Parola-08:出立……そレは、霜降ル天蓋に初志つけるわダち。
突然だが、小旅行に繰り出している。
何故だ、という自問は、この週末に至るまで自分の中でも散々繰り返してきたはずだが、明確な答えは遂に出ないままで流されるまま、いや、自発な部分も多々占めていたとも思うが、ともかく俺は初夏の湘南へと、相変わらず松葉杖をカッカッと突きながら、割とすんなりと訪れている。
JR品川駅に集合して、五時二十九分発の東海道本線・小田原行で一路、藤沢へ。近年稀にみる強行軍と思われる。そして一路と言いつつ目的地にはおよそ三十八分で到着する。通学とほぼ変わらないドアtoドア感が寝起きの頭を掠めたものの、非日常感はそれはそれは尋常では無かったわけで。
「合宿ぅー、合宿ですよねぇ、何かいいですよねぇー」
俺の右隣からは、そのような上気した、そして透き通るような声がガラ空きの車両をふよふよ漂うかのように発せられて来ている。そう、改めて言うまでもないことだが、この珍妙なる出立は、例の「言の葉部」発のことである。まあそれ以外にあったとしたらそれは存外に意外である。それよりも。
「あぁー、いやこれは七月の大会に向けた大事な準備でもあるのでしたっ。部長として浮かれているわけにはいかないですよねぇー」
浮かれていてくれて一向に構わないのだが、相変わらず距離感が二センチくらい近いんだよなぁ……先ほどからその柔らかく熱を持った左の二の腕が、俺の肩口に七回は触れ当たって来ている。電車の揺れによるものだろうか。いやそれよりも今日のいでたちだ。
アースカラーと言えばいいのか、制服時のねずみ色セーターと同じくらいの低彩度の渋茶色のブラウスみたいなのの上からエプロンのような肩から吊るもっさりとした茶色のワンピースのようなものを身に着けている。ファッションセンスについては壊滅的に終わっている俺が言うのもなんだが、何か、色からして微妙な感じだ。しかして微妙じゃないのはその鎖骨を全て露出せんばかりの首回りの空き方であって、ミササギ部長が落ち着きなく動くたびに緩みたわむその隙間からは、滑らかなベージュの稜線と深すぎて先の見通せない渓谷、そしてそれを包むミントブルーの何かがちらちらと垣間見え、サブリミナル的にこちらの野性と獣性を歓喜にいざなってくるものの、鋼の意志でそこからなるべく目を逸らすように不断の努力を続ける理性の番人こと不毛なる俺がいる。
合宿。俺の知るそれとは確実に違うような気がこの出立時点から沸き立っているようではあるが。もうそれらについてはいちいち疑義を挟むのも無駄なので流されるままにいる。何だかんだでこの「言の葉部」に取り込まれた俺であるがゆえ、もはや日本一でも世界一でも何でもやってやれの心境と言えばいいか。「KOTONOHA」というその謎競技については、未だ二パーセントくらいしか理解は及んではいないものの。後は未知、あるいは虚無のような気もしている。だからもう深くは考えない。今も今だが、他のことに意識をやるようにしている。
「……」
車窓の外を流れる景色に、緑が増えて来た。朝露を含んだ若葉が曙光を反射させながら流れ去る……とかか。
思えばこんな「移動時間」に諸々含め「考える」なんてことは今まではほとんど無かった。が、それも「言の葉」のトレーニングなのだと、部長は言う。とりあえず目に見えるもの、音に聞こえるもの、色々な香り、風味、触感、あとは自分の中で湧いた諸々の情動、それらを逐一「言語」に訳すような感じで、常に頭の中で紡ぎ出すんです。それが何よりの力になるのですから……言っていることは雲を掴むような気もしなくもなく、何ならその熱っぽい瞳の力の方が言の葉の力などよりもよほど強いと思わされること常ならむなのだが、それでもやるからには、の精神でたゆまぬ努力を続けている。
あの、何とかっていうカードを集める、っていうのも「準備」に入るわけだよな。とは言え何て言うか、奇妙な縁過ぎる気もしないでもないが。改めて思い返してみる。
一週間前、拉致られるようにこの部活に既に取り込まれていた俺は、「カード」こと「
そ、そそそれは、か、「漢字ちゃうマン」では無いですかなッ!? リアクトがいちいち大きい輩のたるんだ顎の下を、立てかけておいたアルミ松葉杖の脇当ての方を使って押し戻しながら、知らんわ、でもそんなけったいな名前だったかな、と一応記憶を浚ってみる。徐々にその何とかマンと思われる派手なパッケージをぶ厚い木の座卓の上でひっちゃぶいていた映像が脳に浮かんできた。そうか……
遠浅の海。朝昼夜ごとに与える印象を変えてくるあの色。身体が包み込まれるような波音。潮のほのかな香り。肌にべっとり来る風……そうだ、じいちゃんの所にいた時期だ。
