第2話

 雨上がりの中央大街は観光客や地元の若者たちで大いに賑わっていた。ハルピンはロシアと隣接しており、ロシア料理店やロシアの土産物を扱う店も多く、ロシア系と見られる欧米人の観光客が通りを歩く姿も珍しくない。

 日が暮れる前から煌びやかなライトアップで街は華やぐ。西洋風の古い建築物に簡体字の派手な看板が掲げられている奇妙な風景は、この街が独特の文化を形成してきたことを示している。


 鳴海なるみ竜二りゅうじは中央大街を松花江に向かってひとり歩いていた。ダークグレーのハーフコートに、黒のワイシャツ、スラックス姿で、カジュアルな服装の観光客の中で異様な存在感を放っている。

 建設中の巨大ショッピングモールの角を曲がり、ポプラ並木の古びた雑居ビルが並ぶ通りへ。大通りから逸れると、マッサージ店の看板や、小さな商店の明かりが漏れるのみで一気に周囲が薄暗くなる。


 竜二は皇城餐庁のドアを開ける。老舗の東北料理レストランだ。薄暗い店内には意外にも客が多く、香辛料のスパイシーな匂いが漂ってくる。中央大街は観光客向けの価格帯の店が多いが、地元民はこのような裏通りのリーズナブルな店を好むのだ。Tシャツに短パンといった気軽な格好のおっさん連中がタバコを片手に火鍋をつついている。

 竜二はテーブルの間をすり抜けて指定された奥の部屋へ向かう。分厚い黒木のドアを開けると、円卓で男が一人タバコを吹かしながらビールを飲んでいる。


「よう、来たか」

 まあ座れよ、と男は気さくに声をかける。竜二はハーフコートをハンガーにかけ、男の対角線に腰掛け、足を組む。

「飯は食ったか」

「いや」

「じゃあ、腹は減ってるな」

 男はメニューから適当に料理を見繕い、注文する。竜二も流暢な中国語でビールを注文した。この店はハルピンビールを扱っている。日本の辛口のビールとは違い、淡泊で飲みやすく、濃厚な中国東北料理にはよく合う。


 天井からはクリスタルガラスを散りばめた豪奢なシャンデリアがぶら下がり、壁には格子窓が設えてある。ダマスク柄の上品なベージュ色の壁紙はタバコのヤニですっかり黄ばんでおり、高級感を出し切れていないギャップが見て取れる。

 間も無くして、ビールと酸辣土豆絲が運ばれてきた。酸辣土豆絲は水でさらした細切りのじゃがいもを唐辛子と酢を和えて炒めたシンプルな家庭料理だ。竜二はビールを半分飲み干し、酸辣土豆絲を皿に取り分け、つまみ始める。


 続いて豚スネ肉とキュウリの冷菜、インゲンと辛味挽肉の炒め物、豚足の東北煮込み、イカと茄子の甘辛煮込みが間髪入れず運ばれてきた。一品の量が多く、大皿が円卓に所狭しと並ぶ。男はビールを瓶で二本追加注文する。

「話を聞こう、楊さん」

 竜二は手酌でグラスにビールを注ぐ。先ほどまで陽気な表情で他愛無い世間話をしていた楊義明はまだ湯気の昇る皿から目を上げて、竜二の顔を見やる。


 年の頃は30台後半、やや長めの黒髪を軽く後ろに流し、形の良い濃い眉に二重まぶたの奥の黒い瞳は意思の強さを思わせる。高い鼻筋と顎を覆う髭は武骨な印象を与えている。物静かで知的な佇まいは日本人特有の冷たい印象を与えがちだが、やや厚めの唇から情の深さが窺えた。

 楊は顔相を読み解くのが得意だった。オカルトじみていると笑う同業者もいるが、これまでにどんな人生を辿ったのかは年を経るごとに顔に如実に現われる。

 額の生え際が極端に乱れているのは反逆の相を示すし、話す時に口角が上下する奴は虚言癖がある。特に目は一番気をつけるポイントだ。目の輝きが異様な車輪眼は争いを好み、白目が多いいわゆる三白眼は蛇眼といって盗癖や悪知恵に長けている。


