第九話 捕らえられた女

「その、俺は……いや、柊子さんは俺のことを、男だと見ていないような気がしていたんで」

「そんなことはないです」

「生物学上では認識されているのは分かっていますけど」

 柊子は困惑し始めた。

「それ以外に何を?」

 卓朗は気合いを入れたいのか、鋭く息を吸った。

「結婚のスタイルはそれぞれだと思います。プラトニックな関係がずっと続く夫婦だっているでしょう。ですが、俺はそうじゃないんです」

 まだ柊子がきょとんとしているのを見て、卓朗は顔を赤くした。

「今すぐとはもちろん言いません。ただ、結婚することになって、柊子さんと一緒に暮らすことになったとしたら、俺はあなたを抱きたいと思っています」

 何故その必要があるのか。柊子は思ったことを事実としてそのまま口に出した。

「でも私、子供、産めませんよ?」

 卓朗は仰け反った。言うと思った、と柊子には聞こえたような気がした。

「そういう行為って、必ずしも生殖だけが目的ではないと、俺は思っているんです」

 やや婉曲な表現だったが、彼の言わんとするところは柊子には伝わった。

 柊子は胸を守るように腕を前に動かした。その動作を見て卓朗は眉をひそめた。

「卓朗さんは、そんなこと、可能なんです?」

 卓朗はさらに顔をしかめた。

「済みません。そこは俺も知りたい」

「え?」

「その、どこまで……最後までしてしまっても、あなたの体に支障がないのか、俺も知りたい」

「さいご……」

 何を言っているのか察し、柊子は顔を背けた。

「できます」

 蚊の鳴くような声で、柊子は伝えた。

「術後に、先生に教えてもらったと言うか……たまたま、同じ年の女の子が、同じような手術を受けて」

 その彼女とは退院後もやりとりをして、まだ友情が続いている。先日に、柊子のお見合いの服装の相談にも乗ってくれた。

「そのとき……その彼女が、主治医の先生に私のこともついでに聞いてくれました。その」

「はい」

「してもいいのかって」

「それで」

「できるそうです。ただ」

「……ただ?」

「私は、妊娠はしないけど性感染症リスクは健常の成人と同等にあるので、安全のために必要に応じて避妊具は付けなさい、と」

「いい先生ですね」

「はい。でも、そのときも、子供はできないのにどうしてって、思って」

「当時、柊子さんは中学生だったんですよね」

「そうです」

「それなら、そう思っても仕方がないのかもしれ」

 途中で卓朗は言葉を詰まらせた。何かとんでもないものを見てしまったかのように柊子を見上げた。

「柊子さんは、その」

「はい」

「あ、その……これまでに、誰かと、お付き合いをされたことは?」

「ないです」

 卓朗はかくっと顎を落とした。

「だって、私、全然もてなくて」

「あり得ない!」

「ありえないって、どうして」

 お互い眉をつり上げ、半ば睨み合うように顔を合わせた。

「釣書の経歴を拝見していますが、大学は建築学科に籍を置かれていましたよね?」

「はい」

「男女比はほぼ十ゼロ、女子生徒がいれば奇跡だった思うんですが」

「そんなことはないです。女子学生は私ともう一人いました」

 意外に多いんですねと卓朗もちょっと驚いたが、話を戻した。

「誰かはあなたに声をかけたでしょう」

「まさか」

「あなたは大学時代だけ透明人間だった?」

「そんなわけないでしょう。だから言ったじゃないですか。全然もてなかったって」

 卓朗はふっと目を据わらせた。

「そもそも、もてたいと思っておられた?」

「いいえ。そんなに」

「でしょうね」

「というか、学科の科目が多いし難しいし、三回生以降になると実習も増えたし」

「そこはええ、俺も通ってきた道なので分かります。単位を落とすと上に上がれないと焦っていた」

 さすがとでもいうのか、似た学部を卒業したので話が通じた。

「だから、卓朗さんが」

「え、俺?」

 驚いた顔で見られ、柊子は視線を逸らせた。

「できるのか分からないです」

「……え?」

「私が、相手で」

 羞恥に染まった声が、いかにも頼りない。こんなこともまともに言えない自分が情けなかった。

 普通の女性なら、もっと自信が持てたのではないか。卓朗から呆れられたり笑われたりしたくない。だがどんなふうに振る舞えばいいのか分からない。身の置き所がない。

 窓から差すカーテン越しの、優しい光のような声を欲したとき、その希望のままのそれを卓朗は放った。

「あなたがそう望むなら、俺も柊子さんに触れずに暮らせたらとは思うけれど、……俺にはできないと思います」

 卓朗は目を伏せた。

「あなたと結婚して、あなたを身近に感じながら、あなたを抱かずに生きることは、俺にはできない」

「卓朗さん」

 彼は静かに目を上げた。

「俺に触れられることが耐えられないなら、言って下さい。諦めます」

「……なにを?」

「柊子さんとの結婚を」

 柊子は息を飲んだ。

「誤解しないでもらえたらと思うんです。上手く伝わるか分からないんですが、抱かせてもらえないなら結婚しないということではなくて。……柊子さんと話をするのは楽しいです。一緒にいて、気も休まる、それに、あなたが楽しかったと言って笑ってくれたとき、俺も幸せになれました。それで十分だと思ったときもあって、ですが、……偶然でしたけど、柊子さんをあの階段で抱きしめたとき」

