第十一話 吉日、婚姻を結ぶ
三月の最後の日曜日に、柊子は実家の桐島家へ、卓朗を伴って向かった。卓朗が柊子の父に挨拶をするためだ。
久しぶりの実家だ。高校のときにここを出て、リフォームされた家は実家という感じが全くしない。
情けない話だが、実家であるのに卓朗がいなければここに寄ろうと思えない場所だ。
しかし、玄関で出迎えてくれた父の顔を見たとたんにほっとした。
そして居間にある、見覚えのある家具を見てやっと実家なのだという実感がほんの少しだけ湧いた。
卓朗は柊子の父、康治に柊子と結婚したい旨を告げた。康治の言葉を待つ前に卓朗は、自身が親兄弟と没交渉になっていることも話をした。
康治は驚いた顔をして柊子に顔を向けた。
「柊子は知っているのか?」
「すでに、卓朗さんにお話を聞いてる」
父はそうかとうなずいた。
「娘が納得していましたら、私としては何も言うことはありません。柊子をよろしくお願いします」
康治はそれから卓朗に対し労りの視線を向けた。
「やるせない話ですが、どこのご家庭にもいろんな事情があるものです。私も、長く人様の家を建ててきましたが、全てのご家庭が希望だけということは決してなかった」
「柊子さんから、柊子さんのお父様がそう仰っていたとお伺いしました」
康治は照れくさそうに笑った。
「こら柊子、先に言うなよ」
「え、だって」
親子が軽口を飛ばし合うのを、卓朗も礼儀に適った範囲の笑みを浮かべ眺め、改めて頭を下げた。
「不甲斐ないですが、家族として迎えて頂ければと思います」
「そこは、これ次第で」
康治はくいと、お猪口を仰ぐマネをした。そこにたまたま、お茶のおかわりを尋ねに来た柊子の姉の毬菜が現れた。
「ちょっとお父さん、何言ってるのよ、もう。松井さん、本気にしないで下さい」
卓朗は手を振って笑った。
「桐島先生もそういうところがおありでしたが、血筋ですかね」
「美晴が、何か言いましたか」
康治のみならず、柊子も毬菜もぎょっとして卓朗を見た。
「大野賞の授賞式のとき、話の流れで、私が結婚相手を探しているのでいい人がいたら紹介してくださいってお願いしたら、桐島先生が『私は年下に興味がなくて』って仰ったんです。すぐに冗談だと笑って下さいましたが」
「もー、叔母さんてば!」
そう苦笑したのは毬菜で、柊子といえば唖然としていた。美晴も確かにそういう類いの冗談をよく言うたちだが、まさか卓朗にまでそんなことを言っていたとは。
「柊子さんはその気質を継いでおられないようですね」
「柊子は兄からも冗談を言われている方でしたね。柊子は甘えん坊だったから、兄も私もつい構って、からかってしまって」
毬菜は記憶を遡っているのだろう、目を伏せ微笑を浮かべた。卓朗が柊子に視線を送ってきた。
「甘えん坊だった?」
意外そうな卓朗の顔を見た毬菜もまた、驚いたように柊子と卓朗を見た。
「松井さんがそう思われないなら、柊子もしっかりしてきたんだ」
それはまあ、そうよねえと毬菜がうなずいたとき、近くの部屋から女の子の声が聞こえた。おかあさんと言いながら毬菜の娘、柊子の姪が絵本を抱えてやってきた。
「あ、とうこちゃん。とうこちゃん、これ読んで」
姪は絵本を柊子に差し出してから、卓朗に気が付いたのか、ソファの影にすっと隠れ、柊子の手を握った。
「こんにちは。はじめまして。まついたくろうです」
「……ちあ」
卓朗は視線を落として小さな女の子に挨拶をしたが、姪はまごまごとしていた。
「いちか、松井さんにきちんとこんにちはって言いなさい」
毬菜は娘、いちかにそう言ったが、いちかはたっと走って母親の背に隠れた。
「ごめんなさい」
「いや、いちかちゃんというお名前なんですね」
苦笑して謝っている毬菜へ、卓朗はきさくに対応していた。
「いちかは、柊子に絵本を読んでもらうのが好きで」
「柊子さんは……声に落ち着きというか、よどみがない感じがして、絵本の朗読とか上手なんじゃないかなとは思ったことがあります」
この卓朗の言葉に、康治が嬉しそうな顔をした。
「分かりますか。柊子は、中学のときに賞を取ったんですよ」
「お父さん」
柊子は止めたが、康治は部屋の壁にある額縁に入った賞状を指した。
「中学生向けの、アナウンスの大会でですね」
さらに口を挟む前に、姪っこが柊子の膝にやってきた。
「あ、こら、いちか」
「とうこちゃん、読んで」
卓朗がふっと笑って、柊子に手のひらを示しどうぞと促した。
「俺も聞きたい」
「え、冗談でしょ?」
「とうこちゃん〜」
姪に熱心にせがまれ仕方なく柊子は絵本を開いた。
後日、家族の顔合わせが卓朗と柊子の家族側だけ行われた。柊子の兄、譲と卓朗は、仕事の分野が似ていたのか話が弾んでいた。
「譲さんと、毬菜さんと、柊子さんって、お義父さん、こだわりがすごいですね」
「それが分かる卓朗さんもなかなかのオタクですよね」
譲と卓朗はそう言って笑っていた。
式はしない。お互いに、交流の深い親友の数が多いわけではないと分かったので、披露宴もすることはないということになった。必要に応じて紹介をしていこうと決めた。
婚約指輪は必要ないと断った。結婚指輪は用意したものの、互いにしまい込んでいる。
柊子は卓朗の家に引っ越すことになった。修理の依頼をされた、フィン・ユールの椅子を運んだあの家に、自分が暮らすことになるのだ。
見合いをした直後では、空想したもののあり得ない夢だと思い込んでいた。なのに現実になってしまった。
