第3話

 中央大街はずれの皇城晩庁を出ると、タクシーが待っていた。ラジオから大音量で歌謡曲が流れている。竜二は顎をしゃくって曹瑛にタクシーに乗るよう促す。曹瑛は無言で後部座席に乗り込んだ。

「曹瑛を頼んだぜ」

「面倒を押しつけやがって」

 緩い笑みを浮かべる楊に竜二は舌打ちをしながら悪態をつく。真鍮のジッポでタバコに火を点けながら助手席に乗り込んだ。


「ハルビン西駅」

 行き先を聞いたタクシーの運転手は鼻歌を歌いながらメーターを倒し、車を発進させる。裏通りを出て、松花江沿いを走る友誼路を西へ向かう。

 夕闇が街を包み、ネオンが輝き始めている。夕方の渋滞に巻き込まれながらハルビン西駅へ到着したのは午後七時をまわったところだった。

 メーターは三二元だ。竜二は五〇元を運転手に渡し、後部座席の曹瑛をチラリと見てタクシーを降りる。

「これから十六時間、楽しい列車の旅だ。腹ごしらえをするぞ」

 曹瑛に行き先は知らされていない。しかし、それを訊ねることもなかった。彼の指示に従い、動くだけだ。


「それと、身分証な」

 竜二はハーフコートの胸ポケットからカードを取り出した。曹瑛の顔写真がついているが、名前も生年月日もデタラメの身分証だ。公共機関を利用するときには必要になる。竜二も自分用の中国籍の身分証を確かめてポケットにしまった。どちらも組織が用意した偽りの身分証だ。


「俺たちは親子なんだと」

 竜二は鼻を鳴らして笑った。曹瑛は竜二を見上げる。親子、という響きが曹瑛の胸をざわつかせた。

 竜二はアジア系の割に上背がある。自分よりも頭ひとつ分は高い。髭面のせいで年齢が読みにくいが、壮年というには早い。親子設定が都合が良いという楊の判断なのだろう。


「似てないなんて言うなよ。悪いな、俺はお前みたいに小綺麗な顔をしていないからな」

「そんなこと言ってない」

 竜二にからかわれて、曹瑛は低い声で呟く。

 竜二は行くぞ、と駅構内に入るための保安検査へ向かう。身分証を提示して手荷物チェックへ進む。背後から列車の時間に遅れそうなおっさんが大声を上げて慌てて割り込んできたので先に行かせてやった。

 曹瑛はグレーのパーカーに黒のジャージ、スポーツメーカーのスニーカーを履いて黒のリュックを肩に背負っている。ベルトコンベアにリュックを投げてX線検査を通す。係員は画面を確認しながら大あくびをしている。これで本当に危険物を見逃さないのか甚だ疑問だ。


 駅構内は旅客でごった返しており、熱気に包まれていた。この国の人間は皆大荷物を抱えて移動する。宅配便でも使えばいいのに、と竜二はいつ見ても呆れてしまう。堆肥袋をバッグ変わりにしたおじさんが通り過ぎていく。手には空のバケツを持っていた。

 竜二は食堂で水餃子をテイクアウトし、ポケットから出した小銭で二人分の支払いを済ませた。水筒を取り出し、茶葉をひとつまみ入れてテーブルに置かれたやかんの湯を注いでいる。

「お前も湯、いるか」

 竜二がやかんを掲げる。曹瑛はリュックから水筒を取り出した。まだお茶は半分以上残っている

「しっかり水分を取らねえとな、脱水になっちまうぞ」

 粗雑に見えるがまめな男だ。曹瑛は意外に思った。


 おばさんが横になって寝ているベンチの端に座り、水餃子をつつく。市内の店で食べるものより具材が少ないのは経費節約のためなのだろう。それでも小腹が減っていたのでありがたい。曹瑛は十個はあった水餃子をあっという間に平らげた。

「これから向かうのは天津だ」

 竜二が行き先を伝え、曹瑛に列車の切符を手渡す。発車時刻は三十分後だ。

「夜叉は正体不明だ。裏社会の人間でも誰も会ったことがない。三人の側近とだけやりとりをして、奴らだけがその顔を知っている」

 曹瑛は無言で竜二の話に耳を傾ける。

「側近はそれぞれ、覇火はか羅刹らせつ京天けいてんと呼ばれている。それぞれ夜叉のシノギを担当している」

 天津には覇火の拠点があるという。


「三人はドラッグ製造、武器密売、人身売買で独立しており、夜叉のシノギはその三点で循環している。非道な連中だ、奴らに常識は通用しない」

 竜二は淡々と語っているが、不快感を滲ませていることに気が付いた。曹瑛も人身売買と聞いて、かすかに眉根を顰める。

「最初に言っておくが」

 竜二が曹瑛の顔を横目で見やる。曹瑛は床の一点を見つめていたが、ハッと顔を上げた。

「俺は楊にアシストをつけてくれと頼んだ。するとガキを連れてきて面倒を見ろという。正直とんだ迷惑だが、楊には世話になっている」

 竜二は苛立ちを抑えこむように真鍮のジッポを開閉している。そして間を置いて続ける。

「お前のことは一人前として扱う。足手纏いになるなら、俺は躊躇せずお前を置いていく」


「わかった、置いて行かれるのは慣れている」

 曹瑛は頷くと、また灰色のリノリウムの床の一点を見つめる。長い前髪が顔にかかり、その表情は読めない。

 四年前、八虎連の依頼で情報屋を始末したときのことだ。張り込んでいたホテルの部屋に押し入り、仕事はスムーズに片付いた。しかし、現場に潜んでいた少年に目撃されてしまった。

 情報屋がお楽しみのために買った少年だった。少年は自分も連れて行って欲しいと竜二に懇願した。このシチュエーションでは彼は間違い無く殺される。

 やむなく連れ出したが、養成所の管理下に置かれた子と身元が判明したので慌てて組織に引き渡した。その時の曹瑛の顔を覚えている。黒い瞳には、まるで大人のような諦念の色が見えた。

 自分の身を守れる範囲で最善の選択だった、しかし後味の悪さが残ったことは否めない。


 今ここで再会したことは何か縁があるのだろう。曹瑛でなければ断固断っていた。竜二は小さくため息をつく。

「俺を恨んでいるか」

 それを聞いてどうする、と思いながら竜二は訊ねる。

「列車の時間が来ます」

 曹瑛は時計を見上げた。気が付けば、乗車時間の五分前だ。返事を聞くことは出来なかった。水餃子の容器をゴミ箱に投げ入れ、改札の列に並ぶ。雑踏に紛れてホームへの階段を降り、指定の車両に乗り込んだ。


 上下二段の簡素なベッドが設えられた寝台車だ。ドアを開けた途端、酒に酔ったおっさんの豪快ないびきが聞こえてくる。

「硬座ってなひでぇもんだな」

 竜二は文句を言いながらあちこち擦り切れたリュックを床に投げ、靴のまま下段に横になる。

 曹瑛はハシゴを伝い、上段に横になった。賭けトランプに興じている若者たちがずっと騒ぎ声を上げ、カップ麺の濃厚な匂いがひっきりなしに漂ってくる。就寝するには劣悪な環境だ。

 曹瑛は粗末な寝台に横になり、カーテンの隙間から窓の外の景色を眺める。街のネオンが遠ざかると、外は真っ暗な闇に変わる。


 列車に乗ることも、この街を出ることも初めてだった。この先に待っているのがたとえ地獄だとしても、曹瑛の心にはかすかな光が射していた。

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