第2話 初めて先生の家に行った日

 黒曜こくようさんは、慣れた手つきで僕の漫画原稿を素早くめくって行って、時々頷いていた。


 これは手応えあり……と言う事なのかな?と思っていた時、突然黒曜こくようさんのポケットに入っていたスマホが鳴ったんだ。


 黒曜こくようさんは、マナーモードにするの忘れてたわ。かけ直して貰うから……と言いながらスマホを取り出したんだけど、電話を掛けてきた相手の名前を見たら急に表情が曇った。


 黒曜こくようさんは、ごめんなさい、ちょっとだけ待っててもらっていいかしら……と言うと、スマホを持って何処かに歩いて行った。


 そして、髪をかき上げながら血相を変えて戻って来たんだ。


 どうしたんですか?と心配そうに瑪瑙めのうさんが聞いた。


 すると……黒曜こくようさんは、困ったわ、翡翠かわせみ先生のアシスタントさん、予定日前倒しで産気づいて急に来れなくなったの……明後日締切なのに……と言って頭を抱えて始めた。


 翡翠かわせみルビィ先生は、らぴすらずりの売れっ子少女漫画家で、僕はもちろん、その名前を知っている。


 翡翠かわせみルビィ先生の代表作、『みじんこコレクション』はアニメ化されたし、声優さんが劇中と同じ名前でユニットを組んでアイドル活動をしていて、そちらの人気もかなりのもので、ライブのチケットはオークションサイトでプレミア価格が付いているらしい。


 僕も一度アシスタント同士でライブに行った事があるけど、すごい人気だった。


 特にアメーバちゃん役の詩音しおんしえるさんは推しになりそうなくらい可愛くて……って、話が逸れてしまった。



 話を戻すと、その原作者である翡翠かわせみルビィ先生は今、らぴすらずりで『フローライトへようこそ』と言う漫画を連載しているんだ。


 そして、締め切り間際なのにアシスタントが急遽来れなくなって大変なのだそうだ。


 なんでも翡翠かわせみ先生はいつもモブや背景まで殆ど1人で原稿を描いていて、基本的にアシスタントに入るのは最後の仕上げの時だけ。


 普段は決まった人だけを呼んでいるけど、今回は元々いつも来るアシスタントの人が来れなくて、チーフアシスタントの藍玉あいぎょくすみれさん1人で全部やる予定だったらしい。


 そのチーフアシスタントさんがよりによって急に来れなくなったって事らしい。


 瑪瑙めのうさんは、助っ人で呼べる人はいないんですか?と心配そうに聞いたけど、黒曜こくようさんは悲しそうに首を横に振っていた。


 翡翠かわせみ先生の原稿はアナログで描くから、アナログ出来る人じゃ無いとダメなのだけど、今の子はみんなデジタルで描くから元々出来る人が少ないのよ……と。


 瑪瑙めのうさんは頷いて、困りましたね。ウチの編集ならアナログ出来るアシさんは何人かいますが、翡翠かわせみ先生の繊細なタッチに合わせて上げられる人と言うとなかなか……



 そこまで言って、瑪瑙めのうさんは僕の方を見た。そして言った。


 「いた!君が!」


 僕は……目が点になって、え?と言う顔をしていたと思う。

 黒曜こくようさんは、慌てて僕の持ち込み原稿を読み返すと、行けるわ!と呟き深く頷いた。


 そして、紅榴こうりゅう琥珀こはく君、貴方あなたにお願いがあるの、と言った。


 これは貴方あなたにしか出来ない事なの……と。


 僕は承諾する事にした。


 編集者2人に頭を下げられて断るなんて出来ないと言うのもあったけど、個人的に翡翠かわせみルビィ先生のファンでもあったから、先生の絵を近くで見てみたいと言う願望も間違いなくあった。


 僕が急遽アシスタントに行く事が決まってから、黒曜こくようさんはぼそっと、翡翠かわせみルビィ先生のスタジオ、男子禁制だけどしょうがないよね、緊急事態なんだし……承諾してくれると良いけど……と言っているのを僕は聞き逃さなかった。


 自宅に帰った後、正式に黒曜こくようさんから先生のスタジオの住所と連絡先がメールで送られてきて、どうやら正式に決まったんだと思った。





紅榴こうりゅう琥珀こはくです。今日はよろしくお願いします」



 そう言って僕は先生に頭を下げた。


 初めて見る翡翠かわせみ先生はとても可愛い感じの女の子に見えた。


 年齢非公開だったはずだけど、僕と同じ位の年だろうか。

 だとすると20代前半だろうか。


「と、とりあえず入って……」


 先生にそう言われて、僕は失礼しますと行って玄関を潜った。


 廊下を抜けてリビングに行くと、リビングにはいかにも女の子って感じのぬいぐるみや化粧品などに混じって漫画の本やアニメグッズやDVDや雑誌やゲームや画材やタブレット端末やアニメフィギュアや鞄や毛布や紙袋や服や服や服や服らが床やクッションの上に所狭しと乱雑にとても乱雑に散乱していた。


……お、思ってたより汚部屋だった。


まさか、男子禁制の理由ってこれかな……


 先生のスタジオは、2LDKの自宅の一部屋を仕事部屋にしていて、リビングを抜けた先にある。


 仕事部屋もいい感じに散らかっていて画材と紙とで溢れていだけど、リビングよりはマシだと思った。


 まさか憧れていた少女漫画の先生のスタジオは、普段行くアシスタント先の男所帯の少年誌の先生宅より散らかってるとは思いもしなかった。


 僕を仕事部屋に通すと、翡翠かわせみルビィ先生は両の手を顔の前で合わせて、バッと頭を下げた。


「お願いっ!この部屋の事は誰にも言わないでっ!」


 僕は慌てて両手を振りながら、「も、もちろんです!言いません誰にも」と言った。


「本当はキミが来る前に少しでも片付けようと思ったのよ。でももう3日寝てなくて、気がついたら玄関のチャイムが聞こえて、キミが来ちゃったから」


 いや、短時間で片付けられる様な散らかり方じゃないから、3日寝てないならそんな無駄な事してないで少しでも寝て下さい……と喉元まで出かかったのだけれど、言うのはやめておいた。


 代わりに僕は「大丈夫です。普段行く少年漫画のレッドタイガー先生なんて、もっと散らかってますよ。だから慣れっこになってます」と答えた。

 ごめんなさいレッドタイガー先生。本当の先生の部屋は散らかって無いですが嘘つきました。


「そ、そうなんだ……」


 翡翠かわせみ先生は、ほっと胸を撫で下ろしていた。

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