第八話 嫉妬の奥にあるもの

 翌朝、柊子は時間通りに卓朗のマンションの前に来ていた。駐車の場所がないと思っていたので、運転を柊子の師匠である三柴久司の次男、貴久に頼み、貴久には先に帰ってもらうつもりだった。


 貴久は父親の仕事は継がなかったが、配送の仕事などでサポートしている。貴久とは柊子が十五歳のときからの付き合いだ。柊子が高校に入ったとき、柊子が美晴の家で暮らすようになり、遠くの大学に通って下宿住まいだった実の兄とは疎遠になっている。なので、柊子が中学三年の夏からずっと顔を合わせてきた貴久の方が兄らしい。

 貴久は柊子より十以上年上で、妻帯しこどもも二人いるが、そうと見えないあどけない外見をしている。最近、仕事の場で柊子の方が年上に見られたことがあり、彼はひどく落ち込んでいた。貴久の妻の美咲に言わせると羨ましいそうだが。


 卓朗はマンションの入り口で待っていて、助手席の柊子を見ると手を振ってきた。貴久がへえと、運転席で感嘆を発した。

「松井さんてガタイいいんだな。建築つっても設計の方だがら、もっと線が細い感じイメージしてたわ」

「私も会う前はそう思ってた」

 貴久は快活にだよなあと言いながら、卓朗のジェスチャーに従い指定の場所にバンを駐めた。柊子は車を降り卓朗の前に立った。だが彼は、運転席から降りてバンの後方に回る貴久を目で追っていた。

「私の先生の、三柴さんの息子さんで、貴久さんです。今日、駐車する場所がないと思っていまして、椅子を運んでもらったら貴久さんだけ帰ってもらうつもりだったんです」

「あ、なるほど……し、失礼しました。おはようございます」

 我に返った卓朗は慌てて柊子に挨拶をした。

「おはようございます」

「おはようございまーす」

 最後に明るく挨拶をしたのは貴久である。彼は椅子を持って出てきてくれた。

「初めまして。配送を担当しております三柴貴久です。ご依頼の椅子をお部屋までお運びします」

「よろしくお願いします」

 卓朗は少し固い顔をして、二人を先導した。マンションは三階で、エレベータもあり特に大変な作業ではない、貴久はけろりとした顔をしていた。玄関で梱包を解いて、完成した椅子を示す。

