第4話
組織の監視下から離れ、列車に乗って知らない街へ向かっている。竜二はある意味お目付役かもしれない。それでも良かった。これまでは宿舎とターゲットの居場所を車に乗せられて往復するばかりだった。
曹瑛は初めてささやかな自由を手に入れた。乱雑な列車の揺れとこれまでにない高揚感に曹瑛の眠りは浅かった。
恨んでいるか、と竜二は訊ねた。何と答えたら良いのか曹瑛には分からなかった。一二歳のとき、彼の鮮やかな仕事ぶりを目にした衝撃は忘れられない。
この男から実戦を学びたい。曹瑛は初めて自分から何かを強く望んだ。
向かいのベッドの若い男が遠慮なしにカーテンを開けた。煤けたガラスから眩しい朝日が車内に差し込んでくる。曹瑛は眠い目を擦りながら半身を起こす。振動と薄っぺらいマットレスのおかげで背中がひどく痛んだ。目的地はまだだろうか。下段で寝ているはずの竜二の様子を見ようとベッドから身を乗り出す。
そこに竜二の姿は無い。まさか、また置き去りにされたのか。
曹瑛は慌ててベッドから飛び降りる。通路に出ようとしたところで竜二の姿を見つけた。竜二は手にした王老吉の缶を曹瑛に投げて寄越した。
「あと二時間ほどで着く。まだ寝てていいぞ」
竜二はそういって靴を履いたまま身を投げ出すようにベッドに横になり、ミネラルウォーターを一口飲んで本を読み始めた。
「置いていかれたと思ったか」
竜二は呆然と立ち尽くしたままの曹瑛の顔を見てニヤリと笑う。曹瑛は不安な心を読まれたことに気恥ずかしくなり、鉄製の梯子に手をかけてベッドの上段に飛び乗った。
「お前はパートナーだ。ヘマしない限り置いていかねえよ」
パートナーと言われ、曹瑛は目を見開く。くすぐったい気持ちを誤魔化すように唇をへの字に曲げる。
王老吉は菊花やスイカズラなどの漢方をミックスしたいわばハーブティーだ。独特の風味とあんずのような自然な甘さがクセになる。口に含むとその甘さに思わず頬が綻ぶ。訓練所の食事は味気ないものだった。
「気に入ったか。子供には甘いモンがいいだろうと思ってな」
「子供扱いするな」
曹瑛の不満げな呟きに、竜二はくつくつと笑う。
車窓から見える景観ががらりと変化してきた。灰色の高層マンションが建ち並び、高速道路が線路に併走している。列車は天津駅に到着した。長旅を終えた乗客たちはやれやれと大きなスーツケースを手に列車を降りていく。
初めて見る駅の賑わいに曹瑛は目を左右に泳がせる。巨大な観光看板には見たことのない風景が並んでいた。雑沓に揉まれて竜二とはぐれそうになり、慌てて後を追う。
天津市は北京や上海と同じ中国中央政府の直轄市だ。渤海湾岸に面し、華北最大の貿易港があり首都北京の海への門戸となっている。二十世紀初頭には対外貿易港としても栄え、租界ができて国際都市となった。現在では国内外の巨大企業の拠点として発展している。
天津駅前ロータリーのタクシー乗り場へ向かう。タクシー待ちの客が長蛇の列をなしているが、ピストン輸送で配車されるので待ち列はどんどん解消されていく。見上げる空は薄曇りで太陽は薄いヴェールを被ったようだ。工場が多いためだろう。空気は埃っぽく、視界は霞んでいる。
丸刈りに黒いジャンパーの男たちがタクシー待ちの客に向かって声を張り上げる。白タクというやつだ。
「白タクってのは無許可の個人タクシーだよ」
時間のない者は少々割高でもこうした白タクを利用することがある、と竜二が教えてくれた。しかし、保険に加入していないことやメーターが無いことからトラブルに発展することもあるので知り合いのツテでもなければ利用しないという。
ようやく順番が回ってきてタクシーに乗り込んだ。竜二はきれいなイントネーションの中国語でドライバーに行き先を告げる。
「五大道はな、旧イギリス租界で天津の有名観光地だ」
観光地の宿に滞在して調査を行うという。いかにも余所者といった二人が怪しまれずに観光客に紛れて行動できるというのが竜二の考えだった。
駅からタクシーを走らせること二十五分、五大道と支柱に書かれた金時計の前に降り立った。左右に洋風建築が立ち並ぶ通りは観光客や観光馬車が行き会い、華やかな雰囲気だ。背後には高層ビルがそびえ立ち、街全体が都会的で洗練された印象がある。
「お上りさんになってるぞ」
物珍しそうに石造りのドーム天井を見上げる曹瑛を竜二がからかう。
「お上りさんって何だ」
「田舎から都会見物に出てきた奴を揶揄した言葉だ。ほら、そうやって上ばかり見てるから良く分かる」
竜二はコンパクトに折りたたんだ地図を見ながら歩き出す。煉瓦造りの洋館を通り過ぎ、脇道へ逸れる。観光客の賑わう通りを一本入った裏路地はコンクリートの雑多な建物が所狭しと並んでいる。張り出した物干し竿にかかった洗濯物が風に揺れている。
背の高い豪奢な洋風建築に隠れて裏側がこんな有様なのはこの国を象徴しているように思えた。
白楼賓館と看板が出ているホテルの前で竜二は足を止めた。白いタイルが煤けて外観は灰色に見えた。三階建てのこじんまりした安宿だ。
「ここだ」
竜二は観音開きのガラス戸を開けてフロントへ向かう。狭い受付には埃かぶった雑多な開運グッズが並んでいる。髭を蓄えた赤ら顔の関羽像は青龍偃月刀がポッキリ折れていた。
呼び鈴を押すが誰も出てこない。奥の部屋から大音量のテレビの音が漏れ聞こえてくる。
「你好」
竜二は声を張り上げる。ようやく面倒臭そうにベストを着た小太りのおばさんが顔を出した。竜二は身分証を出すよう曹瑛に促す。曹瑛は慌ててポケットから偽造の身分証を買うウンターに出した。記帳をしたらすぐに部屋の鍵を出してくれた。
テレビの続きが気になるのか、おばさんはやれやれと言いながら部屋の奥へ引っ込んでしまった。
一階は申し訳程度の応接セット、インターネットができるスペースがあり、奥に階段とエレベーターがある。剥げてところどころ穴が開いた赤い絨毯の階段を上り、二階奥の部屋の鍵を開けた。
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