 顔相で判断し、危険な相手との仕事は極力避ける。楊はこれまでそうやって身を守ってきた。実際、顔相が凶悪な取引相手とやむなく仕事をしたときには見事に裏切られ、仲間を失ったこともある。

 目の前に座る鳴海竜二は他に見ないほど良い面構えをしている。好感の持てる男前だ。それが中国の辺境で暗殺業を生業にしているのか、人生とは全く奇妙だと楊は思う。


「夜叉という男を知っているか」

 楊の言葉に、竜二はピクリと眉根を顰める。

「本名も年齢も不詳、性別が男だということも噂でしかない。いわゆる個人事業主で、ここ最近ドラッグ流通と人身売買で名を上げている」

 楊は淡々と説明を続ける。

「うち《八虎連》とシノギが競合することが多くなり、排除命令が出た。ターゲットは夜叉だ」

 楊は写真を置いて円卓を回転させる。竜二は写真を手に取る。

「夜叉は猜疑心が強く、用心深い。三名の側近だけがその顔を知ると言われている」

 三人はそれぞれに凶相を持つ、と楊は付け加える。確かに、顔相学など学ばなくともその凶悪な顔には彼らの残虐さや非道さが見て取れた。


「情報が欲しい」

 竜二の返事は承諾ということだ。

「分かった、揃えよう」

「報酬は前金半分、成功報酬で全額だ」

 竜二が提示するいつもの条件だ。楊に異論はない。

「それと、アシストが欲しい」

「ほう、珍しいな。あんたが相棒を欲しがるとは。いいだろう」

 竜二はいわゆる一匹狼だ。八虎連と契約関係を結んでいるが、誰とも組むことはない。日本人というだけで嫌悪され、信用されないということだけが理由ではない。彼の揺るぎないポリシーなのだ。今回はそれを曲げることになる。それほど困難な依頼だと考えているようだ。


 ***


 三日後、皇城餐庁で楊と竜二は円卓を囲んでいた。

「曹瑛だ」

 楊が竜二に曹瑛を紹介する。竜二はその顔を見て、無言のままタバコに火を点ける。

「まだガキじゃないか」

 竜二は煙を吐き出し、楊に怪訝な顔を向ける。

「確かに経験は浅い。だが、こいつは見どころはある。それにもう十六だ」

 楊は肩を竦める。曹瑛は組織子飼いの暗殺者だ。竜二につけて学ばせることも目的なのだろう。竜二は不本意のようで、曹瑛の顔を見ようとしない。曹瑛はただ押し黙ったまま、視線を落としている。


「前言撤回だ、この件は一人でやる」

 竜二の意思は固い。楊は困った顔で曹瑛を見やる。

「わかった、もっとベテランを探そう」

「俺にやらせてください」

 楊の言葉を遮り、曹瑛が顔を上げ、低い声で呟く。真っ直ぐな瞳で竜二を見つめている。その暗い瞳には見覚えがあった、忘れもしない二年前のことだ。暗殺現場で曹瑛と鉢合わせした。連れて行って欲しいとせがまれたが、保身のために組織に引き渡した負い目がある。正直、ここで再会したことも複雑な気分だ。


 楊はいつも無口で、何事にも無関心と思えた曹瑛が自己主張をしたことに驚いていた。

「足手纏いにはなりません」

 曹瑛は続ける。万一、失敗したらその責任は自らが負うということだ。命を落としても恨むことはない、短い言葉に曹瑛の覚悟が見えた。竜二は曹瑛の静謐な夜の湖のような黒い瞳を覗き込む。深淵の見えぬ闇のような瞳だ。しかし、濁りはない。

「負けたよ」

 竜二はふうと煙を吐き出し、苦い顔でタバコを揉み消した。

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