第三話 下の名を呼ぶ

 一分ほどで卓朗は再び柊子に向かい会った。

「失礼しました」

 彼は少し怒ったような顔と声をしていた。羞恥かもしれない。

「仕切り直しさせてください。松井卓朗です。今日は会って下さってありがとうございます」

「私こそ、松井先生にお会いできて光栄です」

「先生はやめて下さい」

 そう言われても、彼は柊子にとって通常ならば手の届かない巨匠である。先生とくらい呼ばせてほしいと思ってしまう。

「柊子さんは」

「はいっ?」

 いきなり下の名で呼ばれると思わなかった柊子は、裏返った声で返事をした。初めて卓朗と正面で、静かに顔を合わせることができた。

 彼は怜悧な目をしている。射貫かれると動けなくなってしまいそうな緊張感がある。

ひいらぎを『とう』と読ませて柊子というお名前なんですね」

 自分の名前のことに触れられ柊子は身構えた。

「はい」

「柊子さんのお父様が付けられたんですか?」

 柊子はおずおずと、警戒しながらうなずく。

「やっぱり。さすが施工会社の社長というか、いい名前ですよね」

 思いもしなかったことを言われた。

「……いい?」

 卓朗はうんうんと首を縦に振っている。

「いいですよ。家を守る柊が名前に入っているって洒落てるじゃないですか……私に娘ができたなら是非真似たいくらいでした」

 過去形。彼は視線を空に浮かせた。言葉の中に懐古──この先、得られないものへ一抹の憧れと拒絶──かつて醜いものを美しいものだと信じて疑わなかった、自身への若さへの自嘲などという、難解なものを含ませている。

 それなのに、他者の抱く美意識への賛美は惜しまないのだ。

 己を嗤いながらも、父の願いは理解する。ものすごく複雑なひとなのだろうと柊子は感じた。

 かつ、柊子の呪いのひとつを簡単に解いてしまったひと。

 こんな男の人もいるのだ。柊子は泣きたくなった。


「不躾なのは承知なのですが」

 少し固い声で話しかけられ、ぼうっとしていた柊子は現実に戻ってきた。

「は、はい?」

「今日、私と会って下さったということは、こちらの事情はすでに承知なんですよね?」

 卓朗は声と同様の緊張した顔をしていた。

「済みません。重要なことなので一応確認です」

「はい。聞いています……わ、私もそうなので」

 卓朗はえっと眉を上げた。

「私もそう?」

「わ、私も、子供が……、私も、中学生のときに病気をして、それで子供が産めないので」

 そこで沈黙が流れた。

 ラウンジの、他のお客の団らんの声がやけに煩く柊子に聞こえた。言うべきではなかったのかと思い、柊子は視線を自分のカップに合わせた。

「そういうことでしたか」

「はい?」

 顔を上げると卓朗は何かを納得したような顔をしていた。

「いや、失礼しました。私が桐島美晴先生に、いい人がいたら紹介して下さいってお願いをしたときに、先に私にはこういう事情があると伝えたんです。そしたら先生が「ならなおさら姪がちょうどいいわ」って仰ったんです。なおさらってどういう事だったのかと思っていまして」

 柊子は口をへの字にした。

 叔母は全くなんということを……と思うなか、卓朗が先を続けた。

「言いにくいことを言わせてしまいました。申し訳なかったです」

「そんなことはないです」

 柊子は慌てて、手を振りながら言い添えた。

「松井せ……卓朗さんこそ、すごく誠実な方なんだなって思いました。なんというか」

 目を見開いている卓朗に気付かず、柊子は視線を逸らせたままで脳内の語彙を一生懸命に検索した。

「えっと……尊敬しています」

 わずかの沈黙ののち、卓朗が口元に手を当て、笑いを堪えているような挙動を取った。柊子も言い終えたあとから、妙な言いようになっていたことに気付きこのまま消えたい気分になっていた。

