第十話 手を握るために

 夜に柊子は貴久へお礼の電話を入れた。携帯にかけたが、出たのは貴久の妻の美咲だった。

『柊子ちゃーん。聞いたよ。柊子ちゃんの彼氏、おとーさんに敵意バリバリだったって?』

 美咲の言う「おとーさん」とは貴久のことだが、柊子は内容に驚いてしまった。電話の向こうで、貴久の声の「あ、こら」というのが聞こえた。ごそごそと音がして、電話口に貴久が出た。

『ごめん柊子ちゃん。おかーさんの言うことは気にしないで。俺が面白おかしく言っちゃっただけ』

「面白おかしく、って」

『松井さん、俺のこと年下の、柊子ちゃんに馴れ馴れしいコイツなんだって思ってただろ?』

 後半はともかく、卓朗が貴久を年下と思っていたことは事実だ。貴久はそのことを気にしているので、柊子は回答をためらった。

『ごめん。俺も調子乗って、クライアントの前でちゃん呼ばわりして。まあまあ俺も沸点低くて、初対面でいきなり『俺の女に馴れ馴れしい口利きやがって』って顔されたら、ちょっとむっとしてさ。いやいやこっちだって保護者ですから!って気になるじゃん』

 だから親父にまだ半人前って言われるんだけど、と息を吐いている。

「たくろ……、松井さん、そんな顔してなかった」

『してたしてた。つっても俺はまあ、ああいう気概のある男はいいと思う方。ちょっと意外だったけど』

「あ、あの、今日も、ありがとう。お世話になりました」

『いいよ。で、椅子。どうだった?』

「喜んでくれた」

『よかったじゃん。いい仕事だったよ。親父も嬉しそうでさ』

「ありがとう」

 柊子は電話を終えてから、貴久の言葉を思い出していた。

 俺の女?

 再度まさかと思いつつも、本日の出来事を思い出し、柊子は一人顔を赤くした。

 今更だが、卓朗は本当に「口では言えないこと」をしようとしたのだろうか。


 翌日、柊子は駅で卓朗を待っていた。彼はすぐにやってきて、柊子を見て手を振ってきた。柊子も手を振り返す。挨拶の後で卓朗は柊子の手荷物に視線をやった。

「どうぞ」

「あ、催促したわけじゃないですよ」

 前回のことがあり、柊子は卓朗への贈り物を彼へ渡した。

 卓朗はありがとうございますとはにかみ、紙袋にしばらく視線を置いていた。

「やっぱり催促しましたね、俺」

 柊子はくすくす笑った。

 電車は混んでいて、二人はそれぞれつり革に掴まった。柊子が挙げた左手の手首に、ひいらぎのブレスレットがあるのを卓朗は気が付いた。

「ブレスレットを着けて下さってありがとうございます」

「こちらこそありがとうございます」

 自分の手首の、小さなひいらぎの飾りを微笑んで見た。

「嬉しいです。本当に可愛い」

 その笑顔を、卓朗もまたじっと見つめていた。



 まだ肌寒い日はあるが、刺すような冷気はもう感じなくなった、三月の初旬だった。

 柊子は卓朗とある美術館に来ていた。

 山の途中にあるそこには、付近にいくつかの文化施設が点在している。山の中程に駐車場があり、そこから徒歩や回遊バスを利用して、好きな施設に入場ができる。一日チケットを利用すると、三つ施設を回れば元が取れる設定になっている。

 一つ目に訪れた施設は、ミニチュア造形物の美術館だった。家具や家など、精巧に作られたものたちがショーウィンドウ越しに飾られている。

「かわいい。みんな飲んでる」

 柊子の囁きを聞きつけ、卓朗も同じものを覗き込んだ。肩があたり、柊子はそのささやかな触れあいにもほっとする。

 安心と戸惑いと喜びとが混ざった感情を自覚しながら、柊子は卓朗の存在に浸った。

「すごいな。膝の上の猫がハチワレなのまで分かる」

 先月辺りから、敬語をやめようと取り決め、卓朗は早々にそれに慣れた。

「テーブルの上に乗っているのは……ケーキですかね?」

 一方、柊子はまだ時々ですますが入る。卓朗もそれについてはいちいち指摘はしない。

「公現祭じゃないかな。キリスト教の祝日のひとつ。この人が冠を被っているから、この日に王様に選ばれた人なんだと思う」

「……王様に選ばれた?」

「一地方の慣わしらしいけど、公現祭のときにケーキを焼くんだよ。その中に豆を仕込んでおいて、皆で切り分けて食べたときに、ケーキに豆が入っていた人がその日の王様になるとか」