 先刻の柊子と同じように、卓朗も一度、息を整えるように喉を動かした。

「無理かもしれないと」

「え」

「柊子さんは、俺のことを男だと意識していないようだなとは思っていました。会った初日はそれでもいいかと漠然と思っていたんです。けれど、あのとき、あなたを、少し語弊がありますが、抱きしめて」

 卓朗に見つめられ、声はおろか、息をするのさえ難しいほどに空気が重い。

「そのとき柊子さんと、一線を越えないままで一緒に暮らすのは無理な気がして。今も」

 柊子の手が震えた。

「いつか、きっと、俺はあなたを」

 そこからは、日の光だけがまるで動いているかのように部屋を照らした。椅子の、暗色のアームがゆっくりとあたたかくなっていく。

 卓朗が半歩下がって、アームから手を引いた。

「思い出した」

「は……い?」

 柊子の掠れた声を聞き、卓朗ははっと目を見開いた。だがすぐに礼儀的な笑みを浮かべ、少し待っていて下さいと伝えて奥の部屋へ入った。

 彼はすぐ戻ってきた。手に小さな箱を持っていた。

「柊子さんへ、おみやげです」

「え、おみやげ?」

「出張先でみかけて、あなたに合うと思って買いました」

 卓朗は再び柊子の前に膝をついて、彼女に箱を手渡した。しかし柊子は受け取ったものの、まだ胸元でそれを抱きしめたまま呆然と卓朗を見た。

「わたしに」

 卓朗は顔を背け苦笑いをした。

「あなたの趣味に合うのかも分からないし、そもそもこういったものを贈るほど親しいわけでもないとは分かっているんですが、見つけた場所が場所だけに、二度と会えないだろうと思って、ほぼ衝動で買いました」

 卓朗は柊子の手元の箱を指さした。

「俺が持っていても仕方がないので、もらって頂ければ」

 柊子はぎこちなくうなずいた。

「開けても、いいですか?」

 少しひび割れた声の問いに、卓朗は静かに笑った。

「是非」

 包みと箱を開けると、華奢な鎖のブレスレットがはいっていた。ワンポイントに、赤く丸い石がふたつと、ひいらぎの葉がひとつ。

 柊子は顔を綻ばせた。

「かわいい。……クリスマスが近いから」

「あ、そういうことか……」

 柊子が顔を上げると、卓朗は何か納得したような顔をしていた。

「ひいらぎはクリスマスだったからか」

「それじゃないん、です?」

「俺は、単純にあなたの名前だから、あなたを思い出して」

 柊子はぽかんと口を開け、それからうつむき口を閉じた。

「嬉しいです。ありがとうございます。大切にします」

「よかったら、使ってください」

「はい。もちろん……あ、今」

 柊子は卓朗の顔を覗き込む。

「今、つけてもいいです?」

 問われた方も、さっきの柊子のように少し口を開け、それからそれを閉じ無言でうなずいた。

 柊子は箱からブレスレットを取り、留め具をはずした。左手の手首に回して、金具を留めようとして、だが上手く手が動かずなかなか入らない。一分ほど格闘したが、できずに柊子は観念した。

