第2章
第1話
節操のない原色のネオンが点滅し、ひび割れたアスファルトの水溜まりに反射している。違法建築の雑居ビルが立ち並ぶこの通りは、昼間は健全な喧噪に包まれるが陽が暮れると魔窟と化す。麻薬や銃の売人が物陰で跋扈し、年齢不詳の商売女が露出の高い服を着て客を待つ。
埃に煤けたコンクリートのビルの非常階段に長身で細身の青年が立っていた。濃密な闇に溶け込むようにひっそりと息を顰めている。青年は錆びの浮いた階段を音も無く駆け上がる。三階にたどり着き、ドアを開けた。
ドアの先には薄暗い廊下が続いている。ところどころ剥げて毛羽立った緑色の絨毯からは黴と小便の混じった匂いがした。裸電球が揺れる廊下を進み、308号室の前で立ち止まる。ターゲットが好む数字だ。八の字は縁起がいい。
青年は部屋のドアを二回ノックする。返事はない。ややあって、カチャリと鍵を開ける音がする。
「遅えじゃねえか」
ドアが開き、髪を後ろに撫でつけた無精髭の男が顔を出した。太い眉をぴくりと動かし、黄ばんだ目玉で来訪者を凝視する。間違いない、この男がターゲットの王猛だ。
「なんだ、お前は。俺は男と犯る趣味はねえぞ」
王猛は野太い声で怒鳴る。しかし、無精髭を撫でつけながら目の前の青年を上から下まで値踏みし、下卑た笑みを浮かべる。
「取引の話にきた」
艶やかな黒髪に白い肌、切れ長の瞳にはどこか憂いの色が浮かんでいる。形の良い唇は固く引き結ばれて緊張の色が窺えた。整った顔立ちだ。ここへ来る年増の商売女よりも断然綺麗だった。
「そうか、入れ」
王猛はドアを開け、青年を部屋に迎え入れる。
通路沿いにガラス張りのバスルームとトイレ、部屋の中央にはキングサイズのベッド、窓際にテーブルと椅子が並ぶ。ベッドの傍には段ボール箱が置かれている。ここは安ホテルだが、王猛はこの部屋に一週間ほど居座っていた。
ベッドサイドのルームランプを点け、王猛は椅子に身を投げる。
「座んな」
青年は無言のまま椅子に腰掛けた。黒ずんだレースカーテンが時折風に煽られて揺れている。明かりの下で見る青年の顔は思ったよりも若い。年の頃、十五、六才か。
「ブツを見せてくれ」
青年は一端の商売人のように落ち着いた態度だ。王猛はフン、と鼻を鳴らす。そして、ベッドサイドの段ボール箱から小さなビニール袋を取り出してテーブルに乱雑に投げる。青年はそれを手に取り、じっと見つめている。
「俺の扱う毒は品質保証つきだ。ここで吸ってみるか」
毒とは、ドラッグのことだ。青年は微かに目を細める。不意に王猛が身を乗り出し、青年の手首を掴んだ。
「お前、どうやって俺が売人をやっていると知った。どこからの情報だ」
王猛は歯茎を剥き出しにして威嚇しながら青年の手首を握る手に力を込める。手首の骨が軋み、青年は痛みに顔を歪める。
「言わねえか」
王猛はさらに顔を近づける。酒くさい息がかかり、青年は顔を背ける。王猛は青年の手首を捻り上げ、その身体をベッドに突き飛ばした。青年が起き上がる隙を与えず、巨体でのしかかる。
「ぐっ」
巨漢の王猛と細身の青年の体格差はみるも無惨だった。王猛に組み敷かれ、青年は身悶える。しかし、その目は王猛を真っ直ぐに見据え、輝きを放っている。青年の凜とした眼差しは王猛を一層苛立たせた。
「そんな目で見るんじゃねえ、生意気な奴だ」
抵抗の意を示し続ける青年の顔目がけて、憎悪に固めた拳を振るう。こうやって商売女のように顔を殴れば、恐怖に怯えた目を向けて何でも言うことを聞く。一発で効かなければ、次は正面から鼻の骨をへし折ってやるつもりだった。
「ぎゃあああっ」
青年を殴ろうとした拳に激しい痛みを感じた。予期せぬことに、王猛は何が起きたか分からず錯乱する。人差し指と中指の間に、十五センチほどのボールペンが突き立っている。次の瞬間、焼けるような激しい痛みが襲う。震える手でボールペンを引き抜くと、鮮血が迸った。王猛の生ぬるい血が青年の白い頬を濡らす。