「へえ」

 柊子はもう一度人々がテーブルを囲んでいるミニチュアを見た。

「皆楽しそう」

「それにしてもほんと、細かいな」

 館内にはこども連れの家族もいて、会話が厳禁ということもない。辺りでは雑談が時々聞こえる。しかし柊子と卓朗は肩を寄せ合って、ひそひそと小声で話をしていた。

「姪っ子がもうすぐ三歳の誕生日なんです」

「……そうなんだ」

「プレゼント、何にしようか悩んで、ネットで検索したんです。最近はおままごとの道具もとても可愛くて精巧にできていて、結局目移りしてまだ決められない」

「俺は、姪を直接連れていって欲しいものを選ばせた」

 彼が小さな女の子を連れている姿は微笑ましい。素敵だと言いたく、柊子は卓朗に顔を向けたのだが、予定の言葉を発することができなかった。卓朗は強ばった顔で前を見ていた。

 想定外の表情だった。照れでもなければ、提案でもない。

 思い出したくなかったものが、不意に脳裏に蘇り、そのせいで彼の感情まで再現されたかのような顔をしている。

 初めて会った見合いの日、彼はこどもの話をしながら似たような感情を発していた。

 そこにあるのは嫌悪と、決して戻ることのないものへの懐古──柊子自身がよく抱くそれと、彼は同じものを抱えている。

 柊子は前を向いた。なんとなく、彼は今の顔を自分に見られたくないのではないかと思った。

 これもまた、自分がそうだから。

 そして気付いた。卓朗から初めて、家族に関わる話を聞いた。


 小さな美術館を出ると、下った先に植物園があった。メイン道路と、美術館から植物園までの庭園への、二種類の案内があった。

「どっちにする?」

「庭園の方から行きたいです」

「じゃあこっちから」

 表示を確認し、卓朗が指さした方向に足を進めていった。柊子は卓朗の左手に自分の右手をするりと滑らせた。

 卓朗が振り返った。

「あ、ごめんなさい。嫌なら離します」

 など言いながら、柊子は彼の手を握ったままにしている。言質を取るまでは離すつもりはなかった。

「俺と手を繋ぎたいから、庭園から行こうって言った?」

 笑顔で尋ねられた。柊子は視線を横や斜めにせわしなく動かした。

「せっかく……だから、歩きたいと、思ったのよ」

「柊子さんはごまかすのが超絶に下手だな」

 卓朗は柊子の手を握り返してから手を引いた。二人で梅の咲く庭園を歩いていく。

「私いつも、卓朗さんとでかけるとき、手を繋いで歩く口実ができるでこぼこ道があったらいいなあって思ってるから、卓朗さんの言ってることは正しいです」

 卓朗は一瞬笑みを消したが、やがて口元に手を当てた。彼が笑いを堪えている動きだと、柊子は年が明けた辺りで覚えた。

「逆だよ、逆」

 卓朗は案の定、返事に笑いを含ませていた。

「……逆?」

「俺が、そういう道がある場所を選んで柊子さんを誘ってるんだよ」

「え」

「下心であなたが俺に勝てるわけがない」

 柊子は何も返せなかった。

「秋になったら紅葉も綺麗なんだろうな」

 卓朗は山を仰ぎながら呟いた。柊子も同じ方向に顔を向ける。

「また来ましょう?」

 構えることなく提案が出せた。なんとなく、柊子は少なくとももう一度、卓朗とここに来る予感がした。卓朗もそうだなという同意が目に覗える。

 歩く速度がゆっくりになった。

「柊子さん」

「はい」

「俺には両親と姉がいる。皆まだ生きているけど、いろいろあって没交渉になってる」

 柊子は卓朗と、会話の流れで自身の両親や兄弟のことを話したことがあるが、彼は敢えて自分のことは話さないようにしているふしがあった。もしかしたら亡くなっているのかと思ったこともあった。

「そう」

 卓朗は柊子を見、ふっとかすかに笑みを浮かべた。

 少し、困ったような顔でもあった。

「俺は彼らを、今の時点では許すことができない。もしかしたら死ぬ間際まで会おうと思えないかもしれない。いっそ生前で相続放棄ができたらと思って調べたこともあるけど、今の法律ではできないらしい」

