Parola-02:強引……そレは、ゴーイングマイウェイトゥ何そレ。

「あの、さっきはどうもっ」


 会の終了と共に足早に辞そうとした俺の背中にぽんと投げかけられかけてきたのは、案の定、不穏と分かりつつも揺さぶられてしまう、甘くも凛とした声のつぶてのようなものだったわけで。後ろ髪どころか全身の体毛を一斉に逆ベクトル方向へと引っ張られる感覚を何とか振り切り、自然にその声の出処に向けて捻り始める首と肩と腰の筋肉を必死で留めながら、図書室を出ると、昼休み終わりかけのざわめく空気と各々の教室へと向かう人の群れに何とか己の気配を埋没させようと試みようとするものの。


「わぁ追いついたっ。声通らなくてごめんなさい、さっきはありがとうございましたっ」


 声が通らないということは無い。現に今、この雑踏の中でも俺の鼓膜は中空を転がってくるような鈴の音を一言一句感知している。いや、それより何より、今は左の二の腕辺りのワイシャツの布地を摘ままれ引っ張られていることへの対処が重要だ。おかしい。こんな距離の取り方って今までの俺の人生であったか? 練習の時はそもそも男女別だったし、たまに話すとしても社会的距離は一律保たれてきたはずだ。なのに彼女は軽やかにそれを突き破ってくる、二度までも。


 あ、や別に、みたいな言葉を返すと、白花がまた薫ってきそうな方へ向けて、何か分からないが手刀を切るポーズをノールックでかますと、階段一段目に左脇から伸びた松葉杖を当てつつ身体を持ち上げていく作業に注力する。


「あ、大変そう……肩とか貸したりしましょうか?」


 いや、それは絶対無いだろ。おかしいぞこのコは。ただでさえ俺の左肩に触れんばかりの位置にその小顔を近づけてるってのがそもそもありえんし、心底心配そうな目つき顔つき……作ってるにしろ駄目だろそういうのは。


 落ち着け。


 おそらくは、おそらくこれは勧誘行為の一貫だ。好意に因るものでは無い。そのくらい、陸上しかやって来なかった俺にだって分かる。分かる、ものの……


 あ大丈夫だから、との声は自分でも掠れ消えるほどのスカスカ具合であり。固辞したはずが伝わらなかったのか、するりとすぐ横に回られたかと思ったら、肘を持ち上げられたことに泡食う間もなく、無防備に開いてしまった俺の右脇から見慣れない上気顔が突き出されてきて。触れ合う肌、重なる吐息、Oh……意識が、薄れていくような、そんな感じ……何でかは分からない。分からないが何故か走馬灯のように、今までの人生であった諸々が頭の中に浮かび流れてくるのであった……


 二階までの数段を上るまでの間、俺の脳裡に巡るのは中高打ち込んできた陸上競技の諸々では無かった。陸上を深く思ってはいたものの、自分の右半身を中心に感じている触覚と白い花のような香りに、そのつらくもあり楽しくもあった、青春の全てを捧げてきたはずのものは全て吹っ飛んだ。


 「肩を貸す」という行為……おそらくそれに該当する熟語は無いと思われる……その理由の一端が何となく分かった気がした……隠しかったんだ。その実態を。淫靡なるものと決めつけられることから避けるために。どう名付けようとしてもそうなってしまうだろうから。あるいは賢明な者はじゃあ「肩車」は何故あるのかと問うだろう。それは子供の頃の事を思い出せば分かるはずだ。幼き時分に父親にねだったことは無いか? 必然が、そこにはある。


 いや、落ち着け。全然落ち着けてない。思考が飛んだぞ、自ら生み出した混沌へと。いかんいかんと一度杖を宙に浮かせて振り子の原理で先端を前方へ泳がせてから膝のやや下へと軽く引き当てていく。と同時に脊椎に響く鋭い痛み。痛覚によって、感覚をリセットしなくては。


 遥か高みに飛んでいた思考が、ようやく戻ってきていた。だが、俺の横にはにこりと笑顔をこちらに向けてくるミササギ……さんの姿は確かにあって。やや顎を上げつつ、やや上目づかいにて。改めて立って並ぶと、俺の肩よりも背は低い。周囲の音声がやっと俺の鼓膜に戻って来ていた。


「あの、良かったら」


 が、廊下で男女が立ち話しているだけで周りからは何となくの注目を浴びるものであって。授業が始まるまであと一分も無いわけで。それでも。


「……本当に良かったら、でいいので、今日の放課後、旧棟三階の『視聴覚室』に遊びに来てくださいっ。部活、やってますから。えと、本当に、良かったら、って感じで。あ、私はその『言ノ葉部』の部長の、2Aのミササギですっ、よろしくお願いします」