 卓朗は顔を綻ばせた。

「すごい。ほぼ同じだ」

「ありがとうございます」

「彼女、いい仕事しますよ。私の父も認めてます」

 柊子の隣で、卓朗は無言で貴久を見た。対して貴久はにこりと笑い、そして柊子に顔を向けた。

「柊子ちゃん、どうする? 駐車場もあったし、検品終えるまで、俺も下で待ってることできるけど」

 柊子は瞬いた。貴久は、普段はクライアントがいる前ではこんな内情を話すような人物ではない。とがめるべきかと思ったとき、卓朗が先に言葉を発した。

「柊子さんは俺が送り届けます」

 険も入った言葉だった。卓朗はじっと貴久を見ている。まるで視線でもう帰れと言っているかのようだった。

 一方、貴久はカラっと笑った。

「承知しました。それではお言葉に甘えまして私は先に失礼します。まあ私にとっても柊子ちゃんは妹のように大事な子なんで、そこはよろしくお願いしますね」

 貴久は失礼しますと、梱包の残りを持って玄関を出ていった。

 柊子が卓朗に顔を向けると、彼は柊子に対し顔をしかめていた。

「柊子ちゃんって呼ばせてるんですか」

「呼ばせてる、って」

「いや、済みません。あなたの自由ですよね」

 卓朗は不機嫌を隠さず椅子を持ち上げ、部屋の奥へ入っていった。

「待って下さい。検品」

「中でどうぞ」

 卓朗は顎を動かした。横柄な態度のように思えたが、両手が塞がっているので仕方がない。柊子は靴を脱いで卓朗の後に従った。

 卓朗の部屋のリビングは機能的だった。男性の一人暮らしの部屋を多く見たことはないが、彼らしいなど思ってしまった。

「お願いします」

 卓朗は椅子をベランダに続く窓の前に置いた。薄いカーテンを経て当たる明るい場所に、というより彼の部屋に名匠の椅子はよく合っていた。

 柊子は一礼して椅子の確認に入った。修理部分の詳細を、現物を指し示しながら説明する。

「腰掛ける部分が、型がついてしまっていて、少し凹んでいたので調整もしました。中に使われていた麻と馬毛は再利用しています」

「了解です」

 一通りの説明のあとで、柊子はボードごと書類を手渡した。

「ご一読のあと、ご納得頂けましたらサインをお願いします」

 卓朗は手に取り、内容に目を通していた。柊子はそのあいだ、リビングを見ていた。

「どうですかね。俺の部屋は」

「動線がしっかりしていて、さすがだと思います」

 柊子が卓朗を見ると、彼は目を見開いていた。それからふっと吹き出すように笑った。

「動線に目がいく辺り、柊子さんもさすがですね」

 笑いながらボードを渡された。卓朗のサインを見て、そして肩の力を抜いた。複写の一枚を取り、持参の封筒に入れて卓朗に手渡す。彼はまだ笑った顔のままだった。

「よかったです」

「はい?」

「卓朗さん、何か怒っておられたようだったから」

 卓朗は顔を強ばらせた。封筒を受け取り、それを傍のテーブルに置いた。

 再び部屋の空気の重さが増した気がした。

「済みません。不躾を承知でお伺いしますね。どうして彼に柊子ちゃんて呼ばせてるんですか?」

 柊子も顔を曇らせた。

「そこが分かりません。呼ばせてるって何ですか?」

「成人の女性が、赤の他人の男性にちゃん付けで呼ばれる不愉快さにあなたは気付かないんですか?」

「貴久さんが公的な場でああして発言して、卓朗さんが不愉快に思われたのなら謝ります」

「そうじゃない……いや、あなたがいいんでしたら、俺がどうこう言うのがおかしいんですけど……現にあなたは彼を貴久さんって呼ぶじゃないですか、くんではなくて」

「年上の方ですから。それに貴久さんも、私のことを昔から知ってて、もう親族みたいな感じになってるんです。貴久さんは私のこと、姪みたいな存在と思っているのではないかと」

 卓朗は鼻で笑った。

「姪? あなたが?」

「どちらかというと貴久さんと私より、貴久さんの息子さんと私の方が年が近いから」

 顎を引き、真一文字に結んでいた卓朗の口元が緩んだ。

「……え? 息子さんの方が年が近い?」

 姪と聞いたときの蔑んだような感じが消え、卓朗の問いには驚愕だけが見えた。

「貴久さん、今年で四十六歳です。卓朗さんより一回り上ですよ。貴久さんのご長男は成人しています、というか、年が明けたら成人式です」

 卓朗は足を半歩退いてから口に手を当てた。よほど意外だったのか、彼は三秒ほど固まっていた。

「俺より年下だと思ってた……」

 卓朗がかなりショックを受けている声を聞き、柊子は吹き出して笑ってしまった。

「それ、貴久さんには言わないで下さい。気にしているので」

「あ、いや……なんというか、その、すごい童顔、いや若く見えた……あ、それで大事な子」

「貴久さんと会ったのは私が十五のときだったので、そこから貴久さんはずっと私のことを柊子ちゃんて呼んでいます。……まあもちろん、三十路を過ぎた人間に対しどうかと思われるのも分かります」

「済みません」

 卓朗は手を振り、大きな息を吐いた。

「納得できました。本当に失礼な真似を。申し訳ないです」

 柊子は緩く首を振った。

「椅子はそこに置かれる予定です?」

 柊子は、修理が終え新品のようになったフィン・ユールの椅子を振り返った。朝から昼に渡ろうとしている明るい光の中で、椅子のアーム部分が輝いている。

「そうですね」

「とても素敵です」

 柊子はふふっと笑った。

「私の師匠の三柴さんが、現物の椅子を見てすごく興奮していました。貴久さんの息子さんも、家具の修繕に興味があるみたいで、おじいちゃんの……、三柴さんの講釈を真剣に聞いていました。本当にいいご機会を頂いて、感謝しています」

