第二話 あのときのちょいワルおやじ

 桐島柊子の元に見合いの話が届いたのは、そろそろ冬に入ろうかとしていた十一月の頭頃だった。

 柊子の父、桐島康治きりしまやすじに大事な話があると電話で告げられ、柊子の叔母兼雇い主である桐島美晴の家で会うこととなった。康治より先に到着していた柊子は、美晴にお茶を淹れるように命じられた。やがて到着した康治を加え、柊子が三人分のお茶を出し座った直後に康治は口を開いた。

「見合いをしないか?」

 とうの昔に結婚しない選択をしていた柊子には晴天の霹靂であった。ただ唖然と口を開けてしまった。康治もそんな娘の反応を予想していたのか、表情を変えないままで話を進めた。

「美晴が知り合いから、いい人がいないかと持ちかけられたそうだ。柊子、どうだろう」

 美晴叔母もどうかしていると、柊子は叔母を見た。美晴もやはり、姪の反応を予測していたようで平然としていた。

「お相手の方は三十四歳。柊子より二つ上よ。私の知り合いだからだいたい察しも付くと思うけど、建築の仕事をしておられるわ」

「どうして私なの」

 比較的しっかりとした声で返事ができた。しかも一番聞きたいことを聞けたことにも、柊子は我ながら驚いていた。

「相手の方の最初の条件で、会う前に必ず確認してほしいことがあると仰ってるのよ。彼は就職してすぐ煩ったご病気のせいで、子供をつくることが難しいそうなの。そもそも子供が欲しいと思っておられないのよ」

 柊子は目を見開いた。

「それを踏まえた上で、会ってもいいって方を紹介してほしいとのことなのよ」

 それは傷の舐め合いなのかと、そういう考えが脳裏をよぎった。思ってから自分の考えに自分で傷付き、柊子は視線を下に落とした。

 さもあろう。こんな自分であるから、父も叔母も行く末が心配なのだろう。

 私は、兄や姉のようにはなれない、いつまで経っても一人でフラフラとしている。

 柊子は深呼吸をした。

 叔母はともかく、父は気弱になっているのだろう。結婚できるなど微塵も思っていないが、したくないわけではない──のだろう、おそらく──意識に全くなかっただけだ。万に一つということもある。見合いをして、運良く結婚までこぎつけなくとも、そういう意思はあると父に示して安心させてやるのも親孝行の一つなのかもしれない。

「会ってみる」

「そうか」

 康治は背もたれに体を預けた。それと分かるほどほっとした父の顔を見て、柊子はそれだけでも会うと言ってよかったのかもしれないと思えた。

「相手の方は松井卓朗さんよ」

 叔母の口からさらりと告げられた名前に、柊子はそれが誰なのか、最初は思い出せなかった。名前だけ言われても、と眉をひそめたのち、はっと気付いて大口を開けた。

「え、……まつい、たくろう、さん?」

 対峙の二人はうなずく。

「あの?」

「その松井さん。私と一緒に今年、大野賞を受賞した松井卓朗さん」

 柊子は硬直し、そして口に手を当て、それを滑らせ首に添えた。

「う、うそでしょ?」

 狼狽え真っ赤になった柊子を見て、康治と美晴は同時に失笑した。



 かつて川口巌夫という画家がいた。一人息子を病で亡くし、以来、彼は夫婦と息子、または父子の絵を描き続けた。

 すでに鬼籍である川口巌夫は、一昨年で生誕百年を迎えた。その記念の年に合わせて彼の作品を展示する川口巌夫記念館が建てられることとなった。

 その川口巌夫記念館のデザインをしたのが松井卓朗である。

 公益施設、特に文化系の建築に強い大手ゼネコンO社が記念館の建設を手がけるだろうと予想されていたが、入札を経て施工を担うことになったのはS社という結果になった。建造デザインを見た関係者が、是非にS社にと希望したそうだ。

