはゆっくり飲んだ。
「部屋に戻れそうかな」
無言でうなずいた彼女を、卓朗は手を引いてくれた。部屋に入って、自分は先ほどまでツインの片方に横になっていたのだと、今になって知った。
そもそも、この部屋に戻ったときの記憶がない。デザートは食べたのだろうか。終盤の肉料理は覚えている。
スイートの、広いバスルーム、磨かれたタイルの上に這って胃の中身を全部吐いた新婚の妻。
全く笑えない。
「そのままで寝る? 寝間着もあるよ」
「きがえ、たい」
綺麗に掃除されていたとはいえ、トイレに座り込んだバスローブのままベッドに入るのはなんとなくためらわれた。そういう判断ができるようになったのは、酔いはそれなりに覚めたということだろう。
代わりに頭が痛くなってきた。
寝間着に着替える前に、ブラとキャミソールは脱いだ。だがそうするとベッドに入ると寒かった。
しかも吐いたときに冷や汗もかいたのか、体が冷たい。
「寒い?」
卓朗が柊子の肩に手を置いた。驚くほどに彼の手はあたたかかった。柊子の震えも卓朗に伝わったのだろう。卓朗はしばらく、柊子の肩に手を置いたままでいた。
どうか、そのまま手を離さないでと祈っていた。
「柊子さん、風呂に入る?」
「……まだ……ちょっ、と」
卓朗の手が、柊子の肩から背に移動する。
「寒いなら、俺も一緒に横になろうか?」
柊子はうっすら目を開け、間近で彼女を覗き込んでいた卓朗に視線を合わせた。
「おねがい」
吐息と共に出た懇願。卓朗はそれにしばらく浸ったかのように動かなかった。彼は掛布を上げ、柊子のすぐ隣に滑り込み、彼女を両腕で包んで横になった。
ため息が出そうなほどあたたかかった。実際息を吐き、柊子は卓朗の胸に頬を寄せた。
「震えてるじゃないか」
「……汗をかいたみたいで」
卓朗は背中をさすってくれた。あたたかさがありがたい。柊子は我慢できず彼の背に手を回した。
「本当に、ごめんなさい」
柊子は震えた声で、寒さでない別の感情に揺られたそれで卓朗に謝った。
「どうしてあんなに飲んだんだ?」
卓朗に少し悲しげに聞かれて、柊子の目に涙がにじんだ。
「君はずっと緊張してた」
「……ええ」
「その、俺も、……期待というか、柊子さんと、できればいいとは思っていたけど、強制するつもりなんてなかった」
「分かってる」
柊子は鼻をすんと鳴らした。
「私も、卓朗さんに強制されるとかなんて少しも思ってなかった。でも、そういうことになるかもしれないって、それは感じて」
柊子が話すあいだ、卓朗は彼女の背に手をおいていてくれた。そのあたたかさは命綱のようだ。柊子は彼のシャツを握った。
「緊張してたの。前からずっと。少し、怖くもあって、……調べてみたのよ」
「……何を?」
「他の人はどうしてるのかって」
卓朗の手が止まった。
「え、ど、……どうしてるの、か?」
「うん。そうしたら、それなりの人が、緊張するみたい。あとシラフでできる気がしないっていう人もいて、そういうものなんだって思って」
卓朗は返事をしなかったが、柊子は先を続けた。
「だから、少しだけ飲もうって思ったの。フレンチでワインだから、ちょうどいいって思ったのよ。ワインが好きじゃないから」
卓朗は柊子を抱いていた手を緩め、彼女の顔をまじまじと覗き込んだ。
「ワインが好きじゃない?」
「ええ。ワインは苦手なの。だって、なんだか灰みたいな味じゃない?」
卓朗は唖然とした顔のままで、やはり無言で柊子を見ていた。
「だから、飲んでも少しで済むと思っていたのよ。なのに」
「……なのに?」
「今日、卓朗さんが選んでくれたワイン、すごく美味しくて、つい」
しばしの沈黙ののち、卓朗が揺れた。くつくつと笑い、最終的には声を出して笑っていた。
「灰、灰って……灰ねえ。俺はその灰みたいな方が好きで。今日のはあまり好みじゃなかったけど、そ、そうか」