「先に、きちんとご自身のことを、……えっと、その、とにかくフェアな方で素晴らしいなって思って」

 焦りでだんだん言葉が出なくなってきて、柊子は最後には尻窄しりつぼみな声量で言及を終えた。

 同じ内容を言い換えて言っただけじゃない。しかもやっぱり伝わっているのかよく分からない内容だ。柊子は内心で自分を責めた。

「ありがとうございます。……私も、桐島さんのことを柊子さんと呼んでもいいですか?」

「は……え?」

 いいですかも何も、さっきそう呼んだではないかと、柊子に湧いた疑問がそのまま顔に出た。

「ああ、そうか。紛らわしかったですね。柊子さんからしたら、私が先にあなたの下のお名前で呼んだことになっているんですね」

「……あ!」

 卓朗は先ほど「柊子」の名について話をしたのであって、柊子自身に呼びかけたのではなかったのだとようやく気付いた。

 柊子は彼に合わせたつもりだったのだが、卓朗からしたら柊子の方が先に名を呼んだことになっているのだ。

「ご、ごご、ごめんなさい。あの」

「こちらこそ失礼しました。そうですよね。私が先に馴れ馴れしい真似を」

「と、とんでもない、です」

 柊子は目をぎゅっと閉じて項垂れた。

 さっきから彼に変な部分ばかり見せてしまっているような気がする。

「柊子さんは桐島先生のアシスタントをされていて、確か3DCADも操作されるんですね」

「はい」

 いきなり仕事の話をされたが、柊子にはそちらの方が気が休まった。

「叔母の仕事に必要なので」

 美晴は家具デザイナーである。今年、美晴が取った大野賞は家具部門だ。昔は彼女自身が手書きで設計図を書いていたが、それに割く時間が取れなくなってきたことと、データ化の波に彼女が乗れなかったため、美晴は柊子に覚えさせた。

