第6話

 黒服の男はアンティークの一人がけ椅子の影に息を潜めていた曹瑛をじっと見下ろしている。丸いサングラスのレンズがランプの光を反射し、その下の目を見ることは叶わない。まっすぐ通った鼻筋に、口から顎にかけて髭を生やしている。唇は真一文字に引き結ばれ、表情が全く読めない。

「気配を消していたのか、驚いたな」

 落ち着いた低い声。言葉に訛りはなかった。そうは言いながらも、全く驚いた気配はない。

「あの男はお前の客か」

 曹瑛は黒服の男を呆然と見上げていたが、遅れて首を横に振った。


「おい、お楽しみのところ悪いが、そろそろ時間だ」

 ドアが荒々しくノックされる。先ほどの2人組が戻ってきたのだ。夜が明ける前に曹瑛を修練所に連れ戻さねばならないのだろう。

「開けろ、ガキを連れて帰る」

 ノックの音に苛立ちの色が窺えた。ダウンライトの明かりの下で卑劣な男はベッドで体中の血を流し尽くして冷たくなっている。返事をすることは出来ない。


 ドアを注視していた曹瑛の頬を涼しい夜風が吹き抜けた。振り返ると、黒服の男が窓の側に立っている。曹瑛は慌てて立ち上がった。

「待ってくれ、俺も一緒に行く」

 思わず言葉が口を突いて飛び出した。この男について行きたい。それは絶望に塗れた過酷な環境から逃れるためではなく、この男から何かを学びたいと思ったからだ。これまで曹瑛が他人に執着することは無かった。ナイフで人間を無惨に切り裂いた男だ、しかしその鮮烈な姿が瞼に焼き付いて離れなかった。


 ノックの音はさらに大きくなる。鍵がかかっているようだが、このままでは蹴破られるのも時間の問題だ。この状況を見た奴らは曹瑛をどうするか。おそらく、口封じに殺害し、山にでも捨て置くだろう。そして、修練所には曹瑛が逃げた、と報告してお終いだ。

 黒服の男は窓枠に足をかける。そして黒いコートをなびかせて飛んだ。曹瑛は男の後を追い、窓の外を覗き込む。その先には隣のビルの非常階段があった。長身で大柄な男だが、軽々とした身のこなしで鉄柵を掴み、非常階段に降り立った。


 そして、3階の窓の前に立つ曹瑛を見上げている。曹瑛は窓の下を見下ろした。ゴミが散乱する通りが見えた。非常階段まで3メートルはあるだろう、あそこまで跳躍できるか。掴み損ねたら、固いアスファルトに激突し、体中の骨が粉々に砕けるだろう。

 曹瑛は震える手で窓枠を握りしめる。これは訓練ではない。


「おい、いい加減にしろ」

 怒号が響き、ドアが蹴破られる。

「なんだこれは、一体どうなっている」

 ベッドに横たわる物言わぬ死体を見た長髪と黒シャツの二人組は、揺らぐカーテンに目を留めた。そこには曹瑛が佇んでいる。

「お前の仕業か、待て」

 2人が曹瑛を掴まえようと突進してくる。曹瑛は覚悟を決めて歯を食いしばり、窓枠に足を掛け、思い切り蹴った。


 非常階段の鉄柵に腕を伸ばす。鉄柵に指先がかかった。もう少しのところで指が滑る。そのまま落下するように思えたが、もう片方の手で何とか鉄柵を掴むことができた。曹瑛の体は非常階段の柵にかろうじてぶら下がっていた。

 腕に体重がかかり、筋肉が軋んだ。曹瑛は体を持ち上げる。黒服の男は曹瑛の目の前に立っていたが、必死に鉄柵にしがみつく曹瑛に手を差し伸べることはない。ただ黙って曹瑛を見つめている。


「このガキが、逃がさねえぞ」

 部屋の窓から長髪が銃を抜き、曹瑛を狙っている。引き金に指をかけたそのとき、ギャッと叫び声が聞こえた。曹瑛は鉄柵を乗り越えて、非常階段に転がった。後ろを振り向けば、長髪が腕を押さえて喚いている。黒服の男が胸元に銀色の小さなナイフを仕舞うのが見えた。

 この男が自分を助けた。曹瑛は黒服の男を見上げる。男は何も言わず、階段を駆け下りる。曹瑛は慌てて黒服の男について階段を走った。

 

 黒服の男は水たまりがギラギラしたネオンを反射する狭い路地を、軽やかに走り抜けていく。そして、古いコンクリートビルの1階の車庫に入り、そこに停車してあったバイクに跨がった。エンジンをかけ、アクセルを吹かす。

 曹瑛はバイクの側で立ち止まった。何か言おうとしたが、黒服の男が顎を傾けて後ろに乗れ、と指示をする。曹瑛は慌ててバイクの後部座席に飛び乗った。


 ビルの車庫を飛び出し、バイクは夜の街を駆け抜けていく。広い車道に出て、バイクはさらに加速する。曹瑛はこんな早い乗り物に乗ったことが無い。爆音に耳がやられそうだ。振り落とされないよう、男の腰をしっかりと掴んだ。吹き抜ける冷たい風、流れていく街のネオン、すべてが鮮烈だった。

 どのくらい走ったのだろう、バイクは速度を緩めて明るい看板が照らす店の前に停まった。目の前には大きな川が流れている。対岸のビルのネオンが暗い川に反射して揺らめいていた。曹瑛は無心で川面を眺めている。

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