 川口巌夫の遺族を以てして「最も川口の想いを理解している」と言わしめた川口巌夫記念館は、昨年の百周年合わせて完成した。川口巌夫の作品の愛好家たちからも高い評価を受けている。

 そして今年の秋、優れた建築や建造物の作家に贈られる大野賞に、くだんの建設に携わった関係者として、設計担当の松井卓朗も選ばれたのだ。

 柊子は川口巌夫の絵のファンだ。輪郭の乏しい、鮮やかな色彩の絵は優しさと切なさに溢れ、柊子の心も癒やしてくれた。

 記念館に何度も通い、敷地内の隅にあるベンチにいつも腰掛け、季節毎、日ごとの絵と建物を眺めてきた。

 一度、叔母を川口巌夫記念館へと誘ったことがある。美晴も興味津々で見ていた。そして柊子の興奮した説明を覚えていたのだろう。

 美晴は家具デザインの部門で大野賞を受賞したのだが、受賞式後の懇親会で美術館のデザインをした人物、つまり松井に会ったと話してくれた。

 柊子はそれを聞いた日、羨ましすぎて夢にまで見た。だがまさか彼らがその場でそんな話をしていたなど、さらに、そこから自分に縁が繋がるなど思いもしなかった。


 秋の吉日。晴れた日だった。

 柊子は今から、彼女が愛していると言っても過言でないあの空間を造り上げた建築家、松井卓朗に会う。

 ガチガチに緊張している柊子に、仲介というのか仲人というのか、共に来ていた美晴が半笑いで声をかけた。

「会って話すだけじゃない。そんなに緊張することなんてないでしょう」

 それはそうだろう、叔母は当事者でないのだからと思ったが、柊子には口に出す余裕もなかった。

 どんな格好をすればいいのか分からず二十年来の友人に相談したが、いつもの格好でいいじゃないとさらっと返された。突き放されたとショックだったが、自分なりに調べてみると、なるほどいつもの格好とそう変わらない、気がした。

 出掛ける前も、何度も鏡で自分の格好を確認した。白のニット、若草色のフレアスカート、クリーム色の薄いコート、茶色のローファー。ワンポイントだけの控えめな、揃いのイヤリングとネックレス。肩より少し下に揃えられた髪。

 おかしいところはないかと美晴に聞き、いつもと同じじゃないと返され、着替えた方がいいかと聞くとそんな時間はもうないと言われた。

 待ち合わせの、ホテルのラウンジに入るなり美晴が手を振った。

「もういるじゃない。松井君」

 手を振りながら進む美晴の先に三十過ぎくらいの男が、ソファから立ち上がり美晴に会釈した。

「……うそ」

 柊子は立ちすくんでしまった。


 川口巌夫記念館内、作品展示室冒頭に川口の自画像がある。家族の絵とは違って渋い色合いだが、タッチは優しく哀愁もある、彼の作品の持つ雰囲気を持った絵だ。

 柊子は、松井卓朗氏もそんな人なのだろうと勝手に想像していた。釣書に写真がなかったので仕方がない。美晴が写真を忘れていたみたいよと後で教えてくれたが、柊子はお忙しいのだろうと流していた。

 だが、松井卓朗の外見は全く穏やかそうでも寂しそうでもなかった。

 上背があり肩幅もがっしりとしてやわなところがない。短く切った髪に日焼けもして浅黒い肌、そして厳つい顔をしている姿は、建築デザイナーというより施工の現場にいてもおかしくなさそうだ。

 ネイビーブルーのスーツを着て立っている姿は、ドラマに出てくる刑事のようにも思えた。

 あのときと同じ感想をまた抱いた。

 松井卓朗氏は、某日川口巌夫記念館の片隅のベンチで柊子に話しかけてきたかの男性だった。

 どうか私に気が付かないでと柊子は願ってみたが、彼が唖然とした顔をして、柊子をまじまじと見つめているのを真正面から見て、そんな願いなどあっけなく足蹴にされたと悟った。