まだ卓朗は笑っている。
「美味しかったんだ。だからあんなにたくさん」
「とても。また飲みたい」
「飲ませてあげたいけど、どうかな。次からは家でもいい?」
次は家で。
卓朗は相変わらず笑っていた。柊子はその彼の笑顔を見つめていた。やがて視界が滲む。柊子の変化に気付いた卓朗は笑みを消した。
「柊子さ」
「よかった」
ほろりと一筋、柊子は涙を流した。
「笑ってくれて、嬉しい、よかった……」
震える声が情けなく、柊子は顔を見せたくなくて、卓朗の胸に額を重ねた。
「もう、絶対に嫌われたと思って。京都から帰ったら離婚されるって、怖かった」
ひくりと泣く彼女の後頭部を、卓朗は撫でた。
「ごめんなさい。お願い、嫌わないで」
柊子が背を回す、卓朗の胸板が膨らんだ。
彼はするりと動き、柊子の方へ少しだけ体重をかけた。あたたかい体に覆われる。卓朗の重みが嬉しい。なお寄ってくる彼を、柊子は目を閉じ待った。
重なった唇の、余韻の息を感じる。柊子が目を開ける前に、卓朗の手が柊子の瞼の上を覆った。
「おやすみ」
抱きしめられ、優しい狭さに酔いながら、柊子は言われるがままに眠りについた。
卓朗は翌朝、柊子が目覚めたときにはすでに起き、身支度も済ませていた。彼がいつ柊子の隣から抜け出し、そして浴室を使ったのか柊子には分からなかった。
「おはよう」
「おはよう。何か食べられそう?」
気分はよくないし頭は痛い。柊子はベッドに横になったままで首を振った。
「ごめんなさい。まだ。私のことは構わず行ってきて」
卓朗は了解し一人で出ていった。とたんに寂しいと感じた。我ながら身勝手だ。いろいろ重なり泣きたくなった。
三十分ほどで卓朗は戻ってきた。彼は柊子にひとつカップを渡した。
「これはどうかな」
見せてくれたのはレトルトの、しじみのお味噌汁だった。
「食べられそう……うん」
卓朗は笑って、お湯を沸かし味噌汁を作ってくれた。柊子はベッドでそれを飲んだ。胃に染み入るほどに美味しかった。
「おいしい……」
「分かるよ。俺もそうだから」
多少落ち着いてきたが、まだ動けそうにない。そのけだるさも卓朗は理解してくれているようだ。
「もうしばらく寝ていたらいいよ」
「……卓朗さんは、どうする?」
「散歩にでも行こうかと思ってる。北に上がって、遅咲きの桜を探すのもいいかな。叡電に乗るのは、またの機会にしよう」
柊子の目が滲み始めたのを見て、卓朗は取りなすように微笑んだ。
「気にするな。いつでも来られるだろ」
「うん。……ごめんなさい。昨日も、今日も、こどもみたいに、こんな」
立て膝で座っていた、その膝の上に柊子は顔を伏せた。
「もう横になって、また眠ったらいい。食べられるようになったら気分もよくなるから」
言われた通り、柊子は横になった。泣いている情けない姿を見られるのがいやで、柊子は卓朗に背を向ける形で落ち着いた。
「柊子さん」
「はい」
「君は不本意かも知れないけど、俺はけっこう嬉しかったよ」
「……なにが?」
結局、柊子はゆっくり体を正面にし、卓朗を見上げた。
「柊子さんの世話ができて。なんか夫婦みたいだなあって」
柊子はまた目を閉じた。悔しさと嬉しさと情けなさと、いろんな感情が交ざっていて、どんな返事をすればいいのか分からなかった。
「私も卓朗さんの看病をさせて」
「俺に病気になってほしい?」
柊子はいやだと弱った声で言った。卓朗は柊子の額を一度だけ撫でた。
柊子はそれからまた一眠りした。正午を少し過ぎたくらいに卓朗が戻ってきた。その頃には、柊子はもう起き上がれるようになっていた。
午前に柊子が眠っていたあいだに、卓朗は京都大学のシンボルツリーを見たそうだ。
「いいわね」
「写真は撮ったよ」
卓朗は、ベッドの上に座っていた柊子に添うように彼も座り、携帯電話で撮ったというそれを見せてくれた。