ベッドに転がされた青年は冷静な表情を崩さない。訓練所で習った通りだ。指の間には痛点が集中している。奴の情け容赦ない拳のスピードを利用し、テーブルからくすねておいたボールペンをその軌道に突き出した。
泣き叫ぶ王猛の股間を思い切り膝で蹴り上げる。
「ひぎゃっ」
王猛は半オクターブ高い奇妙な叫び声を上げて床に蹲る。血の気の引いた顔で股間を押さえて震えている。青年はベッドから飛び起き、ルームランプの電源コードを引きちぎった。それを王猛の首に回し、交差させて引き絞る。
王猛は首を絞める細いコードを死に物狂いで掻きむしる。痛みと息苦しさで暴れ牛のようにのたうち回る。青年はそれに怯んでコードを持つ手を緩めた。
「ちっ」
青年は小さく舌打ちする。王猛は怒りと屈辱に目を血走らせ、痛みも忘れて青年に襲いかかる。青年は胸元から取り出したナイフを王猛の大腿に突き立てた。
「クソガキがっ」
王猛が足を庇いながら窓の方へ後退る。その分厚い筋肉と脂肪に阻まれて、刃は動脈まで到達できなかったようだ。
青年はベッドサイドの段ボール箱からドラッグの入ったビニール袋を取り出す。ずしりと重い。一キロはあるだろう。
「そ、それをお前にやるよ。末端でも千元になる」
青年は顔を上げて王猛を見つめる。その感情のない瞳は静謐な夜の湖のような底知れぬ深い闇を宿していた。
青年は無言のまま、ナイフでビニール袋を切り裂いた。
「どうだ、純度の高い上物だ。お前は八虎連子飼いの暗殺者だろう、見逃してくれ」
王猛は青年を宥めるように、猫撫で声を出す。青年はビニール袋の中身を王猛の顔に向けてぶちまけた。王猛は頭からドラッグを被る。
「てめえ、何しやがる」
王猛は視界を失い、慌てて目をこする。その隙を突いて青年は王猛に突進する。バランスを派手に崩した王猛は、大きく開いた窓からその巨体を踊らせた。
重量のある肉の塊がアスファルトにぶつかる鈍い音がする。青年が窓の下を見下ろすと、仰向けになった王猛が目が飛び出さんばかりに驚いた表情のままこちらを見ている。やがて、ドス黒い血が身体中から流れ出した。
青年は段ボール箱の中からドラッグの詰まったビニール袋を取り出す。残りは三つだ。青年はドラッグをすべてトイレに流し、部屋を出る。廊下で商売女とすれ違った。
「ねえ、いないの」
商売女は永遠に返事のない308号室のドアを乱暴にノックし続ける。青年はその罵声を背に、非常階段を颯爽と駆け下りた。
ゴミや動物の死骸が散乱する裏路地に黒塗りの車が停車している。青年が後部座席に乗り込むと、車は発進した。
「ブツはどうした」
助手席に座る金色のラインが入った黒い詰襟の男が青年に声をかける。
「もう無かった」
青年は頬を汚す王猛の血を袖口で拭い取った。男はチッと舌打ちをする。青年の姿を見て、王猛の始末には成功したことを悟る。車が表通りに出ると、バックミラーに王猛の無惨な亡骸が転がっているのが見えた。通りで人が死んでいるというのに、誰も警察を呼ぼうとしない。
「苦戦したようだな、曹瑛」
男が後部座席の青年をちらりと見やり、鼻を鳴らして笑う。青年は唇を引き結んで無言のまま、濃いスモークガラスから外を眺めている。
「奴は女をドラッグ漬けにして暴行し、二人も殺しやがった」
男は忌々しげに唇を歪め、タバコに火を点ける。組織の扱うドラッグを横流しして小銭を稼いでいたことが王猛の死ぬべき理由のひとつで、男が元締めをしている売春宿の女を殺害したことがもうひとつの理由だった。
奴は死んで当然だ、と男は言う。
曹瑛は王猛に罰を下したとは思わない。自分には王猛を裁くことなどできるわけがない。この手は血に塗れているのだから。
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