「とんでもないです。こちらこそありがとうございます」

 卓朗は軽く頭を下げたあとで椅子を眺めていた。

「卓朗さん、よろしければ座ってみては」

「いいんですか?」

「もちろんです。卓朗さんの椅子ですし、私も見たいです」

 卓朗ははにかみ、では失礼してと言ったのちに椅子に腰を下ろした。背もたれに体を預け、黙って前を見ている。彼はそのまま黙り込んでしまった。

 彼の恩師の姿を思い出しているのかもしれない。このまま退出した方がいいのかと思った時、卓朗が柊子の方を見た。

「この椅子に座っていた先生は、すごく貫禄があったんです」

「落ち着く椅子ですよね。教え子の卓朗さんが使われて、先生もお喜びじゃないでしょうか」

「俺にはまだ早いかと思いました」

 卓朗の言わんとすることは柊子にも汲み取れた。

「受け売りですけれど、環境が人を作ることもあるそうじゃないですか。お使いのうちにしっくりくるかも」

 卓朗は目を見開き、そして俯いて笑った。

「ありがとうございます」

 卓朗は立って、柊子に対し椅子を手で示した。

「柊子さんも座られます?」

「え」

「よろしければ」

 それからの柊子の表情の変化を目の当たりにし、卓朗は顔を綻ばせた。

「座りたいんですよね」

「それはもちろん、もちろんなんですけど」

「どうぞ」

「いいんですか……!」

 餌を前にしてマテを解除された柴犬よろしく、柊子は満面の笑顔でいそいそと椅子の前に立った。

 柊子はフィン・ユールのNo.45にそっと腰を下ろし、背もたれには体を預けず、間近で椅子の形態を見ていった。

「ここのアームのラインとか、本当に繊細ですよね」

 うっとりとした顔でアームを撫でる柊子を、卓朗はじっと黙って見続けた。

 柊子は卓朗の様子を気に留めず、背もたれに体を預け、目を閉じた。

「すてき」

 足音がした。柊子が目を開けたとき、卓朗は柊子のすぐ前に立っていた。驚き上体を前に戻した柊子の、その足下に卓朗は膝をつく。柊子の逃げ場をなくすように──柊子を囲むように椅子の、アーム部分に手を置いて、彼女を見上げた。

「柊子さん。俺と結婚を前提にして付き合って下さい」

 唖然としている柊子に、卓朗はまくし立てていく。

「もっと時間をかけて信頼してもらうべきなのですが、俺は……少しでもいいから、あなたとの確かな繋がりが欲しい」

 卓朗は顔を伏せた。

「さっきも、さもあなたの名誉のことを思ってのような事を言いましたが、結局は俺の嫉妬で、……俺以外の、柊子さんの肉親でもない男にあなたを下の名で呼ばせたくないと思っただけです」

「嫉妬?」

 柊子の囁きを聞き、卓朗は顔を上げた。柊子の驚愕に満ちた顔を見て、顔をしかめた。

「済みません。先走って」

 辛そうに顔を歪め、彼はまた顔を伏せてしまった。しかしその場を動かず、柊子を椅子に閉じ込めたままでいる。

 もっと冷静な人だと思っていた。冷静と言う言葉は正しくない気がする。もっと冷めている、いや、穏やかというべきか。

 他人に対し、執着しない人だと思っていた。

 しかしそうではない。卓朗は、激しい。

 こんなにも。

「い、意外でした」

「何がです?」

 卓朗は顔を上げた。幾分かは持ち直したようで、顎のこわばりがなくなっていた。

「私、そんな、自分が卓朗さんに嫉妬されるような人間だと思ってなく」

 卓朗は笑った。

「あなたには嫉妬していない」

「え」

「柊子さんを取り巻く男達に、俺は嫉妬してる。だから少しでもいいから、アドバンテージが欲しいんです」

「アドバン……?」

 言ってからテニスの用語だと柊子は気が付いた。そんなことはどうでもいいのに。

 柊子は首を振って、手を首元に置いた。

「私、驚いて」

 目の前でひざまずき、卓朗が柊子に、結婚を前提に付き合ってほしいと懇願している。柊子はようやく、本当にようやく状況を理解した。

 卓朗と視線を合わせられなかった。首元に手を置いたまま、目を伏せ、体を小さくしていく。

 顔が赤くなっているのを自覚した。耳が熱い。

 そうして、柊子が頬を染めていく姿を、卓朗は食い入るように見続けた。

「信じられない」

 柊子は声を震わせ、目を潤ませた。

 川口巌夫記念館を一目見て、あの建物を通して、柊子は松井卓朗というクリエイターを崇めた。

 その彼が、柊子にとって宝のような男性が、柊子を一人の人間として欲してくれている。

「あなたは、私の憧れの、雲の上のひとだったのよ?」

 卓朗は、柊子の囁きを聞き苦笑した。

「そんな、……俺は神でも仙人でもない」

「卓朗さんはそれに等しい人です」

 柊子の目の前で、卓朗は切なげに目を細めた。

「俺が仙人なら、あなたは……」

 卓朗はそこで言葉を切った。

 無言で視線を交わす、彼の真摯な瞳が嬉しく、柊子は微笑んだ。

「嬉しいです」

 目を閉じた柊子の、睫に滲んだ涙が、淡い光を浴びてうっすらと光った。

「私でよければ、お願いします」

 柊子は固唾を呑み待つ卓朗に、きちんと聞こえるように受け入れの返事をした。

 だが

「いいんですか?」

 卓朗は今になって何故か狼狽うろたえはじめた。


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