二人は遅めの昼食を摂ってから、京都駅付近の水族館に行くことにした。
オオサンショウウオの群れの歓迎を受け、それからまた手を繋いで館内を歩いた。こまめに休憩を取りながら観賞したので、柊子は具合を悪くすることなく全部を見て回り楽しむことができた。
おみやげコーナーでは、この水族館の目玉であるオオサンショウウオのぬいぐるみが沢山積まれていた。
「かわいい」
「……そうか?」
卓朗は柊子の感想に面食らっているようだが、柊子は気にせずそれらを眺めていた。
「買う?」
あまりにもじっと見続けていたからか、卓朗が柊子に聞いてきた。
「ううん」
「そうなのか。記念に買えばいいのに」
柊子は微かに笑って、首を左右に振った。
「いいの」
おみやげのコーナーを出て、柊子はお手洗いに行くと告げた。卓朗は出たらそこで待っていてと、付近のベンチを指さした。彼も行きたいところがあるという。
柊子が指定されたベンチで休んでいると、卓朗は袋を持って戻ってきた。袋に入っていたのはオオサンショウウオのぬいぐるみだった。
「柊子さんに」
柊子は目を見開いて、渡されるままに受け取った。袋を覗くと、まだらもようの頭部についている黒目と目が合った。
「かわいい」
ため息をついて、袋の中に入っているオオサンショウウオの頭を指先でつついて撫でた。
愛おしいと思う、とても可愛いとも。
だが欲しくなかった。いや、だから欲しくなかった。しかも今後、これを見るたびに新婚旅行のことを思い出すことになるだろう。情けない姿を晒したことも、なのに、自分を大切に扱ってくれ看病してくれた卓朗の優しさも。初めて口づけを交わしたことも。
こうして、欲しくてしかたがなかったものを、諦めてきた自分を理解し、愛らしいものを与えてくれる彼のことも、一生忘れられない。
手放したくないのに。もう。
だから欲しくなかったのに。
わざわざ戻って柊子のために、素敵なものを贈ってくれた卓朗を前に、そんなことは言えなかった。
二泊三日の新婚旅行は終えた。マンションでのいつもの、とは言ってもまだどこかぎくしゃくしている二人の生活に戻った。
同じ部屋では眠っていない。だから余計にルームシェアという感じが強かった。
そんなある日、卓朗が数枚の書類と地図を持って帰ってきた。夕食後に話がしたいという。食後に食洗機の電源を入れたあと、柊子はテーブルで卓朗と向かい合った。
「家を建てようと思う。俺が設計したいんだ。で、デザインするにも、まず土地どこにするか決めたくて。いくつか目星を付けてきたから、柊子さんにも見てほしい」
「……は?」
固まった柊子に、卓朗は軽く目を見開いた。
「そんなに驚くことかな」
笑いながら彼は地図を柊子に見せてくれた。
しかし、柊子はそれらを見ていなかった。卓朗が何か話をしているのも、全く耳に入ってこない。
心臓が鳴っている。その音が苦しい。
「……柊子さん?」
全く反応がない柊子に、卓朗はまず半笑いで顔を上げ、それから背筋を伸ばした。尋常でない妻の様子に、卓朗は立ち上がって柊子の手を取った。
「どうした?」
手の上から、卓朗に握られた手は、頼って縋りたくなるほどあたたかい。
暗くなる視界から逃げるように目を閉じ、柊子はテーブルに伏せた。
「柊子さん?」
どうすればいいのか。
尊敬──それだけでない、すでに愛している卓朗が、私たちのための家を設計する。
そんな家、離れたくないに決まっている。一生眺めていたい。日ごと、季節ごとに移り変わる家の光景と。
共に暮らす卓朗という存在を愛し続けるその空間を。
息をするのが辛い。
あのときのように、愛しているものを手放さなければならないのか。全てを消してしまわなければならないのか。
卓朗が造ったものを?
どうして。
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