 彼は前を向いて、視線は先にあるけれど、確かに苦悩を背負っていた。

 彼の言った「許すことができない」という言葉に、何故か納得ができた。かつて卓朗は、彼の恩師が使っていた椅子を見守り続けることが辛いと述べた恩師の妻の言葉を、深く理解できないと言った。あんなにも人の心を汲むひとがどうしてと、あのとき柊子は思った。

 彼は、肉親に傷付けられたのだ。だから。

「俺は彼らとあなたを会わせるつもりはない。……俺の父はもう俺に関わる気なんて皆無だろうけど。だからといって、俺の両親が不在で、あなたに迷惑をかけるつもりは一切ない。けど、ただ、こういう過去が俺にはあると知ってほしいと思った」

 握った手に少しだけ力が入り、柊子はその、あたたかく大きな手をしっかりと握り返した。

「信頼していた人に裏切られるのは、とても辛いわ。それが肉親なら、尚更反動が酷いのではないかしら」

 二人は足を止めた。卓朗は、まるで今、柊子が隣に来たかのような、はっとした顔をしていた。

 柊子の脳裏には、中学時代の友の顔が浮かんだ。

 ──いや、彼女は友だったのだろうか。彼女は笑っていた。あのとき。

「父が言うには、父は家を建てる仕事をしているけれど、どのおうちにもいろいろ事情があるみたい」

「だろうね」

 卓朗はふと息を吐いた。

「だから柊子さんのお父さんは、あなたに家を守るひいらぎの名を入れたかったのかな。あなた自身も守るように」

 卓朗の、その静かな言葉が、じわりと柊子に染み渡っていく。

「卓朗さんは、私の名前のこと、本当に気に入ってくれているのね」

「名前だけじゃない」

 柊子は目を伏せた。目尻に少し、涙が滲む。

「私、自分の名前が好きだったのだけど、中学のときに友達に、名前のことで揶揄されたことがあったの。ひいらぎで「とう」って読まないのにって。悔しかったのに何も言い返せなかった。それからずっとひっかかっていたことだった。だから卓朗さんがいい名前って言ってくれてとても嬉しいです」

「それは友達じゃないだろ」

 自分の思っていたことを読まれたのかと思った。

「柊子さんの名前は素敵だよ」

「ありがとう」

「どういたしまして」

「それから、私と会ってくれたことも、ありがとうございます」

 彼は、驚いたときの柊子がそうするように、微かに口を開けた。

「卓朗さんは、ご両親のことで辛いことがあったのに、それでも結婚しようと思って、私と会ってくれるでしょう。それが私には嬉しいです」

 伝えたいことが言えた安心にほっと息が出た。

 柊子の手を卓朗は引いた。二人はまた庭園を歩き始めた。

「そこも逆だ」

「……ぎゃく?」

 卓朗は前を向いていた。先ほどと同じ横顔の、視線の先が少し上を向いているような気がする。

「川口巌夫記念館で、あなたは俺に、『山へ』という絵と記念館との構図の話をしてくれた。あのときに、俺はもう一度、誰か他人を慈しんで生きているかもしれないって思った」

 目を見開く柊子に一瞬視線を置き、卓朗は再び前を向いた。

「柊子さんのことが忘れられなくて、あれから何度か記念館に足を運んだけれど、あなたには会えなかった」

「え、私も、あれから何度も見にいったのに」

 卓朗は声を出して笑った。

「半年くらいで諦めた。でも結婚するのも悪くないかもしれないと思って、いろいろツテを頼って、桐島先生に声をかけたら、まさかあなたが来るとは」

 道を曲がったところで、植物園の入り口が見えたが、まだ遠い。庭園の道順は曲がりくねっていて、メイン道路を歩いた方が近かったらしい。だから人がほとんど歩いていない。

 柊子と卓朗には、それが有難かった。

「柊子さんが先に、俺に、誰かと一緒に過ごす楽しさを思い出させてくれたんだよ。肉親には恵まれなかったけど、俺はいつも他人に救われている、そんな気がする」

 こつ、と足を進めた先で、柊子は小さな石を踏んだ。バランスを崩して、卓朗の握る手に力が入った。

「柊子さんに、片手だけの手袋を贈りたいって思ってる」

「両手の手袋がいいです」

 卓朗は柊子に目を向けた。

「いつも右手でつなぐとは限らないのに」

「ああ、そうか」

 卓朗は納得したように肩の力を抜いた。二人は進行方向に視線を向け、ゆっくりと足を進めていく。

 繋いだ手が、少しだけ離れ、それから指を絡めて握り合う。

「柊子さん、俺と結婚してください」

 手の温もりに浸りながら、柊子は目を伏せた。

「はい」

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