 距離感というか間の取り方にちょっと戸惑ったものの、このコは何か、色々と真っすぐな人なんだろう。コトノハ部が何かは未だミリほども分からないものの、その揺るぎない情熱のようなものは諸々がねじくれてしまっているだろう俺にも伝わった。同時にその小さな身体に帯びた物理熱……先ほど身体の上下動と共に右肩甲骨辺りに押し付けられて来ていた何だろう、とんでもない弾力と今にも崩れてしまいそうな柔力を同時に有した、あれはいったい何だったんだろう……その熱も、俺の大脳以下末梢神経の隅まで埋め尽くしている。というか二年だったのか、下級生。小走りで階段を駆け上っていく後ろ姿を、その制服の赤いチェックのスカートの揺らめきを、口が開かないように気を付けつつ見送る。いや、それよりも。


「……」


 このまま無下にあやふやにしてしまうのも、何か違う気がした。俺自身も、周りの何もかもを気にする事なく、何かに埋没するようにそれしか見ていなかった時があったから。その思いを心意気を、確かめもせずに無視することは、出来そうも無かった。


 嘘だった。


 俺の脳内の合議機関たる内のふたり、「野性」と「獣性」の奴らが、<嘘だッ!!>と書かれた赤いカード状のものを、「理性」であるところの俺に同時に突き付けている図が浮かんだ。うん……理性っていつも不利なものだよな……


 いやいや。


 そうじゃあ無いはずと、思いたい。それだけじゃあ無いと、信じたい。例え九分九厘が桃色に染まっていたとしても。寝て起きて、食べて寝ての繰り返す空虚を感じる他は無くなってしまった毎日に、灰色に染まりかけてきていた残り少しの高校生活に、なかば強引にぶっとい毛筆のようなもので真っ白な一文字の墨痕を描いてきた、このコトに。委ねてみるのもありかと思った。


 三年の今から新しく部活動も無いもんだ、との思考は、まったく沸いては来なかった。そんな些末な事はあの熱がすべて散らした。心の真っ芯に、燃え尽きることなく残ってしまった炭の棒のようなもの。そいつを再点火して燃やし尽くすことが出来たのなら。


 脳裡にしつこく漂うのは、下卑た顔をした奴らが二人、胸の前で両掌を上に向けてさかんに上下に揺らす度し難い図であったものの、理性は、俺は負けない。とりあえず、ままならないこの左膝の方で、一歩を踏み出してやる、との殊勝過ぎて却って自分が引いてしまうような思いを胸に、午後の授業は、諸々の桃色の思考が細を穿ちながらも万華鏡が如くに煌びやかに無限に展開していく奔流に呑まれまったく大脳に入って来なかったわけだが。


 放課後。


 あまり早く行き過ぎるのもあれかと思い、少し自席でぼんやりと窓の外、グラウンドにちらほら出て来た運動系の部活の奴らの姿を見下ろしながら、心の中で六百秒くらいを数えていたら。


「カブラヤさん、先ほどはどうも」


 いきなり名前を呼ばれたので何事かと思ったら、図書委員会の仕切りをやっていた眼鏡の女子だった。この陽気でブレザーをかっちりと着込んだその細身の身体は、天井から吊られているかのように姿勢正しく、真っすぐに切り揃えられた黒い前髪と黒いフレームとの間にはきっちり一センチくらいの間隔が横一文字に走っていて、思わずそこに目が行く。あぁええとエナさんだっけ、と記憶を浚ってそう返せたのは我ながらコミュ力高いと思ったが、あそれ名前……苗字笠松カサマツです、とちょっとその時だけはにかんだ表情を見せつつ訂正された。うん、勇み足と、そういうことになる……


 双方気を取り直して、何かまだ図書関連のことであるのかなとか思いつつその笠松さんの言葉を待つ。かちりとまた無表情に近い顔に戻っての、ミサのことです、との前置きに、今ようやく収まって来ていた熱がまた右肩甲骨辺りにぶり返して来そうになるが。二人は友達っぽかったもんな……そしてそれでいて例のあの部に関しては、このコはちょっと否定的というか。


 「コトノハ部」には、関わり合いにならない方がいいかと思って、助言っていうか、まあ忠告です、との今まででいちばん歯切れの悪い言葉に、頷けるところは確かにあった。


「……いろいろ、自覚が無いコなので。距離の取り方が平均日本人より一歩半くらい踏み込みがちなとことか」


 流石友人、その予想以上に的確な評に、遠回しに俺の下心を諫められている気もして、だが。


「忠告ありがとう。でも取りあえず、一回は行ってみて話は聞いてみる。こう見えて、現国とか古文漢文も一律、点は取れてる方なんだ俺」


 棒で読んだ台詞のような白々しさに、笠松女史のこいつもかェみたいな明らかに温度の無いまなざしが刺さる。そして一応自分の責は果たしましたよと言わんばかりにさっさと教室を辞していくのだが。肚はもうかなり前から定まっている。


 踏み出す一歩。それが何かに繋がっていると信じて。


 体の良い言葉で、「言の葉」で、自らの理性を飼いならすことに長けてきた感は否めないが、正にの新しい一歩を、俺は歩み始めたわけで。走らなくなってからずっと下を向いたままだった、その目線を前へと上げて。


 そこに待っているのが知れ切った混沌であることに焦点を合わせないようにしながらも、確かな熱に背中を、否、右肩甲骨辺りを押されるようにしてよろよろと踏み出していくのであった。

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