しかも、書類も提出済みであるのに未だ、夫婦という実感が湧かない。
「引っ越しの手伝いは必要だろ?」
卓朗の当然だろうという言い方が、妙にこそばゆく、柊子は顔を綻ばせた。
「大丈夫よ。慣れてるから」
「慣れてる?」
「一人暮らしをするようになってから、何回か引っ越したの」
卓朗はまだ首を傾げていたが、柊子がそう言うならと引き下がった。
「確かに、俺は俺で柊子さんが越してくるスペースを空けないといけないんだよな」
「それも、多分大事にならないと思うの。私の荷物はバンに乗る程度よ」
「まさか」
卓朗は半笑いの顔をしていた。
ところが実際、柊子が荷物を移動させた日、届いた量を見て卓朗は信じられないという顔をした。
「こんなに、少ないのか?」
荷物を開けている柊子の傍で、彼は唖然としていた。
「家具がない。もしかして処分した?」
「借りていたの」
「借りていた?」
卓朗の声は強ばっていた。
「無印良品で、家具のレンタルがあるのよ」
柊子の説明で、卓朗の顔の固さが少し和らいだが、まだ彼は完全に納得したという顔をしていない。
「便利だし、いい家具ばかりよ」
「いや、無印の商品自体はいいものだって知ってる。ただ、君が」
「私?」
「柊子さんが、それを利用しているのが意外というか……」
卓朗は、なお柊子の真意を汲もうとしているように彼女の顔を見続けている。
「ここでも、部屋のサイズが分かったら、それに合うものを借りようと思って」
「は?」
卓朗はあからさまに苛立った声を出した。
「どうして。君が気に入ったものを買えばいいのに」
柊子は瞬いた。それから頬に手を当てた。
「そう、よね」
戸惑った様子の柊子を見て、卓朗は我に返り、顔を逸らす。
「いや、ごめん。君のしたいようにすべきだよな。俺もなんかムキになった」
突き放すでなく、卓朗自身も困惑したような顔と口調をしていた。
そうして二人の生活が始まった。自炊をしていた柊子の、彼女の調理器具がそのまま卓朗のマンションのキッチンスペースに入ったような形になった。ただし冷蔵庫と電子レンジは買い換えた。冷蔵庫は大きなものに、レンジはオーブンも搭載されているものになった。
特に大きな問題はなかった。夫婦というより、ルームシェアのような生活になっている。
まだ共に暮らしていなかった交際の期間の方が、触れあいがあった。
お互い、距離感が掴めないまま、予定していた新婚旅行の日になった。
長い休みを取って遠くに旅行をするのは、また別の機会にしようと話し合った。なので二人の、最初の泊まりの旅は京都への二泊三日となった。
ツアーに参加もせず、お互い行きたい場所をピックアップして、そこに見合った宿を取った。
時期は桜の季節が終え、ゴールデンウィーク前という頃だったが、それでも人は多かった。寺の参拝も、気を抜くと他人と肩がぶつかりそうになる。それをいいことに、柊子は卓朗にしがみ付くように歩いていた。
共に暮らすようになって、こんなふうに寄り添い歩くのは初めてだった。柊子も甘え寄り添っているが、卓朗も時々、柊子の腰を引き間近に寄せることがあった。嫌な感じはしない。それどころか、人目がなければずっとそうしていたい。
結婚を前提に付き合ってほしいと言われた、椅子を届けたあの日、卓朗は柊子をいずれ抱きたいと言った。そして柊子の勘違いでなければ、卓朗はあのとき、柊子に何かしらアクションをかけようとしていた。
だがあれ以来、二人のあいだにはなにもない。卓朗はああ言ったが、今の時点で所謂「そういう欲」は彼の中で消えてしまったのかもしれない。
だが今日、卓朗は柊子に、必要以上に触れているような気がする。
今晩は、老舗のホテルのスイートを予約してある。
そこで我々は一線を越えるのだろうか。
柊子はなんてことだと空を仰いだ。せっかくの京都旅行なのに、何も頭に残らない。
緊張してしまう。
ホテルの部屋に入ると、なんと花束が用意してあった。
そして何故か、卓朗がそれを見て驚いた顔をしていた。
「……新婚旅行だっていうことは言っておいたんだけど、こんなサービスがあるのか」
ベルボーイは卓朗の戸惑いに気付かないフリをし、部屋の説明を終えたあと早々に部屋を去った。
「すごい。綺麗」
柊子はブーケを手に取り、目と鼻でそれを楽しむ。卓朗はそんな柊子を無言で見ていたが、顔を上げた柊子と目が合ったとき、ぎこちなく視線を外した。
「夕食を食べにいく? 予約してある」
「うん」
連れだって向かった先は、ホテル内のフレンチレストランだった。
「ワインでいいかな」
「あ、うん」
ぼんやりしていたのだが、卓朗に聞かれ、柊子は我に返ってうなずいた。
「何か希望はある?」
「ううん。ワインは詳しくないから、なんでも」
卓朗はソムリエと話をしてからワインを決めた。やってきたそれを卓朗がテイスティングし、了解を得たあとで柊子にも注がれた。
ソムリエが去り、二人は顔を見合わせ、グラスを合わせる。美しい音がした。
「……おいしい」
口に含むと、爽やかでほんのり甘い。卓朗は笑みを見せた。くつろいだようなそれを見ることができたことに、柊子も安心した。
卓朗の選んだワインは、料理にとても合っていた。それでなくとも上質のワインの味に柊子は魅了されてしまった。
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