小学校に上がる前だったことは確かだ。その前後はふよふよと不定形で定まっては無いが、ひと夏の思い出、というロマンティックな言葉で括れそうな微かな記憶はある。幼稚園の休みのひと月くらい、そこに預けられていた。何で預けられていたかは……今なら分かるがその当時はよく分からなかった。夏休みに田舎に帰る、そのくらいの認識はあっただろうが。毎朝じいちゃんと柴のハチと一緒に海岸まで散歩しにいった。帰りに海沿いの国道のコンビニによってアイスとかお菓子とか買ってもらってた。その時の記憶だろう。
うだる暑さの昼間は何もすることが無かった。扇風機の前の畳の上に寝そべって、遠くに望む波の寄せ返しをぼんやりと眺めているばっかだった。周りには遊べる子供もいなかったし、じいちゃんは畑が忙しかった。ばあちゃん……は、もう亡くなってたよな。仏壇の上の遺影しか知らない。
読めもしない「漢字」の書かれたカードに、それでも何か他には無い格好良さを感じていたかも知れない。子供だましの煌びやかさに、色の無い現実の気配を感じ取れなかったのが心地よかったのかも知れない。そこまでの考えは無いか、五つ六つの子供に。でもいつからかそればっかり買ってたよな……じいちゃんが訝しむほどには。でもお菓子としてもかなりの完成された美味さだったし、カードがたまってくるとそれを並べ眺めているだけで時間を忘れた。自分の中で無茶苦茶なルールを決めてどれが最強か、とかやってたな。もちろん自分のお気に入りのものが勝つような筋立てを用意して。懐かしい……
じいちゃんは俺が小学生の時に亡くなった、と聞いた。葬式とかには出ていない。その頃にはもう没交渉になっていたし、俺も新しい家族に馴染むのに結構気を砕いていた、ような気がするから。その辺もあまり記憶に無い。思い出したくないだけかもだが。
ふ、と思い立って、じいちゃんの家のあった場所らへんをマップで探ってみた。藤沢、だったよな、その辺りの海沿い、とストリートビューでぐるぐる回ってたら、あっさりあの通ってたコンビニもそのままな佇まいで見つかって、さらにはじいちゃんの家もあの時のおぼろな記憶のイメージのままで在った。おお、と思わず声が出た。な、なな何ですかなと寄って来ようとする砂漠をまた松葉杖を使って牽制すると、少し歪んだ画像のその建屋には、「お宿 みその」という看板が掛かっているのが見て取れて。
民家を改装して民宿、あるいは旅館にしているのか。雰囲気はあの当時のままだ。へぇ、とまた思わず声が出てしまった。
それがいけなかった。
ええー、何です何ですぅ、そんな二人だけで盛り上がっちゃってぇ、という甘く転がる声と共に視界の大部分をねずみ色の跳ねる物体が占めたと思った瞬間、決して滑りやすい材質で出来ていないと思うものの、何故かそこの床板で滑ったと思われるミササギ部長の転がり倒れ込んできた上半身を机の角にぶつからないように極めて当然に両腕を差し出して受け止めたら、なまじのエアバッグよりも耐衝撃性のありそうなふたつの球体に擦り押し潰されるという未踏の感触に全理性をこそぎ取られそうになったので必死で下唇を噛み締めることでその耐え難き忍び難きを渾身で抑え込まんとす俺がいる。えへへー、またコケちゃったごめんなさいぃーという、わざとやってるのかとこの頃では思うようになってきたほどのド天然スマイルが俺の中の大事な何かをも確実に削っていくが。
その有様を間近で見せつけられて、血走った目で俺よりも唇を薄緑になるほどに噛み締めている砂漠の奴を不憫に思い、俺は幼き頃にその「漢字ちゃうマン」カードを大量に有していたこと、自分の家に持って帰ったら母親に棄てられそうだったから、それらを厳重にコンビニ袋を切って作製した袋に何重にも包み、さらにうまい感じに嵌まったシッカロールの缶に封じて庭の……何の木かは知らないがとにかく一番大きな奴の根元に埋めたことを教えてやった。そそそそのコレクションの中には金の縁取りが為されたものとかあったりしますのかなッ、と相変わらず喰いつきの過ぎる脂顔を抑えつつ記憶をまた振り仰ぎ、そういや金銀銅の三種類あったな、俺のお気に入りは銀の奴だったけどよ、と何気なく言ったら、顔面を硬直させて本当にギャーと叫び出したので松葉杖を素早く空中で持ち手を半回転させると、地面に着く側で輩の鳩尾を貫いて黙らせる。
レアカードだそうだ。それ自体が今やプレミアがついている中で、さらに「金色」の奴は万単位で取引される奴だそうで。それに何より「強い」カードが揃っているそうだ。いまいちまだぴんと来てはいない俺だが、砂漠のみならず、部長、さらには無藤とか一之瀬辺りまでが喰いついてきて、じゃあそのお宝ゲットの旅に出ましょうぅという号令に、諸々の煩悩を孕んだこの七人の旅は、そして、始まった、わけで……
好機と、そう肝に銘じつつ、右側から漂ってくる花のような葉のような香りに揺らされている俺だが。言の葉……俺にとってそれは、全てを開く魔法の鍵なのかも知れない……
前の座席からスマホ越しに俺をちらちらニヤニヤ見てくる無藤に殊更何でもないような表情を形作ると、平常心を保つ訓練へと自分をまた戻していく。
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