第一章 夜の逃げ道
一
一
中学三年の二学期が始まったこの日、明莉は珍しく自分の体で街を歩いていた。十九時近い街並みは暗く、闇に沈んでいる。
いつもの明莉が家を出る時間帯だ。自分の体で出歩くのも珍しいが、これほど早い外出も珍しい。
人の少なくなった商店街で、灯りの消えたショーウインドウを見れば、見慣れない自分の姿が映っている。
毛先に癖があってどうしても真っ直ぐにならない黒髪に、同じく漆黒の瞳。日に焼けていない肌と同じくらい真っ白な、着慣れない制服と通学鞄。
はあ、とため息をつく。
最悪、最低、もう嫌だ。こんな夜は早く帰ってしまおう。
そう思って、明莉は俯いたまま曲がり角を曲がって歩いていく。
瞼を閉じてもう一度開けば街灯の光が消えた。
「サイダーくらい買ってこう、うん、絶対」
月の光もない真っ暗な道を明莉はするすると歩き、目的地まで辿り着く。そこでもう一度瞼を閉じて、灯りを復活させた。
浮かび上がったのは、自動販売機だ。
通学鞄をまさぐって財布を取り出し、サイダーを購入する。それもゼリー状の、灯りのお気に入りのもの。
ごとん、と大きな音で缶が落ちてきた瞬間、明莉の頬にぽつりと水滴が伝った。
「やば」
――雨。
傘は持っていない。明莉はサイダーを握りしめて近くの公園に走り込む。あの公園には東屋があるはずだ。そこで雨が止むまで待つしかない。この街の地図は全て覚えてしまってある。
その間に雨は少しずつ街を濡らしていく。明莉は東屋のベンチに座ろうとして、そこではじめて立ち止まった。
一つしかない公園の電灯がベンチを明るく照らしている。
嫌なことは重なるもので。
先客がいた。
東屋には木の机を挟んで二つのベンチがある。そのうちの一つに、その人は机に背を向けて座っていた。
こんな日に限って……。明莉は額に手を当てつつ、その人と極力離れたところに腰掛ける。本降りになってきた雨がざあざあとうるさい。そのお陰かその人には気づかれなかったらしい。
明莉は注意深くその人を観察した。
男の人。いや、男子って言った方がいい?ふわふわとした茶色い髪が特徴的な、明莉と同じくらいの年齢に見える男子。傍らには自転車が停まっている。明莉と同じく制服姿――何だろう、見覚えがある、と明莉は首を傾げる。しかしそれよりも、この人に話しかけないといけないかもしれないのかと思うと重たいため息が出た。
仕方ない、これも役目のためだ――そう覚悟を決めた明莉の目に、突然、その人が目を合わせた。
「……えっ」
彼が驚いたように目を瞠る。本当に気がついていなかったんだろうなあと思った。しかしどうしようか。目が合ってしまった。今更目を逸らすのもちょっとできそうにない。その上、相手も目を逸らさない。
なぜだか、二人は暫く黙って見つめ合っていた。相手の目は濃い茶色をしていて、少しハッとするほど大きかった。
たっぷり数十秒ほど間を空けて、ようやく彼は口を開いた。
「えと……君、
当たっている。明莉が今帰ってきているのはこの学校からだった。この辺では有名な中高一貫校なので、制服で判ったのだろう。
そこではじめて、相手も同じ学校の制服を着ていたことに気がついた。
「……貴方も?」
ぽろりと訊いてから、明莉は心臓が激しく動き出すのを自覚した。息が詰まって呼吸が乱れる。大丈夫、今はもう夜だと、自分に言い聞かせてなんとか深呼吸する。
「そうだけど。気付いてここに座ったんだと思ったよ」
「生憎、私は今学校に行けてないので」
そこで彼は、はっと驚いた顔をした。
「もしかして、葉月明莉、さん?」
明莉はついと目を逸らした。自分から言ってしまったのでばれるのは仕方ないが、明莉はやはり不登校として有名らしい。
「貴方は誰」
言ってから明莉は唇を噛む。こんなにそっけなく言うつもりはなかったのに。でも仕方ないじゃない――いつものようなどうしようもない思考が蘇ってきた。
だって、上手く人と、話せないんだから。
その間に、目の前の彼はふわりと笑っていた。気にするふうでもないので、少しだけほっとする。
「僕は、
明莉はA組である。どうりで今日登校したときにこの人を見た覚えがなかったわけだ。
「それで。林くんはなんでここに」
「怜人でいいよ。というか、それは僕の台詞でもあるというか」
明莉はため息を付いた。これまで夜に出くわした人々から言われることは、たいてい同じだ。
「……わかってる。不登校なくらいなら、こんな時間に、出歩くものじゃない」
「いや、まあ、大体、そう、だけど」
怜人はわかりやすくまごつく。あまりにわかりやすいので思わず噴き出しそうになったが、これからしなければならないことを思い出して、笑みは引っ込んでしまった。
自分にとっては殆ど初めての役目を果たすチャンスなのである。慎重に話を進めなければ、と思うと、喉元がひくりと引きつる。
「……そこで、だけど」
「そこで、の繋ぎ方が見えないんだけど、うん」
「怜人くんは私と違って、不登校でもないちゃんとした人だと思う。夜に出歩くのには、何か理由がある筈」
恐らく、怜人は明莉に見えないと思って気まずそうに目を逸らしているのだろう。しかし明莉は普通の人よりも夜目が利くので、図星だった!と叫びそうになった。
言葉を飲み込んで明莉は口を開く。
「だから、私がその願いか悩みを聞く」
怜人はぽかんと口を開いた。
「……は……?」
「それが、私の役目」
明莉は怜人の目を見据え、自分の正体をはっきりと明かした。
「私は、
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