 固まっている二人、見ようによっては会って早々無言で見つめ合っている、しかも何やら通じ合っているかのような彼らを美晴は見て、「あら」とのんきに微笑んだ。

「知り合いだったのね。じゃあ私はもういる必要はないわね」

 言うなり手を振ってさっさとラウンジから出てしまった。えっと声を上げた柊子と卓朗は美晴の背に視線をやり、そして再び顔を見合わせた。互いに途方に暮れた顔をしていたが、卓朗が先に我に返った。

「失礼しました。あの、こちらに」

 卓朗がさっきまで座っていた一席を示された。柊子はぎくしゃくとうなずいて、そして席の位置に迷った。

 四人がけの席の、さっき卓朗が座っていた席の対面に座ると彼から遠いような気がする。なので斜め横の席に座ることにした。卓朗はわずかだけ足をためらわせ、最初に座っていた席に腰を落ち着けた。やがてウェイターがやってきて柊子は紅茶をオーダーした。

 ウェイターが去ってからお互いに頭を下げた。

「松井卓朗です」

「初めまして。桐島柊子です」

 震えてこそなかったが、弱々しい自分の声に幻滅し、柊子はいきなり帰りたくなった。

「初めまして、ではないですよね。川口巌夫記念館のベンチで、『山へ』の話をして下さった方ですよね?」

 柊子のちっちゃな抵抗は全く功を奏していなかった。無慈悲とも言える卓朗の単刀直入な問いに対し、柊子は両手で顔を覆った。

「あれは、忘れてくださいい……」

 今度こそ柊子の声は震えて最後は掠れて消えた。目を閉じたまま顔を見せないように頭を下げた。

「本当に、申し訳ありませんでした。お詫びします」

 次はもう少しましな謝罪の声が出た。

「どうして桐島さんが謝るんです。それに、あれからずっと気になってたことがあるんです」

 卓朗の声に怒りが感じられず、柊子は恐る恐る顔を上げた。彼は声のトーンと同じく緩やかな表情をしていた。ただし柊子の顔をじっとみてくる。

「桐島さん、あのときちょいワルおやじがどうのと」

 柊子はもう一度顔を手で覆った。

「美術館で、一人で絵を見に来ている女性に話しかけて蘊蓄を述べナンパしようとする男の人の……、そんな記事があったじゃないですか。私、そのまんまなことやってしまって」

 卓朗の「え」という引いたような声を聞き、柊子は背筋を凍らせた。手を下ろして卓朗に顔を向けた。

「違います。私は松井先生をナンパしようと思ったわけじゃないんです!」

「おれ……私を、ナンパ?」

「違うんですほんとうに。あのとき、あのベンチで見た光景が絵を模してるんだなって気が付いて、それが嬉しくてつい誰かに自分の思ったことを話したくなってしまって……あああやっぱりあれは忘れて下さい!」

 釈迦に説法をしてしまった。そもそも柊子の考察は正解であるのかすら怪しい。恥の上塗りどころでなく、恥の三段重である。顔を手で覆うのもすでに三度目だ。

「ごめんなさい本当に。……もう帰りたい」

「それは待って下さい」

 柊子の斜め前で卓朗は顔を伏せ手で口を覆い、ひとつ咳払いをした。一旦前を向き、だがまた斜め下を向いた。再度顔を上げたが口を歪ませていて、口に拳を添え咳き込むような真似をした。

「すみま……せん」

 どうも卓朗は何かを堪えているらしい。何かというか、笑いを。

「本当に、す、済みません」

 懸命に表情を引き締めようと頑張っている姿を見て、柊子はますます申し訳ない気持ちになった。

「とんでもないです。こちらこそ失礼な真似を……決してあのとき、先生の連絡先が知りたいなど、まして焼肉屋さんに誘おうなど思ったわけではなく」

 とうとう卓朗が顔を背けた。柊子の座る方向とは逆に背を曲げた彼の横顔を、その笑顔を柊子は見続けた。

 正面で笑った顔が見たかったと思いながら、柊子は黙って卓朗が落ち着くのを待った。

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