「それから、家具の修理をされているって、釣書に」

 少しでも卓朗に興味がありそうなことは全て書いたつもりだったが、それをきちんと読んでくれていたのだ。柊子は嬉しくて顔を綻ばせた。

「そうなんです。叔母の紹介で、既存の家具の修理という仕事もあると知ったんです。叔母のアシスタントをしながらそちらも手がけています」

 卓朗はしばし黙って柊子の顔を見続けた。見つめられ気まずくなり、紅茶を飲んだ。カップを置いたとき、卓朗は失礼と言って鞄からタブレットを出してきた。

「フィン・ユールの椅子はご存じですか?」

 北欧の老舗家具の一つだ。柊子はマタタビを見せられた猫よろしく話題に飛びついた。

「はい。腰掛ける部分が浮いているように見える、独特のデザインですよね。洗練されて格好いいんです。私の好きなシリーズの一つです」

「さすがですね」

 言いながら卓朗はタブレットの画面を柊子に見せた。

「ああ」

 写真にあったのはまさにフィン・ユールのNo.45だった。背もたれの一部が破れてしまっている。

「柊子さんの仰る通り、肘掛けの部分がシャープで、座る部分が浮いたフォルムで、すごくいい」

「フィン・ユールは元々建築を学んでいたそうです。卓朗さんがシンパシーを感じるのもそのせいかもしれませんね」

「そうなんですね」

 卓朗は顔を輝かせ柊子を見た。

「直せますか?」

「はい?」

「今は私が所持しているんです。知人が持っていて、廃棄しようとしていたのを貰ったんです。柊子さん、可能ならこれを直してほしいんです」

 柊子は口をぽかんと開けたあとで、首元に手を置いた。

「うわ……」

 笑顔になっていく柊子を、卓朗がその変化を見逃すまいとばかりに見つめ続けた。

「ぜ、是非。……すごい」

 柊子はあたふたと鞄を探り、念の為にと常備している名刺を出した。

「あ、あの、具体的なお見積もりは現物を見なければ出来ないのです。場所と日にちを指定して頂ければ向かいます」

 柊子ははっとして姿勢を正した。

「あ、あの、私の腕が信用できないようでしたら、これまでの実績をお見せすることもできますし、それからのご依頼でも全く問題ないです」

 卓朗はどこかしら含みのあるような笑みを浮かべた。

「信用していなくはないですが、柊子さんの作品は見たいです」

「は、はい。あの、と言いますか、私、実物を見るだけでも見たいと思う、です、あ、いや、思います……すごい」

 テーブルの上の、タブレットの写真を惚れ惚れと見る柊子に視線を置きながら、卓朗も鞄から彼の名刺を出した。

「私の連絡先もお伝えします」

 そして携帯電話の番号とメールアドレスを書き足した。

「こちらが私用です。この電話から連絡します。差し支えなければ柊子さんのご連絡先もお伺いしていいでしょうか?」

「はい」

 卓朗から戻された自分の名刺の、代表の電話の下に柊子は携帯電話の番号を書き加え、もう一度卓朗へ渡した。

 それから柊子は頭を下げ、卓朗の名刺を両手で恭しく取った。

 大手ゼネラル・コントラクターの社名と、第一級建築施工管理技士の肩書きがある名刺──憧れの人物のそれを、柊子は幸福のため息をつきながら眺め、丁寧に手帖にしまった。

「お待ちしています。まさか現物を見ることができるかもしれないなんて思いませんでした。あるところにはあるんですね」

「全くですね」

 卓朗の同意が得られたのが嬉しく、柊子は卓朗に笑顔を向けた。彼は柊子の顔を見つめてから、シンクロしたように微笑んだ。

 柊子の、膝の上の手がぴくりと揺れた。

 念願の、彼の笑顔を正面から見てしまった。待ち望んだそれを目の当たりにし、柊子は見惚れ、顔をわずか赤くした。

「卓朗さんは、絵が、お好きなんですね」

 場を繕うように、柊子も卓朗に倣って釣書の内容を持ち出した。少々唐突だったが、彼はうなずいて話を始めてくれた。

「絵がもともと好きだったんです。小学生の頃は画家になりたいと思っていました」

「どうして建築の方へ?」

「中学生のときに、どうも画家で食っていくにはかなりの才能がないと駄目らしいと分かってきたのがまずあったんですが。その頃に見た世界の有名建築物の写真集を見て、こういう建物を造りたいって思ったのが最初ですかね」

 卓朗少年が、写真集を食い入るように見る光景、それは是非見たかった。

「川口先生の絵をお知りになったのはいつでした?」

「最初に観たのは小学生の時の、遠足だったかバス旅行だったかな。その頃は筆のタッチが好きだって程度だったんですよ」

「へえ」

「……でも、二十四のときに病気を患って、子供を得るのが難しいと分かって。担当してくれた医師に告げられた直後にはまだピンと来なかったんですが。しばらくして川口巌夫の絵が観たくなって足を運びまして」

 卓朗は目を伏せた。

「彼の描いた父子像を観て、なんというか、そこでようやく自分のなくしたものに気が付いた、そんな感じでした」

 柊子は僅かに口を開け、しかし黙って卓朗を見続けた。

 また、彼は視線に複雑な色を乗せていた。懐古と嫌悪。

 彼がなくしたものというのは、こどものことではない気がする。いや、恐らく彼は、柊子にはこどものことを言っているつもりだ。だが、卓朗が本当に失ったものはそれではない、そんな気がする。

 何故か分からないが、卓朗がなくしたというもの、それが理解できるわけがないのに、まるで自分も彼と同じものをなくしたような気さえした。

「ご遺族の方が、松井さんのデザインが、画家川口の想いを最も理解してくれているって仰ってましたね」

「そうじゃないと思います」

 卓朗の返答が意外だった。柊子は視線を空に置いたままの卓朗を黙って待った。

「むしろ、川口先生が俺の気持ちを汲んでくれた、そんな気がしました」

 静かな表情だった。

「柊子さんは、いつでしたか?」

 表情のまま、落ち着いた問い。だが、何か大切なものを聞き逃さないとばかりの真剣な表情に、柊子の口が自然と開いた。

「友達に誘われて、大学のときに美術館に行ったのが最初だったんですけど、そこから絵画とか、ポスターとか絵本の絵の鑑賞もいいなと思うようになったんです。その流れで川口先生の絵も知りました。大学に入って一人暮らしをしていたのもあったのかもしれません。切ないけれど家族の絵も素敵だと印象に残りました」

「ご家族と仲良しなんですね」

「え?」

 卓朗は観察するように柊子を見つめていた。

「一人暮らしを始めたときに印象に残ったって仰っていたので、そうかなと思いまして」

「どうでしょうかねえ。普通だと思います」

 柊子は父や兄、姉の顔を思い浮かべていく。

「柊子さんのお母様はお亡くなりになっているそうですね」

「はい、中学生のときに」

 続きを言いかけ、柊子は言葉を詰まらせた。卓朗は驚いたような声を出し、そして眉をひそめた。

「柊子さん自身のご病気もあって、大変だったでしょう」

 気まずさは少々あるものの、裏も含みもない、純粋な労い。

 ああそうか、そういう反応もあるのか。柊子は強ばらせていた肩の力を抜いた。

 もう二十年ほど前になるというのに、未だに中学生だったときの話題になると緊張してしまう。大人になりきれていない証拠のようで、見合いをする歳だということも重なり、自分が情けなくなるばかりだ。

 話題を変えたく、柊子は卓朗に、他にはどんな絵が好きなのかと話を振った。

 卓朗の話を一通り聞いている途中、彼はカップを持ち上げ、自分のそれが空であったのを忘れていたような挙動をした。そこから彼は黙った。

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