第5話

 室内にはベッドが二つ、窓際にテーブルと椅子、照明がある。バスルームは風呂、トイレ別だがバスタブは無い。窓を開けると隣のビルの壁に設えられた室外機から熱気が吹き込んできた。

「こりゃひでぇ」

 竜二は直ぐさま窓を閉める。使い込んだ帆布のリュックをベッドに放り出し、曹瑛の方を振り向く。


「お前はこっちだ」

 ベッドの場所に凝りなどない。曹瑛は荷物をテーブルの端に置いてベッドに腰掛ける。白い清潔なシーツにスプリングの効いたベッドは宿舎の粗末な寝台とは雲泥の差だ。枕はふかふかでこんなところで眠ったらもう起きられないのではないか、という不安が胸を過ぎる。


「年寄りでトイレが近いとか、そういう理由じゃねえからな」

 竜二の言葉の意味が分からず、曹瑛は首を傾げる。しかし、ベッドの位置関係を確認して合点がいった。竜二のベッドはドアに近い。もし侵入者が押し入ってくるなら隣の建物と密接している窓ではなくドアからだ。竜二はそれに備えて危険なドア側のベッドを選んだ。

 ぶっきらぼうだが、竜二はいつも冷静に物事を観察して的確な判断を下す。


「一服させてくれ」

 竜二は窓際の椅子に腰掛け、手に馴染んだ真鍮のジッポでタバコに火を点ける。うまそうに紫煙をくゆらせ、煙をくすんだベージュ色の天井に向かって吐き出す。

「この後飯食って、そのまま下見にいくぞ」

 竜二はフィルターを弾いてガラス製の灰皿に灰を落とす。


「下見って」

覇火はかが任されている麻薬工場だ。湾岸沿いの浜海新区にある」

 竜二は地図を指差す。浜海新区は渤海湾沿岸の天津港に位置する新興工業地帯だ。2000年代に開発が始まり、急成長を続けている。巨大工業地帯のベッドタウンとして人気のエリアで高層マンションが立ち並ぶ。


「電子部品や自動車部品の工場がひしめいている。覇火はそれを隠れ蓑に麻薬工場を堂々と運営している。港も近い。大型タンカーで上海や大連にドラッグを運ぶにも最適だ」

 竜二は忌々しそうにふうと息を吐いてタバコを揉み消した。換気の悪い部屋にタバコの匂いが立ちこめる。

「今回は下見だ、手ぶらでいい」

 竜二はそう言いながらリュックから取り出した刃渡り20センチのナイフ、ランドールM18を腰に潜ませた。


 ホテルを出て日の当たらない裏路地を進む。

「ここは観光地だ、表通りには小綺麗な店が多いが味はイマイチ、値段が高いばかりだよ」

 竜二は肩を竦める。灰色のコンクリート製の建物の間を縫って到着したのは、地元住民で賑わう小さな食堂だ。

 オープンテラスというには不格好なプラスチック製の椅子や木箱を軒下に並べた席と、店内は円卓、四人席が六つ。パラソルの下では巨大な蒸籠に大量の包子を蒸していた。


 食欲をそそる匂いに曹瑛は唾液を呑込む。ちょうど会計を済ませて客が出て行った。竜二は片付けもしていない席に座り、メニューを開く。

狗不理包子こうぷりぱおずって聞いたことがあるか」

「犬も食わないってことか」

 奇妙な名前に曹瑛は眉根を顰める。


「狗不理包子は天津名物で、こんな由来がある」

 竜二の話は続く。

 清朝末期、天津市にいた狗子という男が包子屋で働くことになった。彼は包子作りの技術を熱心に学び、自分の店を出すまでになった。店は繁盛し、あまりにの忙しさに狗子は客と一切話をせず包子作りに精を出した。包子を作るときには誰も相手にしない、ということから「狗不理包子」と名付けられたという。


「西太后も絶賛したって話だ」

 曹瑛は真剣に竜二の話を聞きいっている。

「竜二さんは博学だな」

「まあな、ってそんな顔で見るな照れるぞ。お前の後ろだ」

 竜二は気恥ずかしそうに頭を掻いて、感心しきりな曹瑛の背後を指差す。店の壁に狗不理包子の由来が絵巻として書かれていた。


「何が食べたい」

「何でもいい」

 曹瑛の素っ気ない答えに、竜二はそれ以上何も聞かず手を上げて店員を呼ぶ。

「服務員」

 狗不理包子と野菜料理は空心菜炒め、酸辣土豆丝、肉料理は葱爆羊肉を注文した。ビールにしたいところだが、と言いながら竜二はジャスミンティーを追加する。店員は大皿を引き上げ、雑にテーブルを拭いた。


「この後はどうする」

 曹瑛は午後からの下見が気になるようだ。

「車を手配してある。ここから高速道路で約50分てところだ。そうだ、お前が運転するか」

「やったことがない」

 竜二の突飛な提案に、曹瑛は驚いて切れ長の目を見張る。

「何事も学習だ、行きは手本を見せてやるよ」

 竜二は口元を吊り上げて笑う。帰りは運転しろということか。この男はどこまで本気なのだろう、無茶苦茶な提案だ。


 店員が大きな蒸籠を持って来た。蓋を取るともうもうと蒸気が上がる。狗不理包子だ。小ぶりな十六個の包子が入っている。他の料理もどんどんテーブルに並ぶ。

「見た目はその辺の包子と変わらないな」

 竜二は早速包子をひとつ口に放り込む。

「うん、美味いぞ」

 武骨な髭面で満面の笑みを浮かべる。しっとりした皮に濃厚な肉汁、生姜の隠し味が効いている。


 曹瑛も包子に手を伸ばす。口に含めばジュージーな肉汁が溢れた。閉じ込められた養成所で腹を満たすために食べたパサパサで具材も貧相な包子とは大違いだ。

「狗不理包子は襞の数が十八と決まっている」

 通りがかった店員がうんちくを語る。観光地には狗不理包子の専門店があるが、うちの主人の包子は絶品よ、と愛想良く笑う。


 十六個あった狗不理包子はあっという間に無くなった。大皿料理も綺麗に平らげた。

「中国には天津飯は無いんだな」

「天津飯ってなんだ」

 竜二のぼやきに曹瑛が反応する。聞いたことのない料理だ。

「中国でいう芙蓉蟹フーヨウヘイ(かに玉)を飯にかけて食べる」

 ご飯かに玉ととろとろのあんをかけて食べる日本独自の料理だという。


「日本にいた頃、東京の神保町にある中華料理屋の天津飯が滅法美味くて、それを食べによく通っていたよ」

 懐かしそうに話す竜二の顔を曹瑛は静かに見つめている。この男はなぜ日本を捨てて中国で暗殺業を生業にしているのだろう。曹瑛は彼のことを何も知らないことに気が付く。

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