「卓朗さん、付けてくれますか?」

「え」

 卓朗はまず固まってから、遠慮がちに柊子の左手首に手を添えた。彼の小指の第二関節が柊子の手の甲を掠めて滑った。

 金具が入り、卓朗が手をどけた。柊子は左の手を上げて、手首を彩る可愛らしい細工に魅入った。

「かわいい。ありがとうございます」

 卓朗もまた、柊子の華奢な手首を見下ろす。

「あなたは、こういった繊細なものがとても似合う」

「ありがとうございます」

 柊子はブレスレットの、小さなひいらぎに視線を置いたまま、ゆっくり口を開いた。

「大丈夫だと思います」

「……なにが?」

「今もそうだけど、あのときも」

 卓朗に視線を合わすことができず、柊子は頑なに贈られたブレスレットを見続けた。

「階段から落ちそうになって、あのとき、卓朗さんに抱……助けてもらって、嫌ではなかったです。びっくりして」

「びっくり?」

「ひとの温もりが身にしみた感じで」

 卓朗は微かに声を出して笑った。

「人情もののドラマみたいだ」

 柊子も笑う。

「人間の……卓朗さんの体温が、あんなにも愛おしいものだって、知らなかった、いや、忘れていたのかしら」

 柊子の言葉に、卓朗は笑みを消した。

「卓朗さん、あのとき、私のくつを拾って、屈んで履かせてくれたでしょう」

 目の前の男が、一心不乱に彼女を見つめていることに、柊子は気付かぬままに思いを綴る。

「憧れの男性にあんなふうに扱ってもらえて、恋に落ちない女のひとなんていないと思います」

 部屋の空調の音が一瞬止んだ。そのときに卓朗が、柊子の左手を自分の右手で覆った。顔を上げた柊子を、立ち上がって見下ろし、椅子の背もたれに左手をかけた。

 目を見開いた柊子と卓朗の目が合った。苛烈なのに引き込まれそうな目だ。

 膝の上の、ブレスレットの外箱が滑って落ちた。床でことんと音を立てたとき、大きな足音をたて、卓朗が後ろに飛び退いた。彼は口に手を当て、目を見開いていた。

「す、みませ……」

 強ばった声で、卓朗はさらに足を後退させ、背中にあったテーブルに腰をぶつけた。バランスを崩し、テーブルに手をつく。

 空調の音が再び鳴り始めた。柊子もはっとして、椅子から立って床に落ちていた箱を拾った。

「送ります」

 強ばった卓朗の声に、柊子はびくりと肩を奮わせた。

「なに?」

「自宅まで柊子さんを……あなたの自宅まで送ります。今日は、これで」

 柊子は息を飲む。何かを言わねばと思ったが、卓朗は何も聞く耳を持ってくれないような、そんな雰囲気を背負っている。彼は無言で、テーブルと揃いの椅子の背にかけてあったミリタリーコートを取り、音が立つのではと思うほど勢いよく袖を通した。

「帰る準備をしてください」

「あ、はい」

 柊子はブレスレットが入っていた箱を自分の鞄に入れた。卓朗の受け取りのサインのある書類が鞄に入っていることを確認し、卓朗に顔を向けた。彼は無言のままで玄関へ向かっている。柊子も後を追った。

 駐車場は地下です、と固い声で告げられた以外、二人は黙ったまま歩いた。

 マツダのセダンの前で卓朗がキーを解除する。

「どうぞ」

 柊子は一瞬だけ躊躇ちゅうちょしてから助手席を開けた。腰掛けた直後に、運転席に卓朗が乗り込んできた。彼はドアを閉め、スターターに手を伸ばす。柊子はその手を取った。

 卓朗は硬直し、柊子の方へ顔を向けた。

「柊子さん?」

「ごめんなさい」

 自分の手が震えていることに、卓朗の手を取ったときに気が付いた。

「何か、私、卓朗さんに失礼なことをしました?」

 ひくりと息を吸い、柊子は落ち着こうと胸に手を当てた。

 対して、卓朗もまたあっと軽く声を上げた。慌てたような、柊子に対して感情のある顔を見ることができて、柊子の緊張も少し解けた。

「済みません。俺、感じ悪いですよね、ごめんなさい。怒ってないです。少なくとも柊子さんに対しては、本当に何も」

「私に怒っているんだと、思って、ました」

「違います。俺は嬉しかったんですよ。で、つい……」

「……つい?」

 まじまじと見ると、卓朗の耳が赤かった。

「あ、の、柊子さんがああ言ってくれて、めちゃめちゃ恥ずかしいとも思ったんですけど、というか照れて、でもそれ以上に」

「はあ」

 相づちを打って、続きを待つ柊子に対し、卓朗はハンドルに額をついて項垂れた。

「……まあなんと言うか、今の段階で口に出すと確実に引かれて、最悪二度と会ってもらえなくなることをやりそうだったんで」

 それは何かと、聞く手前で柊子にも察しがついた。ただ本当に自分の考えが合っているのかは自信がない。

 卓朗は柊子から手をどかせ、スターターを押した。車のエンジンが起動して、ナビも起動する。

「ご住所か、最寄りのコンビニの検索でも、どちらでも。ご希望の場所をナビに入れて下さい」

 車の発進後もしばらく無言が続いた。彼は普段、カーステレオを使っているのか分からないが、車内は静かなままだった。

 途中の信号待ちのとき、柊子は決心して卓朗の方へ顔を向けた。

「また、私と会ってほしいんです」

 卓朗は一瞬だけ柊子をちらと見て、また前に視線を向ける。

「俺もですよ。会ってほしいです」

「ありがとうございます。あと、卓朗さんは、やっぱりフェアな方ですね」

「……はあ?」

 十割疑惑が入った返しをされ、柊子も面食らった。

「俺が?」

「え、だって。真面目に謝って下さるし、私にも負担をかけないように言って下さって」

 柊子から見る卓朗の横顔は、羞恥と苛立ちが混じったようなそれだった。

「柊子さんは俺に夢を見すぎですよ」

「ゆめ?」

 卓朗は柊子の聞き返しには応えなかった。もうすぐ柊子の指定した場所に到着するというころ、彼は前を向いたままで柊子に話しかけてきた。

「俺がキャンセルしてしまった美術館、よかったら行きませんか、明日」

 柊子は口元を緩める。

「行きたいです。行けます」

 卓朗はやっと笑顔になりありがとうございますと返した。

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