セイレーンの家

前原よし

第一章 桐島柊子

第一話 モネの召喚を望む女

 歴史上の人物を誰でも連れてきますと言われたなら、今はフランスの画家クロード・モネを選ぶ。


 モネはルーアン大聖堂を描いた連作を残している。彼は大聖堂真正面の家屋、二階の部屋に数枚のキャンバスを設置した。早朝、一番端のキャンバスから制作を開始する。朝の大聖堂をまず描き、一定の時間が経過すると隣のキャンバスへ移動し、次は昼の大聖堂を描いた。

 残された作品により現代の我々は、朝の光の静謐、昼の鮮やかさ、黄昏の活気と退廃、同じ構図でありながら、光と影で表情を変えていく大聖堂の美と遷移が堪能できる。


 桐島柊子は川口巌夫記念館にあるベンチに腰掛け、かの画家に今、ここで同じ事をやってほしいと願っていた。

 敷地の片隅にあるベンチに気付いたのは偶然だった。何故あんな場所にと興味を惹かれ足を運んで腰掛けた。意図を理解し、にんまり笑みを浮かべてしまった。

 なるほど、記念館内に展示されている、ある一枚の絵の構図を模しているのだ。

 それから柊子は小一時間ほど腰掛けたままでいる。暖かい春の日差しの元、持参していた日傘を差し、絵画の景色を眺めていた。

 まだいたい。可能な限りここに居続けて、傾きゆく陽の元の姿、そして夕焼けに染まる光景も見たい。できるわけはないが夜の灯りを背景にしたものも。そして早朝のひかりを浴びたものも。

 美術館から正門までの道を何人もが通っていったが、誰もこちらに気付いていないようだった。

 代わってほしいと言われるまで居続けようと思っていた。ただしそろそろお茶を飲みたい。ペットボトルを買いに行こうかしら。そんなことを考えていたとき、一人の男性が美術館から柊子の元へゆっくりと歩いてきた。

 上背のある、少しがっしりとした体格のひとだった。ピンストライプの背広と揃いのスラックス。シンプルなボーダーのネクタイという格好は、ドラマで出てくる刑事のような雰囲気がある。とがめられるのかと柊子は慌てて立った。

「失礼。どうかしましたか?」

 座っていて構わないというジェスチャーをされたが、柊子は立ったままで遠慮の意味の手を振った。

「何でもないです。ここから美術館を眺めているのが楽しいので座っていただけです」

 彼はわずか表情を緩めた。

「楽しいですか?」

「はい」

 柊子は手を伸ばし、美術館の傍に立つ一本の若木を指さした。

「あそこに木があるでしょう。あれは息子さんですよね」

 柊子は脳内で、先ほど美術館内で見た一枚の絵を思い出しながら指を美術館へ向けた。

「そしてあそこが生家。川口巌夫先生の代表作『山へ』の構図と同じで」

 柊子は隠された秘密を知ってしまった勝利者の笑みを浮かべた。

「あれが木なのが素敵だなって。川口先生は、大きくなった息子さんを描くのは彼への冒涜になるって仰って、一枚も描かれなかったそうで。でも、生きていてほしいと思っていたに違いないんです。最も先生が見たかったに違いないんです。ご本人ができなくて、他人なら叶えられることもあるじゃないですか。それがああして、これから成長していく木で表されているのが素敵だって思いました」

 滔々と述べたあとに柊子ははっとした。隣の男は目を眇め、やや険しい顔をしていた。

「済みません!」

 柊子は肩を緊張させ、日傘の柄を両手で握りしめた。

「私ってばちょいワルおやじみたいに」

 男は目を見開き、言葉を失ったように口を開けた。

「失礼しました!」

 柊子は彼の隣を大慌てで通り過ぎ、正門まで駆けた。


 後ろから男が呼びかけようとして、しかし躊躇ためらって手を下ろした。彼は柊子の姿が門の向こうに消えるまで、彼女の背を見つめ続けていた。

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