第3話 先生の家で食べるピザの味は緊張で覚えていない

「あ、紅榴こうりゅう君、マスク取って良いよ」

 と先生は言った。


「いや、一度だけの助っ人に来た僕がもし感染してたりして先生に移してしまったりしたら申し訳ないので、このままで良いです」


「そう?でも無理しないでね」


 そう言われて、翡翠かわせみ先生はずっとマスクしてない事に気が付いた。


「じゃ、はじめよっか。画材持ってる?」


「あ、はい。一通りは持って来ました」


「うん。えと、紅榴こうりゅう君、だっけ……そこの机を使ってね。原稿は今できてる分は机に置いて置いたから、ベタとトーンをお願今出来るかな。トーンは後ろの棚にあるのを使って。分からない事はなんでも聞いてね」


「分かりました」


 僕は手前の席に座った。先生の仕事部屋は、奥に先生の机があって、外に向かって壁側にアシスタントさんの机が二つある。

 そのうちの一つ、原稿が置かれている方の机に僕は座った。


 床には足の踏み場もないくらい本やら紙やら服やら……とにかく物が多い。

 先生の机にも画材やら資料やら紙やら髪留めやらエナドリの空き缶やらが山と積まれている。


 だがしかし、恐らく普段はチーフアシスタントさんが使っているであろうこの机は、明らかにここだけ整理整頓されていた。


 人柄……出てるなあ。


 僕は机に置いてあった先生の原稿を手にした。


 先生の原稿は既にキャラクターだけでなく、モブや背景まで書かれていて、ペン入れまでされていた。

 しかも丁寧に消しゴムで下書き線を消すところまで終わっていて、後は効果線とベタを入れてトーンを貼れば良いだけの状態になっている。


 先生の描いた線はコマの隅々まで繊細で綺麗で、僕は思わず溜息を吐いた。



「えっ?どうしたの?何か問題あった?」


先生は作業机に座った所だったけど、僕の溜息で思わずこちらを振り向いた。


「あ、いや……ごめんなさい、そうじゃないです。先生の原稿があまりに綺麗で思わず見惚れてしまって」


 僕の言葉に先生は思わず顔を紅潮させた様な気がした。


「やだ……もう……私なんかを褒めても何も出ないよ」


「いや、本当です。その分僕も先生の原稿を台無しにしない様に丁寧な仕上げをしないといけないから緊張します」


「うん、頑張って。私も残りの原稿上げられる様に頑張るから」


 先生はそう言って、ぱんと自分の頬を叩いた。

 僕も原稿に集中する事にした。



 そうして何時間経っただろうか……僕の方の作業は一通り終わった。


 そして気がついた。


 いつのまにか先生が僕の横に来ていたのだ。

 先生は横から、僕の手元を、じいっと見つめていた。


 そして言った。


紅榴こうりゅう君。なかなか良いよ。」


「え、何が……ですか?」


「キミ、とても繊細で丁寧に仕上げてくれてる」


「そ、そうです?自分ではよく分からないけど」


「うん。男の人ってもっと雑にやると思ってたけと、紅榴こうりゅう君は違うね」


「ああ、そう言われてみると僕、編集の方には少年誌では繊細過ぎるかもしれないって言われて、それで黒曜こくようさんを紹介してもらったんですよ。繊細なんですかね僕」


「ね、少し原稿を任せても良いかな。キミならペン入れ任せても良いかも」


「えっ……僕が?良いんですか?」


「うん。正直時間なくて困ってたんだけど、自分でやるしかないかなって思ってたの。でも、紅榴こうりゅう君なら大丈夫だと思う」


「わ、分かりました。なんとかやってみます」


 そうして僕はペン入れを任せてもらった。

 その後更に「背景、お願いしても良いかな?」とも言われて、僕は快諾した。


 初めて来たアシスタント先でこんなに頼りにされて、本当に良いのだろうか……と言う思いと、僕は今、翡翠かわせみルビィ先生の役に立ててると言う嬉しさで、不思議な高揚感に包まれていた。


 そして僕と翡翠かわせみルビィ先生の時間は、あっという間に過ぎて行って、辺りはすっかり暗くなっていた。


 本当なら夕方に終わる予定だった。

 けど、約束の時間になった時、先生は言った。


紅榴こうりゅう君のお陰で、このまま行けばなんとか締め切り間に合いそう。でも、紅榴こうりゅう君が良ければ、もう少し手伝って貰っても良いかな?」


「もちろんです。終電まででも行けますよ。あ、そこまでは良くないですか?」


「ううん。お願い。駅まで送ってくから、そうして貰ってもいいかな」


 そして僕は延長する事になった。


 僕と先生は一旦、夕ご飯にする事になって、先生は宅配ピザを頼んだ。


紅榴こうりゅう君は何にする?奢ってあげる……て言うか、なんか紅榴こうりゅう君て余所余所しいな。下の名前は、琥珀こはく君で良いのかな?」


「そうです。琥珀こはくです」


「じゃ、これから琥珀こはく君て呼ぶね」


「え、いきなり」


「嫌なの?」


「いえ、嬉しいです……」


 僕はいきなり先生に下の名前で呼ばれる事になってしまった。


 実際は嬉しいと感じるよりも、緊張して何も考えられなくて流れに任せて答えてしまった……と言うのが本当の所だった。


 それが実感として嬉しいと感じる事ができる様になったのは、少し後の事だった。


「じゃ、琥珀こはく君、ピザ何食べたい?」


 僕は下の名前で呼ばれるのがなんだか落ち着かなくて、適当に目についたピザを指刺していた。


「意外と高いの選んだのね……まあ良いけど」


 それはカニとホタテの載った魚介ピザだった。





 アンチョビのピザを口の中に頬貼りながら食べながら、先生は言った。


「ねえ、琥珀こはく君」


「何ですか?」


「私の事は、ルビィて呼んでいいよ」


 い、いきなりお互いに下の名前で呼び合うの?

 良いのだろうか……


「良いんですか先生?」


「その、先生って言われるの私あんまり好きじゃ無いんだ。だったらルビィて呼んでくれた方が嬉しいもん」



「そ、そうですか……る……ルビィ……先生」


「もー、だから先生っての無し」


「ルビィ……さん」


「うん、よくできました琥珀こはく君」


 そう言ってルビィさんは僕の頭を撫でてくれた。



 いきなり距離感が新幹線並みのスピードで縮まった気がするのは